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雪の向こう


テストの関係により久方ぶりの更新。

このまま単位さえ落とさずにすめば、次話はもうちょい早めに書くつもりです。


無事進級できるといいのですが。











 荒れ狂う吹雪の音が、ふいごのように微かな間断をつけて夜空を吹き荒れている。

 じき、夜明けだ。

 夕べから降り出した雪は一晩中猛々しく吹き荒れ、大地をまったく白へと染め抜いた。

極端なまでのモノトーンの世界。ひとひらの吐息さえ攫われるような、太陽すら見えぬのに身の締まる冬の夜明け。薄暗くも豊かで、けれど厳粛なその空気が肌に染み入ってゆく冬独特の感覚が何故だか昔から好きだった。




「うわッ、寒いと思ったら窓開けてるシ! しかも裸足っテ、外雪だヨ!?」

「――――あれ、ロキか。早いね」

 金属や輝石を幾重にも重ねたアクセサリーをジャラジャラと騒々しく鳴らしながら部屋に入ってきた青年にアシュはこっちだと軽く手を上げた。肩にかかった雪を払い、手すりから腰を上げる。

 そんな自分に彼は何かとてつもなくおぞましいものでも見たかのように、こちらへ僅かに震える指を向けた。

「アシュ、……裸足って……」

「うん?」

「馬鹿? 君馬鹿なのカイ? 早く部屋に入って火に当たらないと、凍傷になっちゃうヨ!? ああもう、真っ赤になってるじゃないカ」

「わ、ちょっ、引っ張るなって」

「君が変わり者なのは知ってルけど、もうちょっと生存本能働かせなヨ。この雪の中ずっとそんな格好してふらふらしてたのカイ?」

「大袈裟だな。ほんのこの一刻(約三十分)ばかしだよ」


 笑いながらうっすら雪の積もった露台の石の床を踏むと、ジワリと熱いような雪の感触がした。

 まあ凍傷とまでいかずとも、しもやけくらいにはなっているかもしれないな、と頭のどこかでぼんやりと思う。

 ロキに促されるまますっかり灰に変わった暖炉に火を熾し、指先の感覚が戻ってきたころには鉛のような曇り空にも微かに明るさが滲み始めていた。



「――――それで、昨夜の会談はどうだったんだい?」

「……あのねェ。君のそういうところは嫌いじゃないケド、今君に勝手に倒れられても困るんだよ。こっちは割と首掛かってるんだからネ?」

 ロキはアシュの言葉に顔をしかめると、指でつるりと己が首を撫でた。


 三日前から始まったアークと商工連との会談のため、アシュはフクロウを盗み出した時以来、実に三年ぶりにこの島を訪れてた。

 スエンニとアーク。

 後世、歴史にはほとんど残されることはなかったこの両者の会談は、しかし実はパンゲア史上には類を見ない異例の会談であったとされる。


 パンゲア貴族は、とりわけ浮遊の島アークに領を持つ大貴族たちは、その血筋のほとんどが建国期にまで遡る。逆に言ってしまえばガチガチの純血主義と選民意識に凝り固まっていて、従来の彼らと商人の関係は商売の基本である「契約」とは程遠い「命令」に近かった。

 一方、商人の方はといえば、幾多の島々からなるパンゲアで商うには蟲による交通は不可欠。蟲繰りの歌の多くをほとんど完璧な状態のまま保有する貴族の存在は、たとえ理不尽な関係でも商人たちには重いものであった。

 ともあれ両者の間にはこのような利害関係がすでに成立しており、互いにあえてこの関係を壊す故もなかったことから貴族と商人の在り方は千年以上にわたる固定化された概念として行き渡っていた。


 ところが、そこに降ってわいたのがスエンニ商工連である。

 もとをただせば内乱の折り、唯一貴族の配下から独立しえた街。堅牢な城壁で守られしかもアシュやバロットといった、「下界落ち」した元貴族も混じっているため、アークの庇護を必要としないまま悪性の腫瘍のように国内に勢力の根を伸ばし、今やアークですら迂闊に焼き払うことも出来ぬ一大勢力だ。突けばたちまち痛みをもって宿主を苛むことは目に見えていた。

