中型駆逐艦の失敗と白露型海防艦について
海防艦が旧式かちっちゃいとは誰が決めたのか。そんな理由だけで見切り発車した駆逐艦もどきです。
ロンドン条約下における駆逐艦とは大日本帝国海軍にとっての最大の汚点である。F45シリーズとして藤本喜久雄が設計した初春型一等駆逐艦は、一番艦であった初春が公試中に転覆、沈没した三三年の初春事件とそれに伴う藤本喜久雄の失脚により、中型駆逐艦と言う構想ごと闇に葬られることになった。
武士の蛮用に耐えない兵器は使えないと言うのは海軍の伝統的な価値観であり、繊細な駆逐艦であったF45も同じ扱いとなってしまったのである。
魚雷次発装填装置と単装砲を撤去し緊急でバルジを増設した二番艦子日が公試で異常傾斜を引き起こしたことで、一等駆逐艦(艦隊型)としての将来を諦められたのが決定打であった。
小手先とはいえ改良を行った船体でさえ一歩間違えれば姉と同じ最後を辿る可能性が指摘されたことで、彼女らは船体の改設計を諦められ上部構造の徹底的な軽量化を受けることになったのだ。
最終的に主砲連装二基四門、魚雷発射管一基三門のみを装備させた二等駆逐艦として、資材を揃えてしまっていた子日以下六隻のみを竣工させることとなった(六隻目は初春事件隠蔽のために再度建造された初春)。
ところで、当時の建造計画であるマル1計画では一二隻の駆逐艦を建造するとなっており、駆逐艦六隻分の不足と約五隻分の予算である二六〇〇万円が宙に浮くこととなってしまう。統帥権干犯問題で予算の流用にケチを付けられなくなっていたとはいえ、不適切な流用は身内の敵に次の予算を引っ張られる口実になりかねない。それにあくまで平時である以上、六隻の穴は実際に建造して埋める必要もある。実際、天津風型(初代磯風型として知られる)駆逐艦、江風型駆逐艦が退役を控えており、ポストの都合からも駆逐艦サイズの船が必要であったのは確かだった。
そこで、特型駆逐艦の設計不備を指摘した若手のホープである牧野茂を持ちだして、約四隻分の予算で六隻を建造させるという無茶を実施することになった。ちなみに、更に中抜された一隻分は黎明期の電探と新型砲の研究に流用されていた。
牧野に軍令部と艦政本部の主流派である平賀派が要求した項目は五つ。
・軍縮条約で駆逐艦に参入されない要目
・一目で駆逐艦とわかる船体寸法と形状
・開発中の新型砲二基及び電波探信儀の積載
・蒸気タービンとディーゼル機関の混載
・機雷敷設能力の確保
端的に言えば、駆逐艦の形をしていて駆逐艦ではない駆逐艦並みの砲力を有する敷設艦を、駆逐艦の三分の二の価格で建造するということであった。それも、装備が完成していないにもかかわらず、建造までを三年間で。
この計画が藤本の部下であった牧野を失脚させるためのものであったと数々の史書で述べられたのはある意味で的を射ている。だがしかし悲しいことに、これはお役所仕事の偶然が積み重なった結果でしかなかったのだ。
一つ目は初春型よりさらに劣るであろう艦を駆逐艦の少ない排水量制限に参入したくなかった軍の事情である。改装後の初春型が睦月型の半分の雷装になってしまっているにも関わらず駆逐艦に編入され貴重な枠を消費しているのに、数合わせに更に枠をとられることは許されなかったのだ。
二つ目は駆逐艦予算の振替であることから必然的に導き出された要件であった。駆逐艦に関連する船であることは、陸軍の苦情を抑えるための必須条件である。
三つ目は駆逐艦として建造しないことの言い訳に他ならない。転用予算の消費結果の提示という側面もあるが、駆逐艦装備の試験艦として誤魔化すことは半ば決定されていた。
四つ目は新型戦艦の機関論争を実証でどうにかしようとした大岡裁き的なものが降りかかってきたものである。金剛型戦艦の代替となるA140型と呼ばれる新型戦艦の機関にディーゼルを加えるか否かの議論は艦政本部内部での乱闘事件まで引き起こし、実際に混載して試験する以外の解決策を失っていたのである。
五つ目の機雷敷設能力も初春のせいではあった。初春の轟沈から芋づる式に発覚したワシントン条約対応艦の強度不足の補修費用捻出のため敷設艦沖島の建造が中止。流用以外で残った半分の予算で天龍型に新型機雷(六号)敷設能力を付与したとはいえ、両艦では予定の半数(二隻で三〇〇個)しか達成できなかったのである。
