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逃走









 少女の無垢なる問いにとうとう乳談義に関する決着をつけ損ねたアシュは“黒猫亭”を抜け出し、ぽつぽつとあやしげな灯りの点る桟橋を慣れた様子で進んでいた。

 やがて青年は見るからにさびれたれかけた一艘の舟に乗り込むと、戸口に垂らされた布を捲った。


「やぁ、何でも屋のバージとトトはいるかい? 」

  奥からくぐもった返答が聞こえる。アシュは小さくほくそ笑むと背負っていた薬箱を下ろした。

「おやおや、こりゃあ珍しい客だぁ! 」

 ちょろちょろとネズミのように船倉から這い出てきたのは痩せこけた小柄な老婆だった。

 小さな、けれど隙あらば骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうという目をぱちぱちと油断なくしばたかせている。

 奥からまた、しわぶきのようなものがこだました。

 老婆はくるりと振り向くと甲高い声で船倉に向かい叫んだ。

「ほらあんた! 仕事だよ! ったく、とんだ愚図なんだから………へへっ、すいませんね。すぐ起きてきますから」

 頭頂から爪先まで素早く値踏みするような視線を走らせ、老婆は揉み手をしながらシワだらけの顔に最上級の笑みを浮かべた。

「いや、長生きはするもんですわ。こんな男前、そうそうお目にかかれるもんじゃないもの。ええ、(おんな)たちが放っとかないだろう。あたしも、もう十年若けりゃ放っとかないんだけどねぇ」

(嘘つけ)

 黄色く(やに)の付いた歯を剥き出し、へつらうように笑う老婆に、青年は侮蔑を押し隠して微笑み返した。

 切れ長の目にすっきりとした中性的な容姿は、確かに余り減点の対象にされたことはない。簡素な上着に首巻きをしているだけの格好だが、こざっぱりとした清潔感があった。

 けれどかつて港に流れ着いた死にかけのアシュを、小汚いガキだと言って蹴り飛ばしたのは他でもない十年前の彼らだ。


(時が変われば、か。まぁだからこそなんだけどね)

  それで、と老婆はちらちらと上目遣いに青年を見上げながら訊ねた。

「薬売りの若さんが、わっちらにいったい何のご用で? 」

  ルルーの澄んだライトブルーの瞳とは真逆の、猜疑と我欲に満ちた目を爛々と輝かせながら老婆は本題を切り出した。

「いや、そんな大したことじゃないんだ」

 青年は下ろした薬箱から茶色の紙包みをひとつ取り出した。

「実はちょっとした用事が出来てしまってね。カカンの港に明後日の昼までにはと約束した薬木を届けられなくなったんだ。本当なら俺が夜通し船を漕いでくつもりだったんだけど………こんな夜遅くに船を出してくれそうな者はいなくて」

