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慢心の原点

作者: 慢心の権化

2004年3月中旬の早朝、僕は寝たふりをしていて、父と母の会話を聞いていた。


「どう?まだいる?」

「いる、まだいる」

「どうしよう、どうしよう」


父はベランダの外から見える駐車場に、何台も停まっている見知らぬ車とそこから出てくる人たちが何者なのかを察していたようだった。冷えて曇ったベランダの窓に、父はべっとりと右手を付けていて、冷たいだろうな、と僕は思った。母はベッドの端に背中を曲げて黙っていたが、今にも泣き出しそうになっている顔と、への字に歪めた口元から出てくる淀んだため息が、僕をひどく苛立たせた。泣くな、感情に流されるな。母の側で、壁を向いて妹は微動だにせず寝ていた。僕と同じように、寝たふりをしていたのかもしれない。


ドンドン


ドアがノックされて、父がドアを開けに玄関へ向かった。父がベランダの窓から覗いていた人たちだ、と僕は思った。玄関へ向かう父の顔はよく見ていなかったが、情けなく腰が曲がっていたのは覚えている。玄関先から女性の声が聞こえた。たくさんの人間が僕らの小さく狭い住処に入ってきた。非日常が、僕らの日常に侵入した。もはや、父と母が何を話して、何を言われたかは定かではなく、覚えているのは、情けなく泣く父と、目を腫らせてもなお泣き続ける母と、状況を察して顔をひどく歪めて泣く寝起きの妹だった。僕は学校に連絡はするのか聞いた。彼らが連絡するそうだ。僕は泣かなかった。人間は、非日常によって日常から切り離されたとき、必死に日常に戻ろうと抵抗する。僕もきっと、無意識に抵抗していたんだと思う。だから泣かなかった。


僕の両親は外国人で、ビザもとっくの昔に切れていて、20年間の不法長期滞在をしていた。なんとなく知っていた。二人はずっと逃げていた。僕は、外国人だから逃げるんだと思った。だから自分が外国人であることはコンプレックスだった。二人はよく逃げてきたが、ついに捕まったので、僕と妹を連れて両親の母国へ帰ることになった。帰る前に、僕と妹は児童相談所という訳ありの子供たちが一時的に滞在する施設に一ヶ月ほどお世話になったのだが、そこは割愛しておく。


2004年の4月中旬の夜に、飛行機は空港に着いた。確か、空港内に入るために少し歩かされた記憶がある。なぜ、直接入らないんだろう、とよくわからないシステムに少し腹が立った。空港の外は暗かったが、どこから来るのかわからないオレンジ色の明かりが夜の空港を被っていた。空気の密度が高く、息苦しかった。空港内に入るまでの道のりの数分間は、僕の体を汗で湿らせるには充分だった。両親の故郷は蒸し暑かった。

空港内は狭かった。見慣れない顔の人たちばかりだった。茶色い顔だ。僕はこの人たちと同類なのかと思うと、嫌だった。父は機内の中で、同じく不法滞在で捕まった人たちとアルコールを摂取していたので、酔っていた。


「お~い!オレらは捕まったぞ~!」


両親は日本でも、母国語で会話していたので、喋りこそ出来なかったが、何を言っているかは理解できた。父は、僕ら家族が不法滞在で捕まったことを声高らかに、空港内で叫んだ。まだ夜が浅かった空港内には、多くの人たちがいた。この中で強制送還されたのは僕らの家族だけだろうな、情けなくて笑ってしまった。父がタクシーを呼んだ。どこへ向かうのだろう。この茶色い人たちの国に僕らの帰る家はあるのだろうか。

家ではなく、ホテルに着いた。プールのあるホテルだった。大きなベッドが三つある部屋を借りた。母がなぜ空港であんなことを叫んだのか父に聞いた。父は、防犯のためだと言った。外国から帰ってくる人間は金を持っていると思われる、そうすると、強盗に遭うかもしれない。だから、言ったんだ。なるほど、と僕は納得はしたが、父は自分の行動に後から理由を付け加えるズルい性質があったことを思い出した。家族4人でトランプゲームをした時、父はありもしないルールを急に言い出すことがあった。そのありもしないルールのおかげで父は勝った。父は自尊心の保守ために、少しズルいことをする人間だった。ホテルのテレビでは、NHKが放送されていた。少し感動したが、つまらなかったのですぐ消した。ホテルの朝食は覚えていない。シャワーを浴びた後、髪の毛がキシキシしていた。水も違うのか、と思った。


