決意
少女は探していた。
頭の奥で沢山の極彩色の虫がわんわんと羽音を鳴らして飛んでいる。
もうずいぶん前から手足の先からの感覚がない。きっと端から少しずつ壊死して、そのうち心臓まで届くんだと思う。
静かに、人形のように。
けれど時折静けさが堪らなく恐ろしくて、叫び出す。この頃では一晩中ダヴィドに抱えられたまま毛布に包まって夜を明かし、昼間にのみうつらうつらとなんとか眠る日々を繰り返している。
食事も、味や香りが分からなくなった。
焼きたてのパンも布を食んでいるようで、正直空腹感よりも吐き気が勝る。
そうしてどんどんと弱っていくルルーに部屋を訪れる人たちはひどく痛ましそうな目をして、涙を浮かべたり何事か話しかけてくる。けれど何を言っているか、耳鳴りに紛れてよく分からない。
これらの感覚に、ルルーは覚えがあった。
だから「これ」も、心さえ殺してしまえばきっと苦しくなんかなくなると頭のどこかで理解していた。
苦しいのは嫌いだ。
悲しいのも怖いのも寂しいのも、みんなみんな大嫌いだ。
……なのにまだ、探している。
ルルーに苦しいこと悲しいこと怖いこと寂しいこと。大嫌いなものをもたらしたその人を。
とても矛盾している。苦しくなくなるその方法を自分は知っているはずなのに、あとはもう壊すだけなのに。
悪戯っ子のような傲岸な笑みを浮かべたあの人が、ここにはいない。
壊せなくなるほどの切なくて優しい、きらきらした幸福な日々をくれた人。
ここにはルルーに幸せになっていいと言ってくれた、あの人がいない。
◇◇◇◇
「成る程ね」
ぼんやりと窓を見上げていた少女の背に、男は顎を撫でた。
「一通り遊んでこういうのに行き着いたってわけか。少々意外ではあるが……ふむ。眉目秀麗、骨格もよし。年は些か気にはなるが、なかなか儚げな別嬪さんだ」
「………?」
振り向くと、見知らぬ男が立っていた。
白髪の混じり始めた黒髪を綺麗に撫で付け、形のよい額の下で年齢を感じさせない黒々とした瞳が興味深げに、そしてじろじろと遠慮なくルルーを舐りまわす。その不遜さが何故だか、あの人に少しだけ似ている気がしてルルーも首を傾げたまま男を見つめ返した。
「あいつ、なかなか面食いだったんだな」
「ほらほら、ジエン。本題を忘れないで下さいよ」
「わーってるって」
次いで入ってきたレミィとカーヒルで、狭い部屋はにわかに賑やかになる。
「ろくにものも食べてないの。このままじゃ身体が持たないわ」
「ははあ、まさしく悲劇のヒロインだな。ずっとこうなのか?」
「ダヴィドが“黒猫亭”に連れて来たときにはすでに『こう』だったわ」
「過保護な兄君には、貴方に会わせるというのはなかなか苦しい決断だったようですよ」
「はあ、男どもが捨て身で取り戻したはいいが、このままじゃ姫さんも遠からず……ってことか。何とも救いのない悲恋だ」
男はおもむろにしゃがみこむと、少女に視線を合わせにっこりと微笑んだ。
「――――なあ嬢ちゃん。あんた、『アシュ』に会いたいかい?」
会いたい?