「なるほど、そういうかい。でも若さん、確かにあたしらなら届けられるだろうけど………分かるだろ? 人様の出来ないことを商う分、ちょいと値がかさむよ」


 カカンはここ、マノンに程近い港町である。船を引く蟲さえ悪くなければ、夜から港を出て明後日の昼なら十分間に合うだろう。

 それでもなおふっかけようとする商魂逞しさに、すべて計算通り(・・・・・・・)にいきすぎていて、アシュはふわふわ宙に浮きそうになる心をようよう繋ぎ止めていた。

 しかしそれらをちらりとも表情に出さず、鷹揚に頷いて見せた。

「もちろん。大事なお得意様からのたっての頼みだからね。約束通り運んでくれるのなら、それなりの対価は払うよ」

 都合のいいカモを見つけたとばかりに老婆の目が輝いた。

「流石は若さん! 羽振りがいいねぇ。ならさっそく詳しい商談といこうじゃないか」

 ぼそぼそと、時折甲高い声を交えての船倉でのこの“商談”がのちどれ程の意味と効果を発揮するのか。

 今はまだ知るのは全てのからくりの仕掛人、青年ただ一人であった。










  さてアシュが怪しげな密談をしていたその頃。

 件の“黒猫亭”では乳談義に決着をつけ損ねた片割れ、カーヒルはリュートを片手に存外ご機嫌で少女との会話に花を咲かせていた。

  話す内容といえばもっぱら二人に共通する人物、アシュである。


「彼と出会ったのは彼がまだ君よりもずっと幼い頃でしてね。今でこそただの慇懃無礼に収束されてますが、当時はそれはもう尖りまくった可愛いげのない子供で本当に苦労しましたよ。レミィに一目惚れした少年を真冬の川に突き落としたり、それを諌めた私の愛器にいつの間にか海藻を張り付けていたり………ああ、食事にワライタケの粉末が混ぜられてたこともありましたね」

  ふふふ、と笑いながらもどこか遠い目をするカーヒル。

 アシュらしいといえばあまりにらしい(・・・)その情景を思い浮かべ、ルルーも思わず微笑んだ。



  その場に本人がいないとなると、噂話とは得てして通常よりも弾むものである。

 先刻、噂の張本人は少し用事があるとルルーを師に預けた。

「妙な目で見ないでくださいよ。変なこと吹き込まないでくださいよ。無闇に触らないでくださいよ」

 全く人として師を尊敬していないことが窺える厳重注意ののち、アシュは店を後にした。

 しかし手綱を放されれば勝手に歌うし、勝手に喋り出すのが詩人という生き物である。


  カーヒルの披露する蟲操りの歌を、筋がよかったのかルルーは砂地に水が吸い込むようにすぐに飲み込んだ。

 思いがけない教え甲斐のある可愛らしい弟子の出現に、カーヒルは上機嫌であれやこれやと少女に乞われるまま様々なことを話して聞かせた。

 各地への豊富な旅の経験に加え、生来の女好きであるゆえの数々の武勇伝。

カーヒルに言わせるところの「可愛いげのない弟子」ならば精々生返事で相槌を打つか打たないかだろう話さえ、全てが物珍しいルルーは時折驚嘆や質問を交えながら熱心に耳を傾けてくれる。

 そのためすっかり上機嫌になったカーヒルは酔いも手伝い、少女にアシュとの馴れ初めまでを話すに至ったという訳である。



「もう十年ぐらい前のことになりますかね。このマノンの街は西方へ行くための乗り合い船の寄港場所でして、ちょっと息抜きに波止場をフラフラしてたんです」

  波止場隅に人だかりが出来てるのを見つけたのだとカーヒルは言った。

 その人だかりの中心にいた人物こそ、アシュとレミィ、二人の姉弟であった。

 街でも滅多に見ないような上物の服は塩に揉まれてすっかりベタベタになり見る影もない。ただ彼らがアーク島から落とされた“罪人”であろうことは、誰の目にも明らかだった。

 一人の老婆がその上着すら取り上げようとしていたのだろう。

 甲高い声で早口に捲し立てていた。衆人はどうやらそれで集まってきていたらしい。

 懸命に何事か言い争う少女に庇われた少年の方は怪我でもしているのか、すっかり憔悴しきった様子で唇が真っ青にし、固く目を閉じたままだった。


「なんと言うかな…………縁だと思ったんです」

  私にもいまだよく分からないんですけどね。カーヒルはそう言って微笑んだ。

「導きとでも言いましょうか。ともかく理性とか思考とか以外の直感で、気がついたら彼らに手を差し伸べていたんです」


  吟遊詩人は各地を巡り失われた古語を繋ぐ者でもある。

 知恵は人により受け継がれるものだ。

 そろそろ老いの影を感じ始めていたカーヒルは、自らの歌や知識を伝える弟子をとろうかと考えていたところでもあった。

「結局、二人とも知恵は叩き込みましたが、技は継いではくれませんでしたがね。まぁ失われていくものはどう足掻いても失われてしまいますし、何かの拍子にまた拾い上げる者も現れるかもしれないので、あまり気にはしていないんですけど」