父のいとこが、大きなバンで迎えに来た。父のいとこは、なんとなく見覚えがあった。確か、僕らの家に居候していて、ホストをやっていたはずだ。この人も強制送還なのかな、と思った。父のいとこは僕らのお婆ちゃんの家に行くと言っていた。両親は、日本にいたころ、金を貯めて、母国で庭付きの一軒家を帰ってきた時のために購入していた。知らなかった。日本では貧乏だったので、持ち家があることに驚いた。門が付いているというので、大きな家を想像して期待したが、着いてみると小さく古びた平屋に、緑色の塗装が剥がれたこぢんまりとした門が付いているだけだった。家の外の奥のほうから覗く裏庭はほとんど手入れをされておらず、鬱蒼としていた。これからずっとここに住むのか、と思うと落胆した。


家の中に入るとまずリビングが出迎えてくれた。赤黒い床が目に入った。殺人にはピッタリの床だな、とおかしかった。二人がけの地味な模様のソファーに座った。大きな窓が付いていたし、開放感はあった。家の奥のほうには、三つのドアがコの字になって並んでいた。左のドアにはトイレ、真ん中ドアには祖母の寝室、右側のドアには僕ら家族の住処になる狭い部屋があった。


父の弟、僕の叔父にあたる人に声をかけられた。叔父は独身で仕事もしていなかったので、祖母の面倒を見るために僕らの家に住んでいた。日本から来たからって、特別扱いなんてしないからな、と言われた。何様だ、と僕は苛立ったが、もしかして僕はずっとこの人にいびられ続けることになるのかと思った。それは杞憂に終わった。叔父の家の中での地位は低かった。アルコール中毒で、よく父に酒を断てと説教されていた。一度は父の約束を守り酒を断った時期があった。だが、案の定父との約束を破り、父に暴言を吐いてしまった。父は激昂し、キッチンにある包丁を叔父に向けた。そのときから、叔父は父に恐怖を抱くようになった。包丁なんて女々しいな、と僕は父を情けないと思った。


僕らは母方の叔母の家へ行くことになった。叔母は小さなバッグの手作り工房を営んでいると聞いていたが、叔母の家はほとんど廃墟のようだった。敷地は広く、室内こそ、生活出来るように雑な改装がされていたが、外観はまるで戦後のようだった。ここよりあの僕らの家のほうがマシだ、と思った。


外にある大きなログハウスに招かれた。それから、ぞろぞろと母方の親戚が集まってきた。その中で、ひときわ綺麗な女性がいた。僕はすぐその女性から目を離せなくなった。綺麗な女の人がいると、母はいつも僕をからかって、話しかけてこいと促してくるのだが、今回は何も言わなかった。両親の母国では、日本と違って、従姉妹との結婚が許されていない。僕の目が張り付いて離せなくなった女性は僕の従姉妹だった。一目惚れだった。


それから、叔母の家を訪ねる機会が多くなった。従姉妹の家に泊まる日もあった。最初は仲が悪かった。僕はほとんど小学生だったので、恋愛のやり方を知らなかった。だから、意地悪をした。好きなのに悪口を言って、よく喧嘩になった。子供じみていたが、喧嘩は楽しかった。そのうち仲良くなった。


僕が13歳の頃、彼女が18歳の誕生日を迎えることになった。この国では18歳は特別な年齢で、高級ホテルのレストランでドレスを着て祝賀会を開くのだ。彼女をエスコートする役として僕が抜擢された。僕の仕事は彼女のドレスの裾が汚れないようにしたり、いつでも隣に座って彼女の要望を聞いたりすることだ。祝賀会では、誕生日を迎える彼女とダンスを踊るイベントがあった。父親は最初に踊って、兄弟は二番目に踊って、恋人は三番目に踊って、エスコートは四番目に踊る。関係性に沿って順番が変わるのだ。彼女はダンスの前に僕をホテルの一室に呼んで僕に言った。


「三番目に踊りたい?」


彼女には、付き合っている人がいた。代々医者の家系で、将来有望な金のある彼女と同い年の男だった。僕とその男の共通点は、喘息持ちであることくらいだった。僕と三番目に踊るということは、本来三番目に踊るはずだった男のプライドを砕く行為だった。