 とはいえ、やはり過去の倣いというのは影響が大きく、これまでのスエンニはあくまで独立した商工連として需要があれば供給するといった立場を守ってきた。商人とは本来、権益が絡まぬ限り自ら無駄な争いはしない。する意味がない。諍いとは他人のを煽り、最大利益を吸い尽くすもの。

 だからこそ、「これまで」は両者の間にも互いに競い合わない一種奇妙な停滞が存在し得たのだが。


 しかし、商人たちの胸にはある懸念があった。

 今はいい。「下界落ち」に頼っていられるうちは。だが、彼らが死んだとき、今のような在り方がこの先永遠に続く保証はどこにもないじゃないか――――と。


 蟲繰りの歌は元々古語からなる。そして古語は元々先天的に聴覚の優れた者にのみ聴こえる音を有したものだ。

 確かに多少ずれたところで大きな問題となるわけではないのでパンゲアの交通は成り立っている訳だが、音一つで操舵の精度は格段に落ちる。

 貴族の徹底した血統主義は、結果的に「聴こえる」者たちの血を過たず残してきたわけで、その貴族から外れた「下界落ち」たちが同じように継承者を産むとは限らない。いやむしろ血が薄まる分その確率は代を重ねるにつれ低くなってゆくだろう。なまじ記録に残すことも出来ないこの微細な感覚は、途絶えるときはあっという間だ。

 そうなったとき、アークに背を向け独立したスエンニは蟲を使えなくなる。

 つまり権力に対し身を守る唯一の盾さえを失うのだ。


 



「ホイ、これがお求めノ議事録」

 ロキはばさりと粗くまとめられた紙の束を袖から取り出した。

 受け取り、素早く目を通す。 

「彼らモ運のなイ。去年の凶作に大分参ってるみたいダヨ」

「……そのようだね。ランズ豆の納入が増えたとは聞いていたけど」

「ああ!『雄はなくともなお高き、ひった屁で飛ぶハエの空』、ダロ?」

「こらこら、口が悪い。どこで聞かれてるか分からないよ?」

 けたけたと無邪気に笑う青年をアシュは苦笑して窘めつつも、否定はしない。


 ロキが口にしたのはこの頃下界の過激な改革派の間でひそかに流行っている風刺のひとつ。

 雄、とは退いた「英雄」ジエン=ギスタフ。ハエ、とは蟲とそれを操ってきた飛空蟲部隊を指す「栄え」の隠喩だ。

 アークの花形、そして王権の実働隊たる飛空蟲部隊。クリミアの内乱で、民兵という存在を許してしまって以来、この国は「戦」というものに対し変化せざるを得なくなった。荒れたその煽りの最たるを受けたのが軍部である。

 内乱の影響はとかく大きい。

 軍は平時には武器にせよそれを扱う兵にせよ、莫大な金がかかる。もちろん、弓も刀もすべて潰して解散するというわけにはいかないが、「代わり」の兵力の補充分を削減するくらいは考える。

 この場合、「代わり」とは言わずと知れた民間からの徴兵だ。

 穏健派の現国王は税の増加より、自らの手を離れ独立した勢力となりつつある空軍の、軍備縮小からの財政立て直しを望んでいる。飢饉に重ねての下手な徴税で民の不満を買うよりは、という延命措置でなんとか食い繋ぎたいのだろう。

 今のところこれらの案件は島の落下という情勢の不安定さを理由に棚上げされているが、真っ二つに割れた王と臣下の乖離を見る限りアークもそのくらい、追い詰められている。

 ひった屁で飛ぶ、とは飛行蟲部隊の食事にさえランズ豆が混じるという質素倹約で誤魔化してきた財政の破綻を揶揄したものだ。そんな財政が、ここにきて凶作の煽りを受けた火の車となった。



 

 ここで話は昨夜の会談に戻る。

 目敏い商人たちがそんな上客を見逃すはずがなかった。


 アシュが手にした議事録の内容――――それは商工連からのアークへの投資の申し出と、利子として蟲繰りの歌の恒久的提供を求めたものだ。

 不敬、というならばこれほどの不敬もない。

 歌は貴族にとっても生命線であり、それを卑しい商人があたかも貧乏人に対する悪徳高利貸しのごとく要求しているのだ。事実、穏健派の王はさておき、激昂する過激派貴族の唾を飛しての怒声が文字からでも窺える。

