- 5 -
☆
帰ろうとしたアルが、ふ、と思い出したように振り向いた。
「そうだ。明日来るときには、持ってきてやるよ。僕の描いた絵」
「出来たの?」
「ああ。本物よりきれいに描けた」
「アルにそんな描写力あったかしら?」
「見て驚くなよ」
「かわいくなかったら水浸しにしてやるから」
口の減らないいつものやりとり。言葉を返してくれる、そんなささいなことが、幸せだった。
「リシィ」
と。何かをためらうようにアルが口ごもった。
「なあに?」
アルが、私の真正面に体を向きなおす。緊張した顔で、じ、と見つめてくるアルに、私はにっこりと笑った。
「ほら、早く帰らないと、またユーキにしかられるわよ?」
せかすように言われて、アルは苦笑する。その彼が、こっそり小さく安堵の息をはいたことには、気付かないふりをした。
「そうだな。こないだのペナルティは、ギリシャ神話二十巻の書き写しだったよ」
「全部? よくやったわね」
「途中からABCの羅列にしてやった」
くすくす、と二人で笑って、アルはふわりと宙へ駆け上がる。
「確かに、あんなのはもうごめんだ。じゃ、またな」
その後姿を見送ろうとして、無意識のうちに声が漏れた。
「あ……」
「ん?」
吐息のような声だったにもかかわらず、アルは反応して振り向いてくれる。
「……ううん、なんでもない。気をつけて」
アルは、軽く片手をあげて私に返事を返すと、そのまま空へと消えて行った。
その姿が闇に見えなくなるまで、見えなくなっても、私はその場に立ち尽くしたままだった。
アルと出会ってから半年。それが短いのか長いのか、今の私には知る術もない。
でも、私にとっては、今まで生きてきた中で一番大切な、半年だった。
私は、一つだけ、ため息を落とす。
行かなくちゃ。
体をひるがえして、とぷん、と水のなかに体を沈める。私は、ゆっくりとその場所へと向かった。
湖の一番深い場所。
細く差し込む月の光が、凝り始めていた。
じ、と見つめる私の目の前で、凝った光がうつむいた女性の姿を形作っていく。
ゆらゆらと揺れるその影は、まだ透き通っていて頼りない。
「『リースリーナ』」
そ、と声をかけると、影が顔をあげる。生まれたての無垢な瞳に、私の笑みが写っていた。
『リースリーナ』は、固有名詞ではない。この湖に生まれる水の精を総称して『リースリーナ』と呼ぶ。だから、今度は、彼女が『リースリーナ』だ。
「誕生、おめでとう」
次第に鮮明になっていく彼女とは対照的に、私の姿は水のなかでほどけ始めていた。
これが、水の精の宿命。
数十年に一度、水の精たちは新しい体に生まれ変わる。古い体はすべて水へと還り、約半年ほどかけて、また新しい水の精霊が形作られるのだ。
目の前にいる彼女の体の中には、まだなにもない。からっぽな器。
彼女に力と記憶を渡す。それが、最後に残された私の役目。その役目があるから、一人残った水の精はなにものにも使役されることが許されない。そうして『リースリーナ』は、その名の通り永遠に続いていくのだ。
私は姉妹最後の『リースリーナ』。そして彼女は姉妹最初の『リースリーナ』。これから何人の『リースリーナ』が生まれてくるのか、私は見届けることができない。私は、5人姉妹だった。