僕は、彼女の恋人の存在に嫉妬はしたことがなかった。彼女の心が僕に傾いていることを知っていたからだ。その男は、よく彼女の家まで迎えに来て、彼女と一緒に大学へ行っていた。ある朝、いつものように男が彼女を迎えに来た。僕はそのとき、彼女の寝室にいた。男が、まだか、と彼女の寝室の前で声を掛ける頃、寝室の内側では、僕は彼女のブラジャーのホックを留めていた。彼女が男と家を出るとき、僕は男に見せつけるように彼女の腕を無理矢理引っ張って、寝室に連れ込んでキスをした。従姉妹との関係による背徳感と彼女を寝取った優越感に僕は溺れていた。だから、その男に一切の嫉妬を抱くことはなかった。


僕はその男のプライドを砕いた。僕は三番目に彼女と踊った。慣れないダンスで足はもたついていて、端から見ればとても不格好だったと思う。だけど、僕はとうとう、恋人、という肩書きを男からぶんどった優越感に陶酔しきっていた。


祝賀会が終わったころ、彼女は男からもらった指輪を男に返した。彼女は泣いていた。雰囲気に流される子で、よく泣くことを知っていたが、なぜあの男のために泣いてやるのかとはじめて嫉妬を覚えた。彼女は男と別れたかったけど、男は納得していないらしかった。彼女は僕の存在を男に伝えていなかった。僕はまだ13歳だった。子供の僕と関係を持っていることが恥ずかしかったんだろう、と思った。彼女はしつこく連絡し続ける男に耐えかねて、僕の存在をついに告白した。男はそれを聞いて、セックスはしたのかと震える声で彼女に聞いた。彼女は黙っていた。やがて、電話口からむせび泣く男の声が聞こえた。男は彼女と、セックスはおろか、キスさえしていなかった。


今、彼女は別の男と結婚して、3歳の息子がいる。僕と彼女の交際期間はたった1年だった。僕と彼女がキスしているところを、親戚の女に見られ、告げ口をされ、親戚中に知られた。もう彼女とは何年も会っていないが、たまに連絡をくれるときがあった。あの一年間が、まるで何事もなかったかのような口ぶりで、夫と旅行に行くことを話す彼女は、妙に自慢げだったことを覚えている。


僕は両親の母国には、13歳から18歳までの5年間滞在した。最初の一年目は怒濤だった。従姉妹である彼女と無理矢理引きはがされることになった僕はひどく荒んでいた。インターネットでやり取りをしたり、電話をしたりすることはあった。駆け落ちの話もしたし、従姉妹同士が結婚出来る国を二人で探したりもした。だけど、いつのまにか終わっていた。ぼんやり始まった僕らの関係は、ぼんやり終わったのだった。


僕らの家に、父方の従姉妹が居候することになった。祖母が大学の費用を面倒見ていた人だった。僕は15歳で、その人は22歳だった。母親が西洋人らしく、綺麗な人だった。以前の彼女が住んでいる所は僕の家からは遠かったので、訪ねる機会は多くても、やっぱり会えない時間のほうが多かった。僕はこの国に馴染むことが出来なかったので、友達も少なかった。あの彼女以来、ほとんど女性との接触もなかった。僕は、この人と付き合えるかもしれない、と慢心を抱いた。結論から言えば、そんなことはまったく無かった。22歳の従姉妹は、大人で、僕を子供としか見ていなかった。彼女が僕を見る目には、男は映っていなかった。僕は子供だった。


日本にいたころ、僕が小学5年生になった途端、高学年の女子たちから誘われることが多くなった。周りの同学年のクラスメートの女子が僕を見る目も変わって、よく話しかけてくれるようになった。あの時の僕にはさっぱりわからなかった。日本を離れ、両親の母国に着いてから、僕は周りからジロジロ見られるようになった。二人組の女性と目が合うと、すぐに二人してヒソヒソ話が始まった。よく女性に声をかけられるようになった。両親が僕を芸能人にしてしまおうと、芸能事務所のオーディションに連れて行かれて、あるプロデューサーらしい女性が僕に、あなたは顔が良いから売れる、と言われて確信した。僕は、顔が良かったんだ。僕は慢心していた。どんな女とも付き合えると思った。だから、22歳の従姉妹とも簡単に付き合えると踏んでいた。だが、従姉妹はすぐに消えていなくなった。