なんでこの人はそんなことを訊くんだろう。
ルルーは腹の底で渦巻く不快感に堪え、男を見返した。
ただ一人味方になってくれたあの人に。
……私を置いていった、あの人に。
チリ、と握り締めた手の中で擦れたペンダントチェーンが啼く。
「この姉さんと兄さん方がな、俺に『アシュ』のもとまであんたを連れていって欲しいんだと」
「……………」
「だが、肝心の嬢ちゃんがそんな調子じゃあなぁ」
つんと鼻を刺す煙草の匂いがぐっと近づく。
男は牙を剥く獣のように獰猛に笑った。
「哀しいか? 寂しいか? そのまま死んじまいたいか? 俺の息子はな、一人はあんたを助けるために命を懸けた。もう一人はあんたを捕まえ損ねて謹慎よ。……それなのに、あんたはまだ自分のためだけに悲劇に酔ってやがる」
挑発的な言葉と、鋭角的な敵意。
少女は、途端襲い掛かってきた肌を切るような緊張に本能的に身を強張らせた。
上っ面一枚の笑みと裏腹の、幾多の艱難辛苦を渡ってきた男の本気の怒り。かつて荒くれ者揃いの軍部を率いて戦場を駆り国内外に“英雄”と呼ばしめたジエンの威圧に、ルルーは目を逸らすことも出来ない。
「ちょ、………お父様!」
流石にやり過ぎだ。そう思わず飛び出しかけたレミィを、しかしカーヒルは肩を押さえて制すと首を横に振った。
「ここは彼に任せましょう」
「でも、」
「彼には彼の言い分があります。無償で協力しろというのは虫が良すぎる。……大丈夫。彼女を傷つけるのは彼にとっても本意ではありませんから」
「――――いいか、その都合のいい耳の穴かっぽじってよーく聞けよ、お姫様。アシュが死んだら、そりゃあんたのせいだ」
「わたし、の……?」
「そうだ。あいつはこんなとこでいつまでもぐずぐず泣いてるような、あんたのために死ぬんだ」
――――それは、行き場のない想いを堪えに堪えた慟哭だった。
後世、とある歴史家はこう述べる。アシュ、もといグリフ=ギスタフが一つの時代の破壊者であるならば、その父であるジエン=ギスタフは己が役目に微衷を尽くしたいち護衛者であった、と。
豪胆磊落を旨とするのが乱世の英雄ならば、病み弱った末世の“英雄”は、理不尽と皮肉な運命にひたすらの心力労苦をもって耐え、国を支え続けてきた者に付された名だった。“英雄”の名に拘わらず、ジエン=ギスタフという人物像の与える印象はひたすら愚直であり、言うなれば息子のような華がない。彼は柵に縛られ、まるでそれ以外の生き方を知らぬかのように日向を歩み続けた忠実なるいち護衛者に過ぎなかった。
数奇、というならばまさしくそれである。
血のなせる業か、親子でありながらまるで正反対の道を歩いてきた二人は進化の形態がより効率的な真に向かい収束するように、彼らの妙に頑なで不格好な生き方は、ある一面ではひどく似通っていた。
時代の転換点ともいえる彼女の生涯を最も数奇なものにしたのは、“革命家”と“英雄”。やはり数奇な運命を余儀なくされたこの二人に出会ってしまったことであろう。
「あ………」
大きな目を見開き、ルルーは叩き付けるような激しい怒りを込めた男の言葉を、ただただ受け止めるしかなかった。
深い闇にも似た漆黒の瞳。
しかし闇色と同時に鮮やかなほど強い光を放つ「彼」とよく似た瞳に、ルルーは声も出せずに魅入られた。
男は怯んだ少女に詰め寄り、なおも糾弾する。
「そんなに死にたきゃ、あいつが変わっちまう前に、あんた一人だけで死にゃ良かったんだ」
――――そうだ。
まったくの八つ当たりだが、何故だかその言葉は聞き心地の良い声ごとすとんと胸に落ちた。
苦しいのは嫌いだ。
悲しいのも怖いのも寂しいのも、みんなみんな大嫌いだ。
苦しくなくなるその方法を、自分は知っている。
あとはもう壊すだけなのに。
「――――だが、だがもうあんたの命はあいつに託されたもんだ。あんたが勝手に死ぬことは、この俺が許さない」
怖くて怖くて、今すぐにでも狂ってしまいたいのに、心はまだあの人を探している。
とても矛盾している、問いの答え。
「あんたは、生きなきゃならない」
ルルーに苦しいこと悲しいこと怖いこと寂しいこと。
大嫌いなものをもたらしたその人は。
「幸せになって、俺たちを見返してやらなきゃならねえんだよ。――――それがあんたのここにいる意味で、あんたの義務だ」
さて、もう一度聞こうか。
男は言葉を切り、真っ直ぐにルルーを見つめた。
「嬢ちゃんはあいつに会いにいきたいか?」
………気が付くと頬を熱いものが流れ落ちていた。