 下手を踏めば、今この島にいるアシュにロキ、バロット、レオニーと言った主だった執政官の面々も全員揃って仲良く縛り首。ロキの「首がかかってる」という言葉はあながち間違いでもないのだ。それどころか、そのままアークから帰ってこられない場合も考えての備えをしてきた身には、あまり笑えない冗談だった。




「それにしてモよく冷えるネ」

 青年の手の中で抱き直された白テンがぶるっと、むずがるように身を震わせた。

 温まってきた指先は関節を曲げづらく感じられるほど赤く張り、じくじくと痛痒い疼きを孕み始めていた。弓や剣のたこがあるわけでも、カーヒルのように弓弦をはじくよう整えられた爪でもない。

「………この冬は雪がよく降ったから」

「え?」

「雪がよく降った次の年は、穀がよく実るそうだよ」

 ぽつりと漏れた呟きにロキが首を傾げる。

 金の目は熾きの灯りに濡れて、きらきらと一匹の魔物のように輝いていた。


 日照りに雨雪、天の機嫌一つで多くの人が呆気なく死ぬ。

 昨年は特に多くの者が飢え、死んでいった。

 作物が実ればまた子は生まれ人は増えるだろう。

「春まで粘られると、少し厄介かもしれないね」

「けど貴族相手二短期決戦は角が立つンじゃないカ?」

 隻眼の青年は束の間残された眼を眇め、逡巡する。

「………いや、この際多少強引でもいい。体面を繕っていられない冬の間に畳みかけよう。スエンニ商工連(うち)に直接肩入れしてくれる上級貴族はいなくとも、公的な取引という形であれば向こうも喉から手が出るほど欲しいはずだ。――――やれるだろ?」

「フン、言ってくれるネ」

 安い挑発を鼻で笑い、ロキはにやりと愉しげに唇を吊り上げた。



「………じゃア会談はこんな感じ二もっていくとしテ、俺ハもう今夜は戻るヨ」

 室内の空気ももう、随分と暖かくなっていた。

 身を起こし部屋を出ようとした青年は、しかしドアを開けかけたところでふと思い出したように足を止めて振り返った。

「ところでアシュ、結局君外で何を見ていたノ?」

「うん?」

 ああ、と金目の向かう窓の向こうをみとめて、アシュは苦笑した。

「雪景色が好きなんだ」

「嘘」

「嘘じゃないさ」

「西の方角見てタロ」


 言い返そうと口を開くも咄嗟に気の利いた言葉が思いつかず、アシュは決まり悪く唇を閉ざした。

「『梟の塔』は空っぽダヨ」

「知ってる」

 吹雪で視界は最悪だった。

 けれど確かにロキの言う通り島の西の、風の合間に見え隠れするシルエットを目が追っていたことくらいは、自覚していた。


「――――ロキは、なんであんなところにフクロウを幽閉するか知ってる?」

「? 島の高度ヲ維持するためダロ」

「じゃあそんな大事なものをあんな島の端の、いかにも警備がし難そうなところに幽閉してきたのは何故だろう?」

「………………」

 彼女を連れて逃げたとき、アシュは海へと突き出すような塔の窓からそのまま海に飛び込んだ。護衛戦力を分散してまであの場所にフクロウたちを留めてきた理由。

「宗教的なもんトカ?」

「近いかも」くすりと皮肉な笑みを唇に浮かべ、吹き荒れる白に再び視線を向ける。「あそこにはさ、花が咲くんだ」

「花?」

「そう。海風と日当たりの関係でね、この島で唯一ムシヤライが花をつけられるのが、あそこなんだと」



 初めてそれを見たときには美しいと思うと同時に、まるで閉じ込めてるようだと思った。

 蟲人ならばともかく、ムシヤライがフクロウに害するものではないことはすでに実証済み。彼らがその牙を剥くのは蟲と、蟲人だけ。

 花は眠り姫を取り巻く茨のように、近付く蟲を祓い続けてきたのだろう。……そうでもなければ忠実なる蟲人、リコはすぐにでもオウリを連れ去っていたはず。

 アシュがルルーを連れたのは夏の嵐の夜だった。激しい雷雨に匂いが紛れている隙に、無理やり飛ばした雲追いで塔に飛び移った。

 ――――だが今になって考えれば、あそこは人を侵入者として想定したものではなかったのではないだろうか。



 身の凍るモノトーンの世界。

 すべてを覆い尽くす景色が、嫌いではなかった。

 あの花は、今も雪の重みに耐え、春を待っているのだろうか。

 塔の湿潤な日陰を雪のように真白な花々で蹂躙する日を、今も窺っているのだろうか。

 ――――「真実」と「善意」を隠して。


 そんなことを考えていた。






 ◇◇◇◇







 ゆるくウエーブを描く柔らかそうな栗色の髪に、優しげながらどこか妖しい微笑みを湛えた垂れ気味の目元。すらりと高い背にゆったりとした異国調の衣装が妙に雰囲気のあるイイ女。


