落ちゆく船では
あるいはそれは、幼く力なき少年に対する同情だったのかもしれない。
墓地の湿った空気に似ているとジェレミアは思った。
ひんやりとしていて、人の息づかいとか暖炉の温もりとかとおおよそ対極に位置する人を寄せ付けぬ雰囲気が、まだ若かりし彼にそう思わせたのかもしれない。
「………これが“正史”ですか、父上」
青年は畏怖を込めて壁をなぞった。
楽譜と呼ばれる存在があることは神学の講義で僅かながらだがジェレミアも聞き及んでいた。だが実物を前にすればその感慨もまた別物である。
「なんだ、ジェレミア。恐ろしいか?」
「…………」
鳥肌がたっていた。何か、人の踏み入れる場所ではないのだと感じられた。
答えられない息子に、父はともすれば酷薄な印象を与える皮肉げな笑みを口の端に浮かべた。
「まあ、お前の気持ちも分からんではないがな。私も初めてここに来たときは恐ろしくて堪らなかった。………だがお前は今日この日より王家が剣、フォビアーニ公爵家の当主だ。『これ』を背負ってゆくのが我らのもう一つのお役目だ」
父は語った。
この国に隠された歴史のこと。それによれば自らが国の礎となった女人、初代フクロウの血を引くものであること。フィロ王家に忠誠を捧げ、決してこれを裏切ってはならないこと。
指輪を継承し、あの頃からもうぞれだけの年月が流れただろう。
ジェレミアにはジエンほどの突出した将器も、リデル=カセリアほどの古語に対する学才もなかった。挙げられるとすれば剣の腕くらいなものだが、個人の技など人を率いるのには歯痒いほと役に立たない。
(私が守れる人間は、)
僅かだ、とジェレミアは思う。
ほんの三尺(約一メートル)四方、この剣の届く範囲だけ。
ならば、生涯この一族の傍を離れまいと、滅びゆくその時まで陛下の剣としてあろうと願った。国を守るため身を挺した祖に恥じぬ、この刃の届く限り踏み込ませぬ盾となることを誓った。
第三王子ゼーレンに手を差し伸べたのは、多分、同情もあったのかもしれない。
事を成すには中途半端で、かといって埋もれるには心がはやりすぎる。だからかつての自分がそうだったように、この場所で確たる誇りを得て欲しかった。
(そういえば、この男は迷わないな………)
青く浮かび上がる歌を口ずさむ青年の横顔に、ジェレミアはふと思った。
鬼気迫るものがある。まるで、人ならざる者の似姿を垣間見ているような。
ジェレミアは震えそうになる手を固く握り締めた。
父の言葉は今もジェレミアの胸に刻まれている。だが、この恐ろしさは当主になって子や孫を得て消えるような、生やさしいものではなかったらしい。鳥肌が立っていた。
彼はただ、張り詰めた透明感を孕んで一途に前のみを見つめ続けている。
この男の目にはどんな景色が見えているのだろうか。
ジェレミアには分からない。同情どころか同じ思いを共有するには、この青年は魅入られたかのごとく遥かなところを見つめ過ぎていた。
◇◇◇◇
強弱。
濃淡。
ときに弾み、ときに沈み、語りかけるように。
感情を廃せばその瞬間、自分はこのまま楽器になってしまうような気がした。針の上にまた針を乗せるように、一音も間違えぬよう、慎重に奏でる。
やがて、石柱の青白い光が一際強くなった。
太さ長さの異なる直線が重なりあいながら奇妙な紋様の回路を作り、不透明な石の表面を滑らかに四方へと駆け抜けてゆく。石はいつしか青年の歌に添うように共鳴していた。海鳴りのような絶え間ない調べが洞窟内を満たしてゆく。
そのとき、ふいにまた羽音のような異音が混じったかと思うと、壁を走っていた光がさっと走りだし、石柱の上部――――いく種もの貴石で豪奢に壁を彩る竜蟲へと急速に収束し始めた。
「竜蟲の、目が…………」
阿呆のように口を開いたまま、従者の少年が呟く。
「……青に、変わってゆく……」
集約する光が強くなる。血のように赤い複眼が暁の海のような不思議な色合いに溶け合い、煌めきながら少しずつ、夏空のような澄んだ青へと変じてゆく。
歌はやがて、静かに終わりを告げる。