 カーヒルはそう言うとちょっと試すように片眉を上げた。

「何せそんな縁で私は今、ルルーと出会えたのですから」


  ――――ここから君をそんな“世界”へ、連れ出してあげるよ。

 

 ふとルルーは奇妙にして突然の侵入者と、生まれて初めて自分へと差し伸べられた手を思い出した。

 あれも、縁なのだろうか。

 偶然のようで、何かもっと大きな流れに定められたもの。

 カーヒルが姉弟に、アシュがルルーにしたように、いつか自分も誰かに手を差し伸べるような日が来るのだろうか。


  ふいにカーヒルが「げ」と明らかに嫌そうな顔をした。

「ったく、なんの話です? 」

 突然すぐ耳元で低い、少しだけ意地の悪そうな声が吐息と共に吹き込まれた。うぶ毛に掛かる生温い感覚にぞわぞわと肌を粟立たせ、ルルーは短く悲鳴を上げると椅子から飛び上がった。

 カーヒルがやれやれと両手を広げてため息をつく。

「嫌ですね。噂をすれば影、ですか」

 耳を押さえたまま振り向くと、まさしく噂の青年がすぐ背後で微笑んでいた。

「アシュ! おかえり、なさい」

「もう帰ってきたんですか? もっとゆっくりしてくればよかったのに」

 青年は不満そうに唇を尖らす師は軽く無視して、嬉しそうに飛びつく少女を抱き止めるとその頭を撫でた。

 ルルーは猫の子のように、温かな手のひらによる愛撫に目を細める。しかし妙に荷物の多い青年の格好に気づくと首を傾げた。

「用事、おわった? 」

「ああ。準備ももう出来てるし、これからすぐ出発するよ」

 青年の厚い手がルルーの小さな白い手をひょいと掬い上げた。

 そのまま強引に引っ張っていこうとするアシュにカーヒルは目を丸くした。


「これからですか? また随分と急ぎ旅ですね。夜も更けたことですし、せめて日の出を待っては? 」

「そうしたいとこですが、少し事情がありましてね」

  アシュは一瞬だけ振り向くと、小さく口の端を歪めた。

「何よりお師匠様にいつまでも預けておいたら、何を吹き込まれるか分かりませんから」

「失礼な。少なくとも君のように息を吹き込んだりはしませんよ」

「当たり前です。いい歳してそんなことしたらお師匠様の方こそ隔離ですよ」

 カーヒルはいつまでも成長しない弟子をふっ、と煽るように鼻で笑った。

「…………何ですか? 」

 アシュの問いには答えず、カーヒルは軽く自分の眉間を指で叩いた。

「いくなら笑顔で、気楽になさい。そうしわの寄った怖い顔をしていたら愛想を尽かされますよ」

 興味津々、覗き込むように見上げてきたルルーの額を軽く手のひらで突っ張ると、アシュはふっ肩の力を抜いた。


「ご忠告、心しておきます」

  緩く浮かべた笑みは、しかし今にも獲物に飛び掛からんとする獣のように獰猛で。要するに目が笑ってないのだ。

(人の話をまるで聞いてませんね)

 この街で出会った日からの十年。

 その年月ですら収束し切れなかった弟子の“相変わらず”さに、カーヒルも思わず微笑んだ。



「………でもあくまでそれは、君が本当に笑えるようになるまでの仮面ですよ? 」

  小さな店内でところ狭しと乱雑に散らばる人やテーブルを縫うように、大小二つの背が遠ざかってゆく。

 師のささやかな呟きは酒場の喧騒の中、彼らに届いたかどうか。


「運命の望むままに。月よ、彼の人を導け―――か」

  それは“月待ちの恋歌”の冒頭の一節。

 他にいくらでも相応しい門出の言祝ぎはあろうものを、今夜は何故だか口ずさむにこの歌が浮かんだ。

 詩人は苦笑しつつ杯を掲げた。



「彼らの逃走劇に乾杯! 」












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