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善意の花





 その少しだけ眉をひそめたくなる面倒事が舞い込んできたのは、領主の印をもらってきた午前中の政務を片づけ、優雅な昼を満喫すべく午後イチの灌漑用の費用についての案件をまとめていたときのことだった。


「――――先輩、これどうしましょう? 」


 新米文官の持ってきたそれに、目を通した私はそのまま溜息を吐いた。

「……何ですか、これ。『空色の目の娘、年の頃十五前後。名簿にして提出されたし』。どこですか、この案件持ってきた奴」

「なんだぁ、またお貴族様の愛人探しかよ? 」

「あ、やっぱりそう思います? 」


 嬉々として書類を差し出す後輩には悪いが、ひょっこり横から無遠慮に顔を出してきた同僚をさりげなく押し戻す。

 貴様はちゃんと制服の襟を正せ。ボタンは閉めるものだからな。何度言ったらその無駄に開けたがる風潮を直すのだ。

「んなもん適当にそれっぽい女の名前並べとけ。テキトーテキトー。適当って適切で正当って意味なんでぜ」

 んなわけあるか。未来ある後進に、いい加減なことを教えるんじゃない。


 だが、今回みたいなことは長く宮仕えをやっているとままあることで。とかくお貴族様というのは色恋がお好きなのだ。いちいち相手にしていたら日が暮れる。

 よっていささか癪ではあるが、今回ばかりはこいつのちゃらんぽらんな対応が相応しいと私も思う。

だが、事態は思わぬ方向に急転を見せた。




「はぁ。いや、俺も最初はそう思ったんスけどね? ……これ、ギスタフ家からの案件なんスよ」

「どちらのギスタフ様だ?」

「これが驚いたことに、ご本家」

「…………」

「…………」

「…………」


束の間、沈黙が落ちた。


「――――ぅうおい!! ギスタフって、まさか『あの』ギスタフかよ!? もういい年したジジイだろ!? 」

 余談であるが、我が同僚は大変タフな男である。

 以前皆で飲みにいき貝に中ったときも、翌日一人平然と出仕してたらしい。二晩に渡り厠で屍と化していた私からすれば、もはや腹に何か飼ってるとしか思えぬ回復力であった。

 さておき。

 そんなに奴はやはりショックからの回復も無駄に早かった。

 ついでにリアクションも無駄にでかい。

 私は同僚の後ろ頭をぱかんと一発殴り飛ばし(石頭だからダメージはむしろ私の手の方が大きいが)書類にもう一度目を通した。

 不足がないか、……むしろ何かの間違いであって欲しいという微かな期待を抱きながら、資料を繰る。


「……いえ、これは跡取り息子の方ですね」

「なんだ。すねっ齧りのトンビ息子か」

「さぁ。ですがいずれにせよ、大物が引っかかったもんですね……」

 私は頭を抱えた。

これは相手が相手だけに、「適切で正当」という訳にもいかない。

内乱の記憶はこの街にいまだ根深い。腐ったとはいえアークの懐刀に痛くもない腹を引っ掻き回されるのはご免だ。

どんなトンビか阿呆だか知らないが、収穫期も間近というこの時期に面倒事を放り込んでくれやがったものだ。


「そういえば………最近見つかったダヴィド殿の妹御も、確か空色の目と言っていたかな」

「えっ、じゃあもしかしたら……」

「いや、そりゃないだろ。だってあの子、砂漠の出だし、外の街には行ったことないらしいぜ。ギスタフほどの大物の行幸となれば、それこそ俺らの間で噂にならんはずがない」

「それもそうですねぇ」

何のロマンスを期待していたのか知らんが、新米、お前は夢の見すぎだ。乙女か。


 それにしても。

「お前、随分とその娘について詳しいな。知り合いか? 」

「うん? いや、俺ぁ昔あそこの“聖女”の世話になったことがあってな」

「ああ、そういえばそうだったな」

「まあ今回ばかしは無関係だと思うし、大丈夫だろ」






◇◇◇◇







 赤、緑、藍、橙………。

 鮮やかな色を散らす床。

 外で遊ぶ子供たちの笑い声が時折風にのって流れてくる。