洞窟内を支配していた光はいつしか竜蟲の眩いばかりに輝く青を残し、完全に絶えていた。
――――一拍置いて。
「……ッつ!!?」
がくんと足元から体を揺さぶる衝撃がアークを襲った。
得もいわれぬ浮遊感が、下半身から腹にまでをざわりと撫で上げる。
体勢を崩した少年が膝をつき、きょろきょろと辺りを見渡した。
「な、何だ?」
「………分からないかなぁ。貴方が望まれたことですよ? ゼーレン殿下」
青年は辛抱たまらぬというように石柱にもたれ掛かったままくつくつと笑っていた。
「この国の業を負う。殿下はそうおっしゃったでしょう。いやはや喝采を贈りたくなるほどの傲慢さだ。器に見合わぬ力で身を滅ぼす、良い例えじゃあありませんか」
「ぶ、無礼であるぞ! 口を慎まぬか」
主を庇うように細い首を伸ばして噛み付いてきた従者に青年は首を竦めた。
「慎んだところで変わらないんじゃないかな。それよりこの先どうするか……考えた方が利口だよ」
「どういう意味だ?」
アシュはそれには答えず、ちらりと貴人たちを流し見た。
「………お綺麗な手だ。殿下は縄なんかなったこともないでしょう。この世界は寒くて暗くて汚くて……………俺は多分、彼女に出会わなければ大嫌いなままだった………」
ため息のような告解は、しかしすぐに嘲る調子の毒々しい笑みに塗り潰された。
「おめでとさん。誇るといい。あんた方は世紀の瞬間に立ち会い、殿下はこのときをもって後世の歴史書に名を刻んだんだ。嬉しいだろう?」
高揚がすぅっと嘘のように消えてゆく。ゼーレンはぶるぶると唇を震わせた。
………何か、何かは分からないが、恐ろしいことが起きていることだけは分かった。自分は何か、間違えてはならない過ちを犯してしまったのではないか。不穏が黒雲のように地鳴りを轟かせて近づいてくる。
「――――ッ、答えろ狐。一体、……一体何が起きている? 貴様は一体何をした!?」
ゼーレンは訳のわからぬ焦燥のままにアシュの襟首を掴むと、腕ずくで引き摺り立てた。
子どもとはいえ、ゼーレンも今年で十三。男ゆえに力はある。げほ、とアシュは苦しげに咳き込んだ。
――――彼の予感は当たっていた。
「約束を果たしただけさ」
王族に連なる旧き血であることを示す貴色。その一つきりの瞳に宿った不敵な輝きが、少年を射る。
「この島はさ、あんたたちのような『忠義の臣』に運命捻曲げられた女と、歴代のフクロウたちの一方的犠牲の上に成り立ってきた」
「そ、それが今この場になんの関係がある?」
「まあ聞きなって。大事な話だ」
アシュはやんわりとゼーレンの手を逃れると、また凭れるように石柱に腰掛けた。
「――――さて、その可哀想な女だけど、彼女は四公家や王家の祖先にあたる国母となりながら、いつしか歴史書から姿を消した。というのも、彼女とその子孫が女神様との間である約束を交わしていたことを後の世の為政者たちが知り、その影響を恐れたからだ」
かつて、フクロウは裁定者であった。
興ったばかりの混乱の頃は人は暮らしを守り導く神のごとき絶対的指導者を必要とされていた。民を守る王の傍らにあり、王を戒め、そしていつの日か民が指導者を必要としなくなったとき、王の元を去る。それが彼女の役目で、リコとの取り決めだった。
そんな目の上のたんこぶとなった「使い」の存在を、為政者たちが恐れぬわけがない。
彼らはオウリの存在を一部の口伝のみを残し、徹底的に抹消した。そしてフクロウをアークに繋ぐ仕組みを精緻に作り上げた。
ある意味国家としてはこれほど理想的な例もない。
貴族の家に生まれたものの義務として、自ら身を捧げた少数の生け贄で天下万民の安寧を得る。パンゲアが千二百年の泰平を叶えたのも頷けよう。
外海の陸続きの地でそれこそ、幾多の国幾多の一族が栄え、滅ぼされたことをかんばみれば単一国家を一つの一族がこれほど長く統治するなど、非常に稀とさえ言えた。
「だがときは流れ、時代は変わった」
平和は畑を拓き、国を富ませた。
戦もなく腹もくちくなれば、人はやがて考え始める。