身体の芯から燃えるような熱が生まれて、溢れ出してゆく。
――――知っている。これは涙だ。
匂いも、味も、音も、色も、ぬくもりも。
(私は、知ってる………)
奪われた分まで、妙なところで律儀で優しいあの人がせっせとが掬いあげてくれた、愛おしいもの。
捨てられるわけがない。
「……わ、わた、……わた、わたし、はっ、……!」
嗄れた喉で変に裏返った声で、それでも少女は顔を上げる。
いい加減な答えならば、この男は許さないだろう。
だが、恐れるな。
あの人のいない世界に戻るくらい恐ろしいものなんてない。
「………あいたい……ッッ!!!」
もう一度。
今度こそ手を離さない。
聞き分けのよい振りなどしてやらない。
「愛してる」なんて身勝手な言い逃げは許さない。
「……アシュは、わたしのだもの……ッ!!」
男は一瞬、驚いたように目を見張り、「いいね、そうこなくっちゃあ!」いきなりからからと腹を抱えて笑い出した。
「強欲な、いい目だ。あいつがあんたを選んだのがなんとなく分かるよ」
「どういうこと?」
怪訝な顔をするレミィに男はルルーへ向かい顎をしゃくった。
「だってよ、無垢な瞳が自分だけの色で、こうも生臭く染まってくんだぜ? 男からすりゃ最高に興奮するだろ」
「うわ……最低」
「やだねこういうは浪漫っていうんだよ。なぁ、カーヒル?」
「いやそこ、私に振らないでくれますか」
「そうよ、先生にはダヴィドがいるんだから!」
「だからそれ勘違いですから!!」
ぎゃあぎゃあと言い募るカーヒル、それにひらひらといい加減に手を振って応えるレミィ。
くつくつと先程までと打って変わって愉しげに笑いながら、男はルルーに向かいしわの刻まれた大きな手を差し伸べた。
「えと、……?」
「ジエンでいい」
「わかった。……ごめん、なさい。ジエンさん」
「うん?」
しっかりとその手を握り返し、ルルーは微笑んだ。
壊れた様に涙が止まらない目にがらがらに嗄れた喉もさることながら、久々に使う顔の筋肉も栄養不足と相まって大層不恰好になっている気がする。が、この決意を告げるには他の相応しい言葉も表情も思い浮かばなかった。
「わたしは、生きる……アシュと、……生きます」
「………そうか」
「うん」
この人にとって、多分ルルーとはまた違った形で、アシュはかけがえのない大切な存在なのだろう。
だからこそ、ジエンからアシュを奪う謝意と決意を伝えておきたかった。
「分かった。だがまずはその体力回復からだな。そんな調子じゃああいつに会う前にぶっ倒れちまう」
「倒れて、も起き、上がるし、……這ってでも、会いにいく」
「ぷはッ!」
痩せこけ青ざめた小娘が幽鬼のごとくずりずりと這い進むさまでも想像したのか、ジエンはすかさず噴出した。
◇◇◇◇
――――あの頑固な息子が守りたいと思う訳だ。
花のように強かで貪欲で、美しい娘だとジエンは思った。
そのまま空気に透けていくような儚さが、生臭くも確かな生の色へと染まってゆく。……奴が惚れる瞬間が、目に浮かぶようだった。
いつも鮮やかなほど生きる強さに満ちていたあれの母親は、空の色を透かしてしまうような儚さを得て、死へ向かっていった。
彼女はいわば、未来の象徴のようにその逆を辿っている。
(ロードといいグリフといい、問題はまだまだ山積みのままなんだがな)
どうやったかは知らないがフクロウの座は今はアシュが受け継いでいるという。
つまりこの少女はまるっきりの戦力外部外者で、アシュの心を揺り動かす以外にはお荷物としか言いようがない存在。
おまけにその彼女を引率するのも、楽隠居のおっさんに、酒歌女の三悪三拍子揃えた二枚舌詩人、意地と張りがウリの港酒場の女将、無駄に完成度の高い女装癖男ときた。
(所詮、エゴでしかないのかもしれない)
それでもまだ、この老骨にも使い道がある。
馬鹿息子どもが自棄にならないよう、もう少しだけ背負ってやれるものが残っている。
――――この子はまだ、未来を見ている。
這ってでも会いにいくというその目は幼いながらもちゃんと女という狩人の目で、ジエンは堪らず噴き出す。
「いや流石は俺の息子が選んだ女! その執念深さやよし! あいつを勘当したのが悔やまれるな。しつこさには定評のあるギスタフに相応しい嫁だったのに」
かつて、鼻血を垂れ流しながら妻に喰らいつき見事引き留めた男は、積み重ねられた過去と繋がってゆく未来を慈しむように、少女の微笑みに目を細めた。




