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「奏子……」

「そうしたら、アル、少しは元気になれる? ずっと、具合悪そうだったから、アルのために今私ができることって考えたんだけど、これくらいしか思いつかなくて……。だから」

 だから。ここへ来たの。

 驚いたように私を見つめていたアルの体から、ゆるゆると力が抜けていくのがわかった。そしてその顔が、ふ、と泣きそうにゆがんだ。まるで、笑ったみたいに。

 

「ばかだなあ」

「ば、ばかとはなによ。人がせっかく決死の覚悟、で」

 全部言う前に勢いよく腕を引かれて、アルが両手で私を抱きしめた。

「ばかだよ。本当に、お前は」

 それきり、私達はどちらも口を閉ざした。

 時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。

 まだ、雨は降っているようだった。


「……腕、痛くなるよ。そんなに、力いれたら」

「ん……」

 そしてまた、静寂が訪れる。

 長い長い沈黙の後で、アルがぽつりと言った。


「お前は、すごいな」

「え?」

 聞き返すと、大きなため息が返ってきた。

「……お前は、乃木奏子だ。リシィじゃない。俺さえいなくなれば、もう、何の関係もないお前に迷惑をかけることもないだろう。だから、俺は国へ帰ると決めた」

 その言葉に、は、と目を見開く。

 そうよ。何度も何度も、私はリシィじゃないって言い続けてきた。それをアルが認めたのなら、もっと喜んでもいいはずなのに……

 なのに、今の私は、その言葉を聞いて、息ができなくなるほどに、胸が苦しくなっていた。

 何の関係もない。

 アルにとって、私の存在ってそんなものだったの? リシィじゃないなら、関係ないって、言いきれるほどに。

 そんな……そんな私たちでしか、なかったの? 


「そう思っていたのに……俺は、また間違えるところだったのかな」

「アル?」

 ぽつりぽつりと、アルは言葉を紡いでいく。

「俺は、本当にリシィを愛していた。愛してる、つもりだった。けれど、一族の掟だの宿命だのとごたくを並べて、最後の一歩を踏み出さなかった。残された時が短いことを知りながら、いつか……いつかは、と自分をごまかして、俺は、結局、逃げていたんだ」

 少しだけ、震えている声。それはきっと、初めて聞くアルの弱音。

 プライドの高いアルが懺悔のような言葉を口にすることは、どれほどの勇気が必要なんだろう。どれほど……傷つくことだろう。


「リシィが欲しかった。けれど、それが許されないこともわかっていた。だからあの時俺が選んだのは、彼女を一族から隠すことだった。それで彼女を守れると思っていたんだ。苦しんでいるのは自分だけだと思い込んで……奏子が何も思い出さないのは、きっと、リシィがそれを望んでないからだ。守りたかったのに、結局、俺は、彼女を苦しめただけで……何もできずに……」

 言葉に詰まったアルを、私は強く抱きしめた。

 願わくは、この人がこれ以上傷つかないように。私の全身全霊で、この人を癒すことができたなら。


「何もできないなんてこと、ないよ。アルには、誰かを守れる力がちゃんとある。だって、私は守ってもらったもの。何度も、何度も」

 体を離して見上げると、そこには笑うのに失敗したアルがいた。その頬にそろりと手を伸ばす。

 その瞳の奥で彼が求めているのが、『私』じゃないとわかっていても。

 私は、この人が好き。

 どうしたら、笑ってくれるの。どうしたら、安らいでくれるの。

 私に、何ができるの。


 微かな胸の痛みに気付かれないように、精一杯微笑んだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 ベッドに腰掛けるアルの顔は、ひざまずいた私より高い位置にあって。

 思い切り両手を伸ばしてアルに抱きついたら、アルが静かにかがんでくれた。

 時間が止まる。


 唇を離して、ゆっくりと目をあけた。至近距離に、同じように薄く目を開けたアル。

「……いいよ?」

 見つめあったまま傷のない方のアルの手を探り当てて、自分の首筋へと導く。鼓動の速さそのままに波打つ、私の血脈へ。アルが、目を細めた。


 つ、とその指が動いて、私の首筋をゆっくりとなぞりおろしていく。何かを、確かめるように、ゆっくり、ゆっくりと。その仕草に少しだけ体が震えて、私は目を閉じた。

 閉じる瞬間、確かにアルの瞳が赤く染まるのを見た。

 怖くないと言えば、嘘だけど。


 いいよ。

 あなたの、糧にして。命に、して。

 私の、血を。


 触れる唇を覚悟した私に、今日は帰って、とアルが小さくこぼすのが聞こえた。


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