五五〇〇トン型の機雷戦装備を改装する計画は、初春型の二等化と、後半分六隻の駆逐艦外への転用による艦隊型駆逐艦の不足からほぼ全艦が水雷戦隊に編入される見通しとなったため断念された。むしろ一号機雷用の投下設備の撤去が進められ、更に一部では速射を重視して備砲が三年式十二糎七連装砲に更新される有様だった。
このあんまりな内容に開き直った牧野はコロンブスの卵を使った。失脚した藤本喜久雄を顧問に据えたことを筆頭に、旧藤本派の人材と孤立気味の若手を次々と引き込んだのである。
彼らの協力を受けてE18として設計をまとめ、結果的に建造された艦は以下の要目になる。
白露型海防艦
基準排水量:一九五〇トン(戦後再計算時に二三五〇トンと発覚)
全長:一二〇.五メートル
全幅:一二.八メートル
機関
ロ号艦本式艦二基
一号内火機関一基
艦本式タービン一基二軸(最大九〇〇〇馬力)
最大速力:二〇.〇ノット
航続距離:三五〇〇海里/一八ノット
兵装
仮称九三式十二糎七連装砲二基四門
仮称二号一型電波探信儀(後日搭載)
八一式爆雷投射機二機
九一式探信儀
仮称九三式水中聴音機
六号機雷二四発(爆雷投下軌条に排他的に搭載)
同型艦は「白露」「村雨」「時雨」「夕立」「春雨」「五月雨」。完成してみればロンドン軍縮条約の穴である二〇ノット以下、二〇〇〇トン以内の艦は制限外との規定に則り、その上限ギリギリの排水量を有したほぼ特型そのものの寸法を有する艦となっていた。
この大型の船体は搭載された新型砲と電探、対潜水艦装備、機雷戦装備など上部構造の総重量が一七〇トンに達すると推定されたことから採用されたものである。当然船体サイズと価格は一定の比例関係を有するため、特型や初春型で検討された船体の軽量化のような構造は一切採用しないことでどうにか実現したものであった。と言っても多少予算的にはオーバーしたため、流用先であった新型砲開発のうち二〇センチのもの(仮称三号砲)が完全に立ち消えとなり、四六センチの砲がその時点での砲塔設計を行えなくなるという影響は発生している。
船殻重量は排水量比では睦月型以前の水準まで悪化したものであり、特殊鋼どころか高張力鋼さえ甲板部分の最小限の使用に抑えられていた。駆逐艦と比べて軽量すぎる機関に相当する重量を確保できたことから結果的には成功と目されている。
高い凌波性は不要(流石に帝国海軍でも敷設艦を嵐に突っ込ませることは想定されていない)であったことから、当時主流のダブルカーブドバウではなく直線を一回曲げただけのシンプルな艦首を採用。長船首楼型ではあったが喫水が特型とくらべて約五〇センチ低く、艦首甲板がほぼ艦尾まで続くという特異な船体構造である。艦尾部分のみ一段(約一メートル)下がっており、その境目を非常に緩やかな傾斜がつなぐことで強度問題を解決していた。
また、機関部が独特であったことから機械室と缶室をそれぞれ左右で独立させたシフト配置が採用されている。重量増加のための苦肉の策であったという説もあるが、甲型以前の中小艦艇で最も強靭な構造を有していたのは確かである。
一方、一七〇トンに及ぶ上部構造の内の約半分を占めたのが仮称九三式十二糎七連装砲である。後に仮称が外れて制式採用されるが、この砲は二等巡洋艦以下の中小艦艇で初めて採用された動力砲塔である。構造的には八九式十二糎七高角砲を砲塔化し、砲身を三年式のものに変更したものである。軽巡洋艦の連装砲架を上回る五〇トンもの重量を有する代わりに、三年式砲と同じ打撃力を有する砲弾を分間十四発を持続的に発射できる当時としてはオーパーツと呼ぶべき両用砲であった(米海軍が対抗可能なMk.41を開発したのは十二年後、結局七〇トンオーバーという重量問題から戦艦の副砲以外では使用されていない)。
白露型はこれを艦首に一基、艦首甲板最後尾に一基の合計二基四門を有しており、真っ当な水上砲戦のみならず、対空戦闘さえも可能であった。竣工直後の白露が公試で射撃試験を行った際、実に三〇分に渡り分間十四発を発射し続けるという驚異的な記録を記録している。
これを管制する自動測定可能な射撃指揮装置はなかったものの、電探室との直通電話は搭載されていたため擬似的な電探射撃を行うことは竣工時から可能だった。後に電探が二号二型改四に更新されると統制射撃も可能となった模様である。
甲型駆逐艦以降の標準砲となったこと、大和型戦艦の高角砲として採用されたことで有名であるが、八九式砲架と三年式砲の組み合わせという発想から単装砲架型も作られ、特型以降の在来駆逐艦の防空能力の劇的な向上にも寄与している。
