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空と悪







 「貴女様は、ここから出てはならぬのです」


 これは、どこの光景だろう。

 昼なお薄暗い石造りの壁に囲まれた小さな部屋。巫女のような奇妙な服を纏い、老女たちに傅かれるのはまだ十にも満たない幼い少女だった。

 小さな背丈に不釣り合いなほど長く伸ばされた髪を、老婆は丁寧に梳いてゆく。

 「貴女様は女神の御使いたる銀のフクロウ。“天涯の月”を宿す御方。下界に下りることは叶いませぬ」

 ふうん、と彼女は取り敢えず頷いた。


 石壁に一つだけある嵌め殺しの窓。その向こうには小さく、けれど遥けく高い空が広がっていた。

 何があるのだろうと聞いただけだったのだが、結局またいつもの説教になってしまった。

 ここからは出れないことくらいわざわざ言われずとも、もうずっと前から知ってるのに。面倒だな、と少しだけ思う。

 自分はここしか知らない。

 だからここが彼女の世界のすべてだった。

 私の世界の、すべてだった。







 ◇◇◇◇






 始めは、迫りくるようにそびえ立つ石壁の圧迫感に感じた小さな違和感だった。


 「………なに、これ……」

 ちり、と握りしめた拳の中で銀の鎖が擦れ合い、悲鳴を上げる。

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 いつの間に部屋を発ったのか、ロードの姿はすでにいない。窓の向こうではすでにすっかり夜も更け、微かに粉雪が舞い始めていた。

 逃げ出すための何か手立てを講じなければと思うのに、身体は凍り付いたように動かなかった。

 (……この国は、また沢山の人が死ぬの? 私のせいで……?)

 悪い夢を見ているような気分だった。

 いや、もしかしたらその逆なのかもしれない。幸せな夢から覚め、途方もない現実に一人、いきなり放り込まれてしまったかのような。


 小さな部屋。

 フクロウと呼ばれる少女。

 この部屋と同じ、嵌め殺しの小さな窓。


 カタカタと先程からずっと指が震えている。

 閃光のように、ふいに脳裏に弾けたその光景に冷や汗と震えが止まらなかった。

 (……わたし、知っている……)

 あの景色を、もっと触れられるほどに、ずっと近いところで。

 私は兄さまの妹ではなかった。あの街に私の過去はない。

 私は彼女だった。

 あの少女――――眩い銀の髪の人形のように感情を殺した彼女の顔は、紛れもなくルルーのものだった。

 (嫌だ、いや……あそこにだけは戻りたくない……ッ!)

 それは自己犠牲という言葉などでは到底昇華され得ぬ、深層に刻み付けられた嫌悪だった。

 理屈や理性ではない、それはもっと根底の、血肉に染みついた恐怖。

 ――――おやすみ。

 もう夢の中でしか会えないはずのあの人の声が、不快な雑音を交えて被さる。いやだ、聞きたくない。

 だがそんな思いと裏腹に脳髄はほつれて内から溢れ出し、むせ返るような花の香りが目茶苦茶に頭蓋を叩く。

 心因性のものか肉体的なものかは分からないが、頭が割れるように痛い。

「やめて………」

 私は、何?

 兄さまと姉さまの妹ではない私は、あそこから逃げてきたの?

