酒場の夜 (2)
「お久し振りです、お師匠様」
食事を終えたアシュとルルーは早速、吟遊詩人の男のもとに向かった。
アシュは先ほど料理と共に注文しておいた、あの薄く色づいた瓶を差し出しながら軽く会釈をした。
お師匠様と呼ばれた男はしっかり瓶を受け取りながらも、しばらく怪訝そうにその顔を見つめていた。が、「あぁ! 誰かと思えばアシュじゃありませんか! 」と驚きに目を見開いた。
「そういえばレミィも今夜は珍しい客が来ていると言っていましたが、そうですか、君でしたか」
「はい。長い間ご無沙汰してました」
男は目尻にシワを寄せ、色っぽく笑った。
「お師匠様、ですか。その呼び名も随分と久し振りですね。突然音沙汰が無くなったもんですから、大層心配したんですよ」
「ご冗談を。俺がマノンを留守にしている間、姉にも『あれは殺しても死にやしない』と励ましてくれていたそうじゃないですか」
「ふふ、事実ほど心強いものはありませんからね」
悪びれもせず男は上品に微笑むと瓶の栓を抜いた。
詩人は二枚舌の詭弁使い。
アシュは以前自らを称してこの男が言っていたことを思い出した。
自分も大概二枚舌だと自覚しているが、この師の場合、二枚どころかいっそ蛸足のようにびらびらと口内で舌が蠢いている気さえする。
妖怪ジジイ、と胸の内で吐き捨てた。
「そうそう、実は今日はお師匠様に折り入ってお願いがあって参りました」
努めて平静な口調を装いながらアシュは本題を切り出した。
「ほう。君が、私に? どういう風の吹き回しでしょうね」
珍しげに弟子の様子に目を細めながら男は杯に瓶を傾けた。
手土産にはこれでないといけないらしい、燦海産のリコの実で造る果実酒。その甘さと口当たりに反し、大の大人でも三杯重ねずと言われるほどの強さと依存性がある。半麻薬的と言っても過言ではない。
にも関わらず湯水のように杯を重ねる男を、アシュはこの師の他に知らない。
酒と女と歌。
ある意味六海の誰よりも刹那的で享楽的な詩人として生きるこの男には相応しい魔酒なのかもしれない。
トロリと、薄紅色の液体が辺りの雑踏を絡めとるように芳醇な香を放った。
「………あぁ、うまい」
一息に杯を干し、ようやく人心地ついたというふうに師は艶然と微笑んだ。
「さて………喉も程よく湿ったことだし、本題を聞かせてもらいましょうか。それは君の後ろの可愛らしいお嬢さんに関係あることなのでしょう? 」
師は微かに唇の端を捲り、この状況を楽しんでいるようであった。話が早い、とアシュも内心皮肉げに微笑みながら慇懃に頭を下げる。
「お察しの通り。ちょっと縁がありましてね、この子に歌を教えてやってほしいんです」
アシュは所在なさげに背後で身を縮める少女を手招きすると、師の前に呼び寄せた。
ふむふむと無遠慮に顔を覗き込む男に、ルルーはすっかり腰が引けている。
「これはこれは。年寄りの遠目にも可愛らしいお嬢さんだと思っていましたが、近くで見るとどうしてなかなか。将来は大層な美女になりそうだ」
スケコマシは相変わらずなその様子に内心の罵詈雑言を圧殺しつつ、アシュは戸惑うルルーを優しく見下ろした。
「この人はカーヒル。俺とレミィの育ての親にあたる人だよ。基本的には…………んー、ある意味危ないかもしれないけど、多分怖がらなくても大丈夫………かな? うん、多分。まぁ何かあれば大声を出して人をお呼び」
「なにやら若干引っ掛かるものがありますが…………ああ、怖がる必要など何もありませんよ」
真剣に思案顔になった弟子を軽く睨み付け、少女に目線を合わせるとカーヒルはにっこりとあの人懐っこい微笑みを浮かべた。
「私は一介の詩人に過ぎませんが、貴女の味方です。貴女が悲しむものは小石でさえ取り除いてあげたいし、いつだって花の笑顔でいてもらいたいと願う味方ですよ」
歯の浮くような修飾付きの優しい言葉に、緊張に強張っていたルルーもつられたようにふにゃりと微笑んだ。
白い頬にうっすらと通った薄紅色。 固い蕾を思わせるあどけない顔に、掛かったフードが僅かな陰影をつけ、それが妙に危うい色気を醸す。
…………彼女はこんな顔だっただろうか。
頼り無げにしがみつくだけだと認識していた少女にこんな笑顔が浮かべられるのかと、アシュは少々意外な気がした。
思わずまじまじと眺めていると「こら」とルルーに対するものとは打って変わった、師の冷ややかな眼差しが向けられた。
「見惚れてないで早く私にも彼女を紹介しなさい」「え? あ、ああ、はい」
弾かれたように顔を上げ、ポリポリと髪を掻きながらアシュは何となく視線を逸らした。
「