水測兵器と呼ばれることになる水中聴音機も竣工時から採用され、十二ノットの微速航行時には半径一キロ程度をカバーする能力を有していたという。これにより潜水艦の脅威を察知することがある程度可能となった。
凌波性や運動性を期待されていなかったことから全面溶接の採用が引き続き認められており、新技術の習熟目的で様々な経験を積み重ねた。その中には西島カーブで知られる工程管理手法のノウハウも含まれている。
この艦をとりあえず形にしたことで牧野は艦政本部が設計中であった次期主力駆逐艦計画の中核に凱旋。後の甲型を負け戦だった二次大戦を通して八隻が残存するという驚くべき生残性を有する化物に仕立てあげることとなる。
このように兵装実験艦として帝国海軍の正規艦艇に大きな影響を与えた白露型であるが、彼女らが海上護衛に与えた影響は三点ある。
第一は、その速力の遅さから最初期から海上護衛関連任務に投入され続けたことで、四二年十月までに主要航路への機雷堰の構築を成功させたことである。戦後明らかになった資料によれば、機雷によって人知れず消息を絶った南方に展開していた米英潜水艦は十五隻に上っていたという。
第二に、水測兵器と電探を併用した対潜水艦戦術の構築がほぼ戦前のうちに完了していたことである。極少数回であるが他国の潜水艦相手の訓練(実戦一歩手前)まで行ったことから、水測兵器の改善も叫ばれた。もし白露型が存在せず、本土―トラック間のリスキーな遠洋航海で四番艦夕立とUSSシャークによる擬似戦闘が行われなければ、二式水中聴音機の開発は最低二年遅れただろうとも言われていた。
第三として、彼女らの娘と呼ぶべき松型海防艦の設計・量産に際して多大なる貢献をしたことである。白露型を小型化、兵装を廉価版へ変更することを基本にした松型は四一年の設計開始にもかかわらず戦局が悪化し始めた四三年には二四隻が竣工。主要船団護衛任務を旧式艦隊型駆逐艦から回収することに成功していた。これにより四四年半ばまでは練度不十分な護衛のもとで船団が壊滅する事態を許さなかったのである。
最後に、終戦時に残存していた三隻の簡単な戦後について述べて終了することとする。
白露
終戦時高雄で中破状態(第二主砲使用不能)。現地で船体修繕・兵装封印後ルソン島からの引き揚げ事業に従事。連合軍の調査を受けた後に屑鉄として日本郵船に売却も、戦争協力で失われた船舶の補償が反故にされたことを理由に日本郵船が解体を拒否。五六年まで対馬―博多航路で使用された後、軍艦防波堤の名目で福岡市で記念艦化される。日本郵船が建造し、空母として使用された橿原丸と行動を共にしていた縁に当時の会長が入れ込んでいたという見方も存在する。
時雨
終戦時シンガポールで稼動状態。ボルネオ―ルソン島間での引き揚げ事業に従事中、コレビトール島近海で座礁。五三年にサルベージ後、マニラで解体。
戦争中に機雷戦装備を唯一撤去・魚雷を装備された艦であり、末期は駆逐艦神風とともに行動していた。第五戦隊最後の稼働艦羽黒を襲撃した五隻の駆逐艦を一方的に打ち据えて撃滅したことから、随一の武勲艦として知られている。
五月雨
終戦時上海で稼動状態。大陸派遣軍の引き揚げ事業に従事後、GHQ指定の一等予備艦として保全。五二年の海上警備隊成立と同時にFF-101の艦番号を割り当てられ編入。六三年まで横須賀にて自衛艦隊総旗艦として運用される。初期のDDはほぼすべて五月雨を参考に建造された。
旗艦解任後は練習艦としてシンガポールへの訓練航海を二度にわたって実施。六七年退役後、防衛庁管理下で記念艦となる。
戦争中期、潜水艦に襲撃された夕張の救援中に被雷し機関を損傷。修理時に新型タービンへと換装されたことで、白露型最速である三五ノットを発揮できる駆逐艦へと生まれ変わっていた。
ロンドン条約を見直すと思った以上に穴がでかかったので年代は海軍休日後半に。速力の出ない駆逐艦として作ってありますが、魚雷は機雷と高角砲の犠牲になったのだ……。
要目は陽炎型のそれをほぼコピペしてあるのですが、シフト配置や重高角砲突っ込んで友鶴にならないかは疑問。魚雷関係の重量がないので爆雷機雷を積みすぎなければなんとかなるんじゃないでしょうか。
機銃増備?バルジつけてから出なおしてください。
追記
機雷戦に関して重大な齟齬を把握したため改稿。モチーフになる艦を決定した結果、条約無視が後付されました。代わりにトップヘビー問題はほぼ解決しました。