 あの狭い部屋から。あの石の壁から。小さな空から。だとしたら、なんて罪深い。

 一人の犠牲で一国が守られるのならば、自分は胸を張って選ぶべきなのに。本当に兄さまと姉さまの妹なら、分かり切った答えのはずなのに。

 私は兄さまのような優しい他の誰かが傷付くかもしれないにも拘わらず、自分のためだけに逃げたのだ。


 ――――全部忘れるといい。


 次の瞬間。

 脳裏を取り巻いていた白い靄が、亀裂と共に弾け飛んだ。

 コマジカの背から見渡した山々。蟲の上げる水飛沫を浴びた船端。着飾った人々の行き交う艶やかな夜 景。そして――――

 馥郁たる香りをたたえ真白な花々に守られた、泉。

 弾け飛び、降り注ぐそれはまるで砕け散った薄い硝子片のようだった。

 きらきらと胸が切り付けられるような切なさと共に輝いてやまぬ「過去」に、ルルーは呼吸を忘れた。

 「あ、ぁあぁぁ、あ、」

 アシュの右のまぶたから赤い血が涙のように止めどなく流れ出ている。泉に泳ぐその髪はとうとう“天涯の月”を盗み遂せたことを証明する、冷たい寒月のごとき白銀。

 ルルーの知る限り誰より賢いあの人が、自分の選択の意味を分からぬはずがない。それでも、「君に賭けるよ」と。彼はそう言った。


 あの人は本物の悪党だった。

 国を捨ててもルルーのためだけに手を伸ばしてくれた。

 フクロウでしかない自分に「(ルルー)」の名を与え幸せになればいいと赦してくれた。

 たった一人の「悪党」だった。


 涙があふれて止まらない。

 ぐらりと傾き迫った床に手を突くと、少女は耐え切れずそのままえずいた。

 ――――愛してるよ、ルルー。

 自らの名も肉体も賭して、ルルーの欲しい言葉も感情もぬくもりも、惜しみなくひたすら与え続けた。そして最後には、言い逃げのような言葉だけを残して去っていった。答えすら求めない、ただ無償に捧げ続ける。

 恐怖も、愛しさも、虚しさも、恋しさも。あらゆる感情がない交ぜになってひとつの奔流となり脳髄を焼き切る。少女の心の許容を遥かに超えた熱量に、どうすればなんてもう考えられなかった。

 「……ア、シュ…………」

 視界が暗くなる。夜の闇が、すぐ足もとまで浸していた。口の中に残る胃酸の臭いさえ、遠のいてゆく。




 たすけて、アシュ。

 一人ぼっちはこわいよ。









◇◇◇◇






 (これはまた……随分と若いな)

 

 簡素なベッドに手足を放りだして転がったまま、億劫そうにまぶたを上げたダヴィドは、現れた青年――――ロード=ギスタフを胸の内でひそかにそう断じた。

 年の頃はダヴィドより下か、アシュとそう変わるまい。日に焼けた精悍な顔立ちは、しかし武骨さよりもどこか育ちの良さを感じさせる。

 ギスタフは代々優秀な軍人を輩出してきた家だ。養子としてそのギスタフに入ったからにはこの男もまた、傍系ながらその血を継いでいるのだろう。

 ……もしも、あいつが何事もなく成長していたら、丁度この男のようであったのかもしれない。


 「気分はどうだ? ダヴィド=メガス」

 「………生憎だが、俺はもうメガスの家は出ている。気分なら最悪かね。その名は好きじゃないんだ」


 気だるげに身を起こした麗しい囚人の、場違いなほど低い男声に、壁際に立っていた見張りの兵の一人が微かに身じろぎした。

 彼が何を勘違いしていたかは、経験則で大体予想が付いた。恐らくこの姿との違和感に驚いたのだろう。

 もともと身体もそう大きくはないし、ゆったりとした砂漠の衣装は総じて体型が分かりづらい。ましてやダヴィドは女装のまま連れて来られ、必要以外は喋ることはおろかろくに動くことすらしなかった。余程のことでなければ男とは見抜けない。

 あざ笑うように薄く流し目を送ってやれば兵は決まり悪そうに真面目な顔で唇を引き結んだ。


 「そうか。なら、ダヴィドと呼ぼう」

 「お好きなように。閣下」

 「……随分と機嫌が悪そうだな。面会を求めていると聞いたのは俺の空耳だったか?」

 「突然妹と引き離されこんなところに閉じ込められて、それでもなおご機嫌な奴がいるというならぜひ会ってみたいくらいだよ。説明のひとつも求めたくなる」

 「自分の命を懸けても?」

 「…………」

 トレーに乗ったまま手つかずの食事を見やりつつ、青年は嘆息した。微かで清涼な音と共に水差しからグラスへと注がれる煌めきをダヴィドはじっと眺めたまま、動かない。

 「死にたいか?」

 「まさか」

 「だが貴様のそれは緩慢な自殺と同じだ。『妹君』が大層気に掛けていたぞ」

 探るような視線のままグラスの水を干すロードに、ダヴィドは訝しむように目を細めた。

 「どうせ大火で拾った命、惜しむほどのものではない。だが、…………あの子が悲しむから、せめてこの状況の理解に努めている。それだけだ」

 「それはまた、随分と対価の差が大きすぎる賭けだな。ならもし俺が来なければ、本当にこのまま渇き死ぬつもりだったのか?」

 「さて、な」


 毒見は済んだと言わんばかりに突き出されたグラスを、ダヴィドは肩を竦めて受け取った。

 本来、他家において飲食物を拒むのは毒を疑うともとられる無礼であり、ひいては無言の抵抗の表れとされる。だが、さらにその家の当主がそれらの食事に先に口をつけるのは身の潔白と誠意を示す、という証明にあたる。

 (………解せん)