 もし、この世に何の苦しみも悲しみもない、神様の庭があるなら。きっとこんな感じだろうとルルーはいつも思う。


「兄さま」


 ステンドグラスから差し込む光はまるでドロップをぶち撒けたように、祭壇の前を色とりどりに染めていた。鼻をくすぐるのは微かな柑橘類にも似た香り――――ムシヤライだ。

 呼び掛けに、跪き祈りを捧げていたその人はゆっくりと振り返る。長い金茶の髪がさらりと肩に流れ、艶やかな唇が笑みの形を作る。

「ダメよ、ルルー」

 綺麗に赤い爪紅で飾られた細い、けれど女の人とは違う人差し指が、その唇に添えられた。

「この姿のときは『姉さま』と呼んでくれないと。ね? 」

「あ、そうだった……ごめんなさい、姉さま」

「ふふ、仕方ないわね」

 首を竦めると、簡素ながら麗しく女装をしたダヴィドは仕方なさそうに流し目を送り、軽く膝の埃を払うと立ち上がった。


 月に二度、孤児院を訪れる際、兄はいつもこの格好で訪れる。

 そしてそんな彼のことは必ず「姉さま」と呼ぶのが、兄との約束だった。







 兄さまには私の他にもう一人、妹がいたという。エダ姉さまだ。

 エダ姉さまのことを、私は覚えていない。


 ――――“聖女”なんだよ。この街にとって。清らかで慈悲深くて、………永遠に大人にはなれない。


 内乱の際、持病を悪化させ若くして亡くなったという彼女は、このアムーラ・アジャンタに孤児院と学校の設立を計画した最初の人だった。

 ベッドから起き上がることもできない日の方が多かったというその人はまるで命を削るように、混迷の時代の中、親を失った子供たちを守る砦を築いた。

 飢えるか物乞いか、さもなくばスリや運び屋として生きるしかない彼らに、彼女は自ら食事と寝床を与え、そして寝る前になると決まって読み書きを教えていた。

 当時、教師役を買って出たエダ自身、成人していなかったのだから子供が子供に教えるようなものだ。それでも、子供たちは大層生き生きと学んだという。

 孤児院を出た彼らの中には、待ちを支える役人になった者もあり、立派に事業をなした者もいる。

 エダが病で亡くなるまでのわずか数ヵ月間の短い日々は、それでも、文字通り彼らの人生の礎となったのだろう。

 死後は兄のダヴィドが代わって管理をしている。が、今も名無しの寄付や助力により孤児院の運営は支えられている。




「………私はね、この街……いいえ、この視界に映る限りの世界の丸ごとが、大嫌いだった。生まれてこの方、周りのものはみんな私を傷付ける醜くて嫌なものばかりだったから」


 アムーラ・アジャンタの先代領主は、身持ちのよろしくない人だったらしく、幼いダヴィドは母共々投げ捨てられるように市井へ沈んだのだという。

 悲しいこと、辛いこと。

 兄はそういう思い出を決して口にしないけれど、世間の暗く、ルルーも知らないような陰湿で残忍な部分を見てきた人だった。


「………今は? 」

 兄の横顔は白く残った古傷のような、激しい怨みや憎しみの果ての、ただただ静かで穏やかな寂しさがあった。

「ふふ、そうね。今は少しだけ好きなものも増えてきたかしら」

 彼は鮮やかなステンドグラスの竜蟲を仰いだ。

 エダの死が兄にどれ程の喪失を与えたのか、記憶ごと無くしたルルーには想像することしか出来ない。だが情の深い、細やかな人だから。きっと本当に自ら壊れる寸前まで悲しんだことは想像に難くない。

 ステンドグラスと午後の太陽の作る、鮮やかな陽だまり。

 妹の姿を写し取ったように、生き様ごと模して、その人は微笑む。

 天上のごとく美しい光景の中、悲しみから身を守るための、擬態。


「――――じゃあきっと、エダ姉さまが蒔いた善意の種が兄さまにも咲いたんだね」

「善意の……種? 」

 きょとんと狐につままれたような顔をする兄に、ルルーは殊更明るく見えるように笑った。

「そう! だって誰か一人に全部押し付けて、嫌々仕事をさせたって、いい結果にはならないでしょう? 領主さま一人がいくら頑張ったって、一人分の力でできることなんて限りがあるもの。だからきっと、姉さまは人よりも体が弱かった分、種を蒔いたんだよ」