闇の向こうに怯えるだけでなく未知を秘めたるものとして、その先に何があるのかを。知識欲は、人にのみ許された業だ。 そしてそれを知るため、やがて松明を掲げ歩き始める。
時代は変わった。
「この国は物語の中に長く眠りすぎた。新しいかたちを人は求め、動き始めている。……約束の果たされるときが来たんだよ」
はっとジェレミアが面を上げた。
「まさか………」
腹が強張るような不快な浮遊感。何故この男が島を追い出されたか、まだ少年であったそのとき、彼がなんと言ったのかを思い出したのだ。
「正解」
彼は幼児のように笑った。
「俺が歌ったのはね、この船の動力を落とす歌。さっきの衝撃は島が落ちた音だろうね」
「………騙、されたのか? 私たちは………」
「人間ってのは不思議でねぇ」
青年は仄白く浮かび上がる天井を仰いだ。
「苦労して自分で手に入れた情報ほど、確かめてみたくなるんだ」
ましてや『金の矢』は、失われた超技術に血眼だった。ジェレミアが主戦派を上手く纏めてコントロールしていたのは大した技量だったが、お互いの有用性が一致したからこそアシュも最後の手札を切れたのだった。
項垂れた老臣は束の間目を閉じた。
「………これからこの国は、どうなるのだ……?」
「さてねぇ。少なくともこの島にいる留まる者は生きてはいられないね。真冬の海だけど運が良ければ岸に辿り着ける。一応、逃げることをお勧めするかな」
彼はそんなことを訊いているわけではないと分かっていたが、アシュにはそれ以上答えようがなかった。
破れば破れよ、滅びば滅びよ。
母やルルーを犠牲にすることで得た安寧の上に胡座をかく人々。だから過去にそう願った自分がいたことも事実だ。
象徴を失い、主戦力を奪われたパンゲアはかつてなく混乱し、乗じた外海諸国に形を残さぬまでに蹂躙されるだろう。
物も人も流入し、国という寄る辺をなくしたこの国の民が、これから外海諸国相手にどこまで粘れるかは未知数だ。しかし交通要衝のパイプを握っているのはやはり国内商人だし、僅かではあるが蟲なき世を渡るための船も彼らは持ち始めている。
これからどうなっていくのかは、アシュをしても分からない。
きっとこれまでと形を変えた嘆きと困難が同量程度にあり、その配分が興隆没落と呼ばれるようになるのだろう。
「……………してやる……………殺してやる!!」
突然。妙な具合にひっくり返った金切り声が洞窟内に響きわたった。
血走った目のゼーレンが豪奢な剣帯騒々しく鳴らして飾り刀のサーベルを引き抜いていた。
「私をば、ば、馬鹿にするな!! アークは不落の砦、決して貴様ごとき薄汚い狐風情に屈しない! 殺されたくなくば今すぐ止めるのだッ! これは命令だ!!」
「ちょ、王子様大丈夫? 言ってること結構矛盾してるよ? 」
「煩い煩い煩い煩い煩いッ!!」
カッと骨に弾くような短い衝撃に継ぎ、火箸をあてたような熱が額を走った。
「ッつ…………!」
鉈かなんぞで叩くような剣筋に対し剣自体が細く、また刃引きされてあったため頭蓋に弾かれ致命傷にはなり得なかったのだろう。
とっさに顔を背けたため、右のこめかみへ流れた傷は出血のわりに痛みは薄かった。
だが果たして激昂した少年がこんな一撃ごときで憤懣を収めるわけがなく、またすでに手札を全部切ってしまった自分が生かされる理由もなくなったというわけで。
背筋を冷たい汗が一筋流れる。
(あららら…………ひょっとして俺ここでなぶり殺し決定?)
走馬灯が浮かぶわけでも恐怖を覚えるわけでもなく、あまりに呆気なく訪れた終演が却って現実味をなくす。
……だが彼は次の瞬間、その冷や汗と比肩出来ぬほど驚愕に、死ぬほど肝を冷やすこととなる。
「私のアシュにぃ………――――何すんのよォおおおおッッ!!!」
いずこともなく弾丸のように現れた少女の渾身の体当たりに、一回りは大きかろうというゼーレンの体がゴム毬のように石床へ吹っ飛ばされた。
囚われのヒーローあわやというところで、ヒロイン登場。
何がどうしてこうなった。
王子については物理の実験をば想像していただければ。




