しゃぼん玉と線路と制服
晴れた空にしては冷たい空気。と、風。体に絡んで去っていく。かたかた、と微かに動く歪な砂利。つまらない音を鳴らして、もしかしてお前も待っているのかい、と。下らない。線路は錆びていた。古臭くて脆そうな。ここを電車が走っている光景を、僕はまだ1度も見たことがない。きっとこれからもない。
線路の先を追って視線を上げる。窮屈そうな靴と、冷たい風に頼りなげに靡くスカートが視線を奪った。
「またいるの。」
呆れたように吐いた息と一緒に彼女は声を漏らした。細い声だ。もう少しで風にさらわれてしまうだろう。
「僕の勝手だろ。」
君に会いに来た。待っていた。口に出すことは、きっと彼女が許さないに違いない。興味もなさそうに来た道を戻っていく。結べもしない中途半端な髪の毛が顔にかかるのを気にもしないで。数歩歩いてこちらを振り向く。どく、と心臓が跳ねるのを感じる。再び歩き始めた彼女の背中を追った。
「いつも、ここを歩いてるの。」
真似をするように、1歩1歩ゆっくりと踏み出す。彼女の目を見ないでそう問いかけた。
「うん。」
「ここ、好きなの。」
「うん。」
「どこが好きなの。」
「うん。」
横顔を盗み見ると、子供っぽい笑顔がこちらを向いていた。また心臓が跳ねた。彼女はいつも唐突だから危険だ。少しばかり切れ長な目が僕をとらえていた。薄い唇が、まるでお手本みたいに弧を描いていた。
耳障りなチャイムの音で、はたと我にかえる。ああやっぱり。“此処”はあまり鮮やかではない。だから好きにはなれないのだ。
手に持っている本を静かに閉じる。少しだけ日に焼けたハードカバーには、それでも鮮やかな緑が散らばっていた。古びた線路と歪な砂利。リアリティーのない鮮やかさが、僕が見た彼女の世界と同じだ。
窓の外に視線を投げる。校庭では気だるげなかけ声をあげながらランニングをする人たち。それならやめてしまえばいいのに。体育教師は隅の方で大声で生徒を叱咤する。阿呆らしい。
小さな空き教室。物置として使われているらしいこの教室は、もともと何を目的として造られたのか分からない。授業をするには小さく、だからといってこうやって物置にするには少し大きいようにも思える。この教室には誰もやってくることがなかった。生徒の教室がある南館に対して、特別教室などが配置される北館のさらに奥。滅多に人が通るところではない。どうしても教室にいることが堪えられなくなったとき、決まってここにくる。そしてこの本を開く。誰も入れない、入らせない、僕と彼女の世界だ。
本の中の彼女は儚くて、可憐で、そして奔放だった。僕の日常のすぐ隣、或いは裏側。いつも彼女はそこにいた。不自然な鮮やかさで、彼女は確かに存在している。
重たい腰をゆっくりと上げた。いつまでもここにいると厄介なことになるのは知っていた。人気のない廊下を、わざとずるずるスリッパを引き摺りながら歩く。歩くにつれて、現実が近付いてくるみたいに人の声が大きくなっていった。教室に入ると、授業を受けている生徒は一斉にこちらを振り向く。そしてすぐに興味を失ったようにペンを動かし出す。鬱陶しいな。自分の感情がどれだけ他人の目に触れているのか、彼らは分かっていないし、分かろうとしていない。僕が席に座っても、授業が終わっても、教師は何も言わなかった。僕が怖いのだ。そんなようなことを聞いた。教師だって所詮は人間だ。
放課後の校庭は、さっきまでが嘘だったかのように騒がしくなる。飛び交うかけ声、巻き上がる砂埃、まるでこの世界の主人公であるかのような顔をして、大勢が忙しなく動く。僕には耳障りなだけだった。騒がしい、馬鹿らしい、煩わしい。校門へと向かう僕の足は自然と速くなっていた。
俯いてそこを通り過ぎようとすると、誰かの手が肩を掴んだ。
「ああ、やっぱり」
振り向くと、そこには見知った顔があった。名前は忘れてしまったけれど。でも僕はきっとこいつが苦手だと、直感的にそう思った。
俺のこと覚えてる?だの、家近くてもクラス違うと全然会わねえなだの、目の前の人物はそれこそこの世界の主人公みたいな顔をして並べている。僕はそれにああ、とかうん、とか曖昧に返すだけ。ああ煩わしい。早くこの場から去ってしまいたい。
「もう帰るんだ。お前部活は?」
「……入ってない。」
「嘘、勿体ないな。折角の高校生活なのに。」
悪意のひとかけらもない。それは分かっていた。けれどそうやって痛いくらい真っ直ぐで“正しい”彼に、僕の中の醜くて小さい塊がふつふつと何かを訴えて仕方がない。
「……るさいな」
「え、」
「うるさいんだよ!」
目を大きく見開いて、悲しげな顔をした彼を置いて僕は走った。何故か涙が零れそうで、流すまいとすると今度は息が上手くできなかった。溺れるように空気を肺に詰め込みながら、それでも走った。
大きく音をたてながら部屋の扉を閉める。もう既に薄暗い室内は、ひんやりと他人のようだった。息を整えながら彼女の本を取り出して、鞄はそのまま無造作に床へ落とした。静かに表紙を開く。彼女に会いたかった。
不自然な鮮やかさ。歪な砂利を踏み締めて、僕は彼女を探した。古びた線路を真っ直ぐに進む。所々割れ、欠けている枕木に何度も躓きながら、彼女を探した。
一際強い風が吹く。小さな砂利がかたかたと音をたてながら足元を転がっていくのが分かった。思わず閉じた目を開くと、そこには彼女がいた。
「またいるの。」
呆れたようにそう言う。そのか細い声色に心が震える。
「君に、」
心からするりと落ちるように、言葉にすることを止められない。
「君に、会いに来た。」
彼女は、微かに目を細めた。その小さい唇から漏れたため息が、僕の背筋を凍らせる。冷たかった風が、今度は明確な敵意をもって、僕に吹きつけているような気がした。
「つまらないのね、貴方って。」
初めて彼女が僕の目を真っ直ぐに見て発した言葉はあまりに無邪気で痛烈で、そして冷酷で。今すぐにも彼女に駆け寄ろうとしていた足はぴくりとも動かず、言葉を吐き出そうとしても開かない喉がそれを許してくれなかった。
彼女が僕に背を向けて歩きだす。風は尚強くなって、僕を阻む。
「待っ、て…僕を、置いていかないで、」
すがるように彼女に手を伸ばし、震える足を無理矢理に動かす。置いていかないで。置いていかないで。揺れる視界の中で、少しずつ彼女を近くにとらえていく。力の入らない腕を上げて、もう少しで届く彼女の肩を追う。
「っ、僕を、」
僕を、どうか認めて。
指先が彼女に触れた途端、そこから彼女が弾けて消えた。
一瞬の出来事だったはずなのに、鮮明に彼女が“割れて”いくのが分かった。最後に爪先がぷつりと消えたと同時に、線路も、砂利も、何もかも、弾けて消えた。僕は1人になった。
君に触れたかった。どうしても。
すっかり暗くなった室内は、やっぱり他人みたいに冷たい。唇から漏れるため息が、彼女のあの唇からではないため息が、しつこく鼓膜に張りついて離れない。
しゃぼん玉と、線路と、制服。
脆弱な僕と、世界と、未熟な君。
しゃぼん玉と、線路と、制服。
幻と、ノイズと、恋。