 ………男便所に美女が入ってきた。


 制服の前を無防備に寛げたままぽかんと口を開ける野郎どもに対し、美女は陽だまりのようににっこりと笑った。




「悪いな。これからちょっと姫の救出に向かわねばならないんだ。しばらく制服は貸してもらうぞ」

 美女改め、ひん剥いた制服を纏ったダヴィドは素っ裸の男に仕上げの猿轡を噛ませると、便所の奥の用具入れに押し込みしっかりと扉を閉める。

「化粧も落としたし、かつらも外した。ま、しばらくはこれで誤魔化せればいいんだが………」

 肝心のお姫様の居場所が分からない以上、やはり手当たり次第ということになるわけだが、あまり時間はかけたくない。

「適当に使用人でも引っ掛けて吐かせるか」

 手鏡で身だしなみを整えてしまうのはもはや習い性である。鏡の向こうに微笑む中性的美青年に隙はない。

 廊下で行きあった年若いメイドはやや頬を赤らめながらも、離れではないかと明かしてくれた。


 

(それにしてもでかい屋敷だ………)

 歩いても歩いても続いてゆく廊下に溜息が出そうになる。所々に飾られた調度品といい、四大公爵家というのも伊達ではないのだろう。

 眠らせてきた屋敷の主もしばらくは大人しくしてくれていると思うが、あの薬の効果は精々半日ばかしである。ロードの目が覚めたとき、この複雑に入り組んだ屋敷は地の利無き侵入者であるダヴィドには少々厄介だ。

 早いところルルーを見つけてずらかりたいのだが………

(さて、どうしたものかな)

 いつまでもうろちょろしている訳にもいかないしと顎を撫でたところで、ダヴィドは廊下の向こうに感じた人の気配にふと足を止めた。

 ダヴィドと同じ制服をきっちりと着こなした男が二人、日当たりの悪そうな石壁に倣うように背筋を伸ばして立っている。

 彼らに挟まれるようにして閉ざされた扉。こんなうらびれた場所に持ち駒を割くということは、あの扉の向こうにルルーがいる可能性が高い。

(二人か………)

 なかなか面倒だ。奇襲で片方倒しても、もう片方に人を呼ばれてはもとも子もない。

 ……しかし、やってやれないことはない。

 距離の目算をしつつ、彼らを出来るだけ静かに落とすべく呼吸を練る。


 「おおい! 大変だ!」

 慌てたように駆けてきた青年に、扉を守っていた男たちが警戒を孕んで振り返る。

 「止まれ! ……誰だ、見ない顔だな?」

 「新人です。それよりモリスさんから、急ぎの伝令です!! 旦那様が賊に襲われ意識不明、至急要人の確認をされたしとのこと!!」

 「何!?」

 敬礼するなり早口でまくし立てる若者に、男の一人が目を剥いた。

 ちなみにモリス先輩は便所の用具入れで眠って頂いている。

 「どういうことだ!?」

 「いえ、自分は現場に居合わせていなかったので詳しいことは何とも………」

 「チッ! おい、」

 「ああ」

 「新人、お前も一応来い」

 「はい」

 見張り二人は頷き合うとおざなりなノックののち、荒々しく扉を開いた。

 部屋は次の間らしく、簡素な椅子とテーブルが忘れ去られたように置かれ、奥に扉が続いていた。

 「……特に異常は無さそうだが」

 「まだ分からん。お前は寝室を見て来い」

 相方が背を向けたところで、男はすっとダヴィドの背後に回った。


 「――――ところで新人」

 「何でしょうか」

 「ギスタフの屋敷の者はロード様を『旦那様』ではなく『若様』と呼んでいるのを知っているか?」

 「っ!!!」

 