 フクロウというのは常にパンゲアに一人、生まれてくる。それは逆に先代フクロウを殺して、新しく誕生したフクロウを連れてくることも出来る、という意味だ。けれど、この男はそれをするつもりはないらしい。

 そこが分からないのだ。

 どう探し当てたかは知らないが彼女がフクロウということはばれている。兄妹というのも、信じてはいないだろう。それでも、まるでルルーに何かを強いるための人質のように、下手に出てまで生かそうとしている。 


 彼にとってのダヴィドの価値はルルーの『兄』ということだけ。だが今は一囚人に過ぎない自分にここまでするということは、それだけ背後に控えたルルーの存在を重く見ているということである。

 ロードというこの男は、一体何をどこまで把握しているのだろう。

 港での口振りからすると、以前にどこかで彼女がフクロウであることを知っている。だが、アシュがフクロウとなった今、ルルーにその力はない。それをこの男は知っているのだろうか。

 ルルーにまだ何か自分やアシュの思いつき得なかった価値を見出しているか、あるいは――――

 


(まさか、島の落下が止まっている……とか?)


 もう一つの可能性。

 それはフクロウたるアシュが、この島にいる場合だ。

 知らせを受けてすぐ乗り継ぎながら雲追いを飛ばせば、ありえないことはない。

 (厄介だな)

 ルルーの記憶は、何を引き金に蘇るか分からない。

 この男が余計なことを吹き込む前にせめてこの状況を脱すには、どうあってもアシュの協力が必要だ。しかしそれは彼女の記憶の引き金に触れる可能性がある。

 (少し、探りを入れてみるか)

 幸いまだ、時間(・・)はある。

 湿りの少ない舌で乾いた唇を薄く舐めると、ダヴィドはグラスを傾けた。



 「――――“月盗人”とあの子の記憶について、」

 こぼされた呟きに、ロードの眉がピクリと反応する。

 ああ、この男はすでにルルーが記憶を失っていることを知っている。ダヴィドは確信した。

 「聞きたいかい?」

 「………お前たちは下がれ」

 振り向き、さっと手を振ると従者や控えていた見張りたちは目礼と共に退出する。

 たっぷり扉のしまる音を確かめてから、青年は真っ直ぐに向き直った。

 「察しがよくて助かるよ」

 彼らの忠誠やこの男の求心力がどこまでのものかは知らないが、人がいると少し拙い。それに平和ボケで油断していたとはいえ、自分を捕えたこの男とはサシで話をしてみたかった。


 「と、その前に。私もひとつだけ聞かせて欲しい」

 「……何だ?」

 「これでもなかなか上手く隠れていたつもりだったんだがね、どうやって見つけた?」

 「ああ、それなら別に難しいことじゃない。二年半前、俺はスエンニで彼女と奴に会っている。髪は染められている可能性があるから瞳の色と外見、年の頃で国中総当たりの名簿を作らせた」

 「………それはまた、随分と強引だな」

 ダヴィドは些か呆れたように嘆息した。

 どれほどの労力と財力をつぎ込んだのか、想像するだに頭が痛い。四大公爵家だからこそできた力技だ。

 「阿呆な貴族が女漁りに馬鹿をやるのは、なにもそう珍しくないだろう? 」

 「まさしく馬鹿と紙一重、という訳か。抜かっていたね。君もまたギスタフに連なる者ということか」

 「すでに陪臣たちの間では色ボケ若様の名を頂戴しているらしいがな」

 自嘲気味に唇を吊り上げる仕草は、やはりどこかアシュを彷彿とさせる。同じ型から作られた人形のはずが、ひとつひとつまるっきり表情が違って見えるのに似ていた。


 「俺が彼女に関して把握していることは、そう多くない。彼らの行方についても、フォビアーニ卿の手から逃れた後絶えた。……一体あの後、何があった? 何故忘れた?」

 「始めに断わっておくが――――どうやって、という質問には生憎立ち会っていない私は答えを持ち合わせていない。私自身、未だ信じがたい話だったからな。……だがあの男は彼女を託した去り際、『封じた』と言っていた」


 壁の向こうに消えた少年、片目を失ったアシュ、彼が気を失ったままの小さな少女を残し去って行ったこと。ダヴィドは場所こそ明かさなかったが神殿での己の見たままの光景と、戻ってきた彼らの言葉を掻い摘んで話した。

 嘘はなかった。

 ダヴィドはあの時、扉の向こうで彼らが何を見、聞いてきたのか具体的なことは何一つ知らない。


 「………信じられん」

 「だが事実だ。あの子の記憶は失われたわけではない。ただ、思い出せないようにしてあるらしい。だから私も彼の言に従い、記憶の障りとなりそうなものはすべて排除し、あの子の目を覆ってきた」