 鳥の運んできた一粒の種は、長い長い時を経て、やがて豊かな森を作る。

 何かの書物で読んだ話だ。エダの生き方は、華やかさはなくともそういう未来を描く不思議な力のようなものがあった。

 多分、エダ自身も自分の無力さを理解していて、それでもなお自分に出来ることを、自分が確かにここに生きた証を遺したかったのではないだろうか。

 かつて自分がそうだったように今度は誰かまた、他の誰かの力になれるように。

 そこが日向でなくとも、俯かないように。

 たとえ遠く離れても、いつかそこで花咲き、また誰かに種を広めていけるように。

 残された兄がいつの日かまた誰かを愛せるように。


「そっかぁ、……花かあ」

「そうだよ」

「うん…………そう、だったら、きっととても……とても素敵ね」

「きっとそうに決まってる! だって二人でひとつのこの街の“聖女”だもん」

 彼女と共に、この街で生きてゆく。

 種を運び、遠い未来へと繋いでゆく。

「うん…………ルルーも、ロマンチストね。一体誰に似たのかしら」

「兄さまと姉さまだよ。きっと」

ルルーも、というからには、自分にもどこかに姉や兄と同じ種が宿っているのだろうか。

 そうだったらいい。

 誇らしいのだと伝えたくて、ぎゅっと兄の厚い手を握ると彼は美貌を崩し、どこか情けない泣き笑いのような顔をした。






「ねえ、ルルー」

 孤児院を後にする頃には日はすっかり落ち、夕市へと向かう人と家路へと戻る人とでせわしない雑踏には長い影が延びていた。それでも一時期よりほんのわずかだが長くなってきた昼の面影は、じき冬の雨季が終わり、これからまた半年かけて夏の乾季へと向かっていくことを示していた。

 ふ、と遠いものを追いかけるような目をしていた兄が、おもむろに視線を戻した。

「“善意の花”って、なんのことだか知ってる? 」

 ルルーは思いがけない質問に目をぱちくりと見開いた。

「どういう由来かは分からないんだけどね、この街ではムシヤライの別称なのよ」


 ふわりと陽だまりに広がる、柑橘にも似た甘酸っぱい香り。

 元々湿潤を好み、砂漠には育たないムシヤライは香料の原料としてこの街に訪れるときにはほとんどがすでに干して乾燥したクシャクシャのチップとしてもたらされる。だからルルーはそれがどんな草花なのか、図鑑の中でしか見たことがない。

 太陽に疎まれたような山陰の、さらに霧深いところで育つというその花は、四編の小さな白い花びらを持つという。

「ムシヤライはその名の通り虫除けだから、鼻先なんなに付けておくと貞節、キスを許すなら唯一を意味するわ。――――王祖アリウスがもたらし、愛した花だと言われている」

「ふうん。でも唯一って、どういうこと? 」

「まあ、古いおまじないみたいなものね。後悔しないように、気持ちを伝える勇気が出るように。いつかまた……あなたに一番大切で、一緒にいて幸せにしてあげたいって人が現れたら、逃がさないようにキスしてやりなさいね」

「? うん、分かった」


“善意の花”

 なんだかちょっと素敵な気がする。

 種の話はエダの生き方がまるで希望をまく種みたいだと思って口にしただけだったのだが、きっとそのアリウスという王様も素敵な人だったのだろう。そうでなければこんな素敵な呼び名が付くはずがない。


「どんな人だったのかなぁ」

「何が? 」

「その王様」

「………さぁ。ルルーはどんな人だったと思うの? 」

「きっと優しくて、エダ姉さまみたいな思いやりのある素敵な人だよ。なんたって“善意の花”だもん」

「まあ」

「それかとっても一途で恥ずかしがり屋、とか」

「ぷっ! なんだかどこかで聞いたような話ね。そっか、恥ずかしがり屋の王様か」


 くすくすとダヴィドが笑う。

 パンを炙るにおい、豚脂の焦げるにおい、行き交う誰かの纏った香水の匂い。

 露天商の客引きの声や、吟遊詩人の楽の音が幾多の判別できない喧騒に混じって、時折風の隙間を縫うようにして耳に届く。

 夕暮れの街はどこか心がざわめく。

 ここでないどこかの夕暮れを、ここにいない誰かと見たような気がして。

 何か、とても大切なことを忘れてしまったような気がして。







「――――ダヴィド様!! 」

 突然、雑踏を縫うようにして一人の女がルルーたちの目の前に躍り出た。咄嗟にルルーを庇うように前に出たダヴィドの瞳孔が女を見て取った途端、獣のそれのようにすうっと開く。