 膨れ上がった殺気に、ダヴィドはとっさに横へ跳ねた。

 背を向けていた男が相棒と抜き合わせるように、振り向きざまに抜刀する。

 「ふ、女のような面の割にはいい反応………ダッはァ!!?」

 「私も男の急所って分かりやすくていいと常々思うよ」

 男は転がりざまに蹴り上げてやった股間を押さえ、台詞を皆までいうこと叶わぬまま崩れ落ちる。

 「きっ貴様ァァッ!!!」

 「っと、危な」


 切り下げてきたサーベルを寸でのところで躱し、躱しざまに懐のスキットルを投げつける。

 狙いは目だ。

 しかし、あちらもそのくらいの反撃は予測していたのか、返す刀で真っ二つに叩き割った。

 銀製のスキットルが、文字通り真っ二つである。

 きらきらと弾け飛ぶ褐色の酒精(アルコール)の向こうで瞬きすらせず構え直す男に、ダヴィドは呆れた。

 「ほう……兄さん、大した腕だな」

 「殺しはせん。……が、手足の一、二本は覚悟しろよ」

 「断わる。そんなことすれば可愛い妹たちが泣くからね」

 「ほざいてろ!!」

 男が裂帛の気合いと共に踏み込む、と同時にダヴィドは素早く机に置かれた燭台を払った。



 「モリス先輩はなかなかのウワバミだったようだ」

 刹那。

 酒精(アルコール)に引火した炎が舐めるように床を這い、天井を焦がした。


 突然吹き上がった炎に、驚いた男がたたらを踏む。

 酒に含まれた酒精の度数など、たかが知れている。炎の激しさも精々始めの一瞬である。

 だが、その隙をダヴィドは見逃さなかった。

 炎幕に突っ込むや武器を蹴り上げ、背後へ素早く回り込む。そして男の首に回した飾り紐を握り、そのまま背中合わせで背負うように、ぐっと渾身の力を込めた。

 「ッ、…は…………」

 微かな衣擦れと、バリバリと男が声も出せず首に巻き付いた紐を掻き毟る音だけが部屋に響く。

 「……、………」

 音がゆっくりと、弱くなる。

 部屋を支配する音が完全にダヴィドの呼吸だけとなったとき、背中はずっしりと重くなっていた。

 汗を拭い、背中から降ろしたやつを手早く縛り上げようとしたところで、止めた。もう一人の股間を押さえたまま泡を吹いている方だけ、簡単に拘束する。

 「………はやく、行かないと、な」

 ルルーはきっと不安に駆られているだろう。

 あの子だけ連れて、早くこんなところ逃げ出してしまおう。

 いわれなき運命に潰されてしまう前に。




 

 薄暗い部屋の遥か高きに、小さな窓が雪の吹き荒れる空のぼんやりとした薄明りを灯している。

 高く灰色の石壁。

 粗末で最小限の家具。

 

 停滞した空気の中に甘酸っぱいような、胃酸の臭いが籠っている。

 扉を開くなり、青年は束の間立ち尽くした。

 「……ルルー………?」

 食べさせても食べさせても大きくならなかった、華奢な小さな身体。

 「それ」を理解した瞬間、自分の視界が真っ赤に焼き切れるのをダヴィドは感じた。


 恐れていた、最悪の光景。

 まるで身を守ろうとする獣のように小さな身体を更に小さく縮めて、彼女は冷えた石畳に転がっていた。







 ◇◇◇◇










 日も高く昇り始めた頃になると、雪もだいぶ小降りになり始めていた。

 ちらちらと舞う風花が目に眩しい。


 「主様」

 ロキが去ったのち、暖炉でゆったりと手足を伸ばしていたアシュはめくっていた議事録を戻すと顔を上げた。

 険しい顔つきで現れたフェムトに、胸を不穏な予感が過る。「これを」と老執事は小さな結び目を作った紙を差し出した。

 「これはいつ?」

 「ほんの今しがた。昨日スエンニに戻ってきた“砂”の者からです」

 「……ッ!!? 貸せ!!」

 ひったくるようにして密書を奪い、震える手でなんとか開く。

 走り書かれた乱雑な文字を追うほどに、自分の血の気がみるみると引いていくのが分かった。



 「ルルーが………ギスタフの小倅に攫われた………?」


 









ここまでお読みくださりありがとうございました。

クライマックスに向けてもうひと踏ん張り。


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