 「いや、この際方法はどうでもいい。だが分からない。どうしてわざわざ記憶を封じる必要があった?」

 「どうして、だって?」

 心底理解できない、という顔をする男に青年は刹那、蔑むように目を眇めた。こんなにも悪意や害意、殺意といった負の感情に浚われたのは久しぶりだ。

 同時に、やはりこの男はアシュと同じわけがないと再認する。

 この男の根底にあるルルーはフクロウと同義でしかない。

 フクロウという生贄の本当の惨たらしさを、この男は理解していない。

 「壊れてしまうからさ」

 告げられた言葉にきょとんと呆けたような顔が、その事実を何より如実に物語っていた。





 ルルーはアシュを失ってから、三晩に一度は魘される。


 フクロウとしての歪な暮らしが幼かった彼女の心に何の傷も残さなかったはずがない。

 「普通」の暮らしに近づくほどに、突きつけられる自身の歪。ときに数十年の隔てを超えて心の傷は再発することをかんば見れば、発狂してもなんらおかしくはなかった。

 恐らくこれまではアシュの存在そのものに無意識のうち抑え込まれて表在化しなかったのだろう。 

 奴もそれを認識した上で徹底的に彼女の記憶を封じ、過去を結ぶ痕跡を消し去った。

 おかげで昼間は、彼女は何も覚えていない。けれど未だ魘された夜には必ずといっていいほど、白い霧に囲まれた「夢」を見るのだ。

 夢は昼間の記憶の整理と再生を司るというが、あの小さな胸に受け入れきれないほどの虚無を、彼女は未だ抱え込んだまま、繰り返している。何度も何度も。

 あの夢は、一種の封印だ。

 穏やかな日々は累卵の危うきの中、アシュの残した封印により辛うじて保たれているに過ぎない。

 多くのフクロウたちが辿った末路。あの子の未来をそんなもので苛みたくはない。



 「消えた記憶には消されたなりの意味がある。……私とアシュがどれほど心を砕いてきたか、君には分からないだろう。だがもし、現時点でフクロウを失いたくないのなら、くれぐれもあの子に過去の片鱗なぞ見せないことだ。壊れ始めたらもう、あっという間だ」

 「…………?」


 攻めるは易いが、守ることは難しい。

 失えば戻らない。

 青年の様子を見るに、すでになにがしかの情報は彼女に与えてしまっているのかもしれないが、まだ、最悪の事態にまでは至っていないらしい。

 「――――ところで、気分はどうだい?」

 眉をひそめて額を押さえた青年に、グラスを弄びながら麗人は優雅に微笑んだ。

 「私の贔屓にしている薬師のお勧めだ。色も匂いも味もない。効き目が少し遅いのが難点だが………非常に強い」

 「……ッ! まさか………」

 ロードの視線が水差しに、そして自ら口をつけたグラスに注がれる。

 「袖に一服仕込むのは、何もあいつだけじゃない。君が人払いをしてくれていて助かったよ」

 コトリとトレーにグラスを戻し、ダヴィドはゆったりと立ち上がった。


 自分は貴族ではない。だがそのしきたりはたった一人の妹の助けになりたくて、必死に身に着けたものだった。

 死ぬのは恐ろしくない。妹たちには叱られるかもしれないが、それでももう一度会いたいという思いはまだ残っている。この先も多分、一生消えないだろう。

 「しかしあんな無駄知識と思っていたマナーブックが役に立つかなんて、人生まだまだ分からないものだな。なんだかんだ男女両方覚えた甲斐があったというもの……」

 この世界はまだ、生きてみても損ではないくらい未知にあふれている。

 あの子の歩いていく先にも、きっとまだ、驚きと発見とが未知に埋もれているはずだ。

 (さて、そうと決まれば私たちの妹を助けにいかないとね)

 だから、まだ呑まれてくれるな。

 完全にロードが寝入ったことを確認するとダヴィドは顔を上げた。

 まずはこのカビ臭い部屋から脱出して、島のどこかにいるはずのアシュと連絡を取らねばなるまい。


 ガチャリと無造作に扉を開けると、主を待って控えていたのであろう見張りがきょとんとした顔でこちらを見た。


 「見張り、ご苦労様。そろそろお暇させて頂くわね」


 いかにも初心そうな兵に向かいにっこりと微笑みむ。そして優美な所作でスカートの裾を摘まみ上げると――――「ごふゥ……ッ!!」踵を腹へ捻じ込むようにして蹴り飛ばした。




 




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