 質素だがこの年頃の女性に多い薄萌黄のスカートが、(あかがね)色の斜光の中でひどく不穏な予感をはらんで翻ったのが、やけにはっきりと見えた。


「“青”の私兵です」

「とうとう勘づかれたか。だが一体どこから……? 」

「それについては後にしましょう。今はこのまま屋敷へ戻らず、港へお逃げください。先に“影”を一人走らせています」

「よし。では一度外海に出る。カイレイ国の紋を借りよう。私兵ならば国際間の問題にまで持ち込みはすまい」

「かしこまりました。ならば先方にはこちらで手を回しておきましょう」

「任せた」


 時折互いにだけ分かるような符号を交えながらも素早く連絡を終えると女は一度だけ、ちらりとルルーを一瞥した。いきなり目が合い、突然の緊迫も相まって思わず身が竦んだが、女はすぐ踵を返すと再び風のように雑踏へ紛れて見えなくなってしまった。

 何が起こっているのかは分からない。

 けれど何かが、この穏やかな日常を突き崩す不穏の足音が、すぐそこまで迫っているのだということだけは分かった。


「………兄、さま……」

「ルルー、よく聞きなさい」

 膝を折ったダヴィドが、ルルーの細い首を抱きしめるように腕を回した。次いで、ささやかだがひやりとした金属の感触が肌に触れる。

 見ると、白銀の花の台座にきらきらと夏空を映し込んだかのような石の据えられたペンダントがかけられていた。ちり、と頭のどこかで何かが警戒するように震えた。

「これ、は………? 」

「スエンニ商工連の紋と執政官の名が入っている。もし一人でどうしようもなくなったら、これを頼れ。ただし扱い(・・)には十分気を付けろ」

「え、え……? 」


 不安を見透かしたように兄は少しだけ微笑み、ルルーの頭をくしゃりと撫でた。

「大丈夫、大丈夫だ。さ、行くぞ」

 手を引かれ、駆け出す。

 胸がざわめく。訳が分からず混乱する脳裏の片隅で、ぷつり、またぷつり、と何かがほどけてゆく。


 そうだ、逃げなければ。

 捕まればまた連れ戻されてしまうから。

 ああ、何故忘れていたのだろう。ずっと誰かにこうして手を引かれて、長い長い旅をしてきただろうに。


(――――でも、誰に? )

 その瞬間、ぞわりと肌が粟立った。

 覚えている限り、ルルーはこの街から出たことはない。旅行などもしたことはないから、ここ最近の記憶ではない。

 可能性があるとすれば、少なくとも今から二年半以前の記憶だ。

 繋がれた手は、ダヴィドだろうか。いや、エダの魂が眠るこの街からあの兄が離れるはずがない。


 スエンニ。花。ペンダント。旅。

 そしてあの不思議な夢。


 何かが欠けている。

 白い靄に包まれたように、何か大切なものを忘れてしまっているような。

 “善意の花(ムシヤライ)”とは似て非なる真っ白な花の咲き乱れる場所で、夢の中のあの人はまるで宝物のようにルルーの名を呼び、そして決まってこう言うのだ。


――――おやすみ、ルルー。

――――辛い記憶は全部、俺が隠してあげる。




(あれは夢じゃなくて……私の、過去? 辛い記憶って? 私はここで育ったんじゃない……? )

 怖かった。踏み込んだら最後、戻れなくなりそうな気がして。

 優しくて温かなここは、偽物なのだろうか。

 もしかしたら自分は、ここにいてはいけない人間なんじゃないだろうか。

 振り向きざまに視界をよぎった夕日は、すでに谷筋の岩壁を丹色に染め上げ、訳も分からず泣きたくなるほど美しかった。









 港の人ごみに混じると、船底に塗るタールに水夫たちの汗のにおいに満ちた熱気がムッと鼻を刺激した。時折腐った魚とゴミのにおいが潮のにおいに入り混じった港は、丁度どこぞの蟲船の入港が近いのか潮風に乗って朗々と蟲繰りの歌が聞こえてくる。