僕はインターナショナルスクールに通っていたが、英語が喋られなかったし、社交性もなかったから、あまり友達が出来なかった。そのうち、クラス内での僕の、喋らないヤツ、というキャラが固定していった。でも、僕の中の慢心が絶えることはなかった。友達はいなかったが、顔が良いという自信を武器に他クラスの女子と付き合うことはあった。でも、すぐに終わった。僕は、背徳感と優越感に飢えていた。あの時みたいな気持ちいい恋愛がしたい。


17歳、この国から去る一年前の頃、僕は24歳になったあの西洋人の母を持つ従姉妹に会いに行くことを決意した。便宜上、この従姉妹のことをレネットと呼ぼうと思う。17歳になった僕は、相も変わらず、慢心の塊だった。僕はレネットのこと忘れようとしていたし、レネットが、僕の中に男を見なかったことに、僕の慢心は底深くに沈んでいた。だけど、レネットが離れてからの2年間という月日は、若い僕にとって、沈んだ慢心を浮き上がらせ、自分を大人だと勘違いさせるには充分な期間だった。


レネットの大学の費用や住む場所の面倒を見ていた祖母に、彼女は今どうしているのか聞いた。レネットのことが好きなわけではなかった。僕を男として見なかったレネットに復讐をしたかった。が、レネットはこの国にはいなかった。結婚して、夫の仕事の関係で中東にいて、子供もいるという。今、思えば、レネットとは深い関係ではなかったが、僕の前から消える女の人はみんな、すぐに結婚して子供をもうけてしまう。若い僕との不安定で崩れそうな関係性による反動かのようだ、と僕の中の慢心が言った。


僕の企てた子供じみた復讐は未遂に終わった。だが、僕の中の背徳欲求と優越欲求は燻っていた。欲求を満たすために、恋人のいる女へ近づき口説いてみた。僕は顔が良かったが、恋人のいる女にはそんなことは関係ないようで、僕になびくことはなかった。どうせ、こんな良い男にもなびかない一途な自分に酔っているんだ、と僕は悪態をついた。希に、セックスをしてくれる女もいたが、僕以外の男とも平気でセックスするような最低の売女だった。セックスだけではダメだと思った。


僕は精神的な繫がりが欲しかった。13歳のころに関係を持ったあの従姉妹と同じ、あの全てが満たされる感じが、どうしても忘れられなかった。男としての自尊心、自己承認欲求、自己顕示欲、性欲、優越欲求、背徳欲求、すべてが満たされていく感覚が、恋しくて恋しくて仕方がなかった。僕の欲求は身内の女以外では、満たすことが出来ないのかもしれないと思うと途方に暮れた。僕はまともではなくなったと思った。


親戚の女を隅々まで調べることもあった。連絡をして会うこともあったが、中々一歩を踏み出せなかった。僕の問題ではなく、女側の問題だった。この国の女はみなカトリック教徒で、倫理観が強かった。13歳のころに関係を持ったあの従姉妹は特別だったことにやっと気づいた。インターネットで従姉妹のSNSを見つけた。3年ぶりに見る彼女は、あの頃の面影はなく、ひどく太っていた。僕の母親の家系はみな肥満体質だった。彼女も、その血を濃く受け継いでいたのだった。


父が仕事でオーストラリアへ行くことになった。今度はビザをしっかり取得した。僕ら家族も、追って行くことになっていた。僕はもう18歳になっていた。僕は哲学や物理学、量子力学に興味を持った。まるで埋まることのない欲求の穴に、別の何かを詰め込んで隠そうとするみたいに、僕は知識を蓄えていたのだ。


オーストラリアへの移住は、大きな環境変化だった。両親の母国で味わったあの苦心の時間を忘れるには丁度良かった。僕は大学へ通うことになった。移民制度の整ったオーストラリアの大学では、様々な人種の生徒がいた。その中に、日本人もいた。僕は小学生のうちに、日本を離れたので、日本人との恋愛を知らなかった。なんせ、僕は顔が良い、この日本人の女も口説き落としてやろう、と僕の中の慢心はまた奮い立ったのだった。



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