「よし、もう蟲も繋いであるし、すぐにでも出せるな」

 緑色の鱗の大きな“船引き”の控えた船を見やると、兄はほっとしたように道行きの間、ずっと険しかった眉間を少しだけ緩ませた。

「詳しいことは港を出てから話す。急ごう」


 その時、水面に投じられた一滴の波紋のように、ざわざわと波止場の一角に不穏な喧騒が広がった。

 血気盛んな命知らずの荒くれ者の多い港では、流血刃傷沙汰の喧嘩は少なくない。だが、今辺りを支配したざわめきはそんな活気に満ちたものではなくもっと戸惑いに満ちた、そして妙に鬱屈した、嫌な気配だった。


「アークの兵……ギスタフの青スズランだ……」

「嘘だろ、なんでまたこんなとこに……?」

 誰かのこぼした呟きに、幾人かが眉をひそめて顔を見合わせた。

 ギスタフの名はルルーでも知っている。多数の死傷者とその痛みをもってパンゲアにその名を轟かせたクリミナ内乱の“英雄”。

 しかしそんな精鋭が何故わざわざ、言ってしまえばこんな僻地へまで来ているのだろう。

 チッとダヴィドが短く舌打ちをした。

「クソッ!! ジエンは隠居したと聞いて油断したか。やはり動きが早い……! ルルー、急いで船に乗るぞ」

 手を引かれ、甲板へと結ぶ渡し板を踏みながらそこでふいに、ルルーは兄と女の会話を思い出した。

(“青”って、もしかしてギスタフ家の私兵ってこと? じゃあ私を追ってるのは――――)


「いたぞ!! あれだ!! 」

 ざっと不特定多数の視線が、ただ一点へと集約する。

 鎧に身を包んだ男の一人がルルーを指さしたまま、目が合うとにやりと笑った。逃さない、その意志にぞっと背筋が凍りつき、足が動かなくなる。

「大丈夫だ。知らん顔をしろ」

 多分ほんの、一瞬の出来事だったとのだと思う。

 視線はいきなり途切れたかと思うと、いつの間にか兄に肩を抱かれたまま甲板に登っていた。

 ダヴィドは「しっかりしろ」と背中を押した。

「船室に水夫の着替えがあるはずだから、それを着て櫂漕ぎにでも加わってろ。大丈夫、こちらでいくらでも誤魔化す」

「う、うん」

 だが、膨らみかけた勇気は、愉しげに喉を震わせる声に遮られた。



「――――っと、それは困る。銀のフクロウを誤魔化されたら堪らない」



 すらりと背の高い男だった。

 一目で上質と分かる仕立てに、派手な折り返しの袖の服は庶民が想像する『いかにも貴族らしい』貴族。

 別に睨まれたわけではないが、真面目そうな顔立ちに不釣り合いなほど強い瞳に射すくめられる。

「久しぶりだな。ルルー」

 青年が真っ直ぐこちらを見据えたまま、にこっと親しげに唇を吊り上げた。

「でも再会の挨拶は屋敷に戻ってからだ」

「え? なにを……………ふむぅ、ぐっ……!? 」


 突然、背後から口と鼻を妙な臭いのする布で覆われた。

 どさりと、兄の呻き声と共に何か重いものが甲板に崩れ落ちるのが響いた。

 恐怖と不安で視線だけでもと動かそうとするも、やたらと硬い筋肉に覆われた腕に捕えられ、阻まれる。


 怖い。

 また連れ戻される。

(いやっ、助けて! 誰か――――)


「……ああ、アシュに助けを求めても無駄だぞ? 奴は来ない」

 布に薬を染み込ませてあったのだろう。混乱のまま暴れた分、余計に吸い込んでしまったのか意識が朦朧としてきた。

 ぐったりと力の抜けたルルーに歩み寄ると、青年は確認するように青い指輪のはまった手を頬にするりと触れさせた。本当なら今すぐにでも振り払いたいが、体に力が入らない。

 まぶたが重い。

「……やっと見つけた……」

 ぽつりとこぼされたそれは潮風に紛れ、混濁に意識を呑まれていく少女の耳にまでは届かなかった。



「おやすみ、ルルー。今日は君を攫いに来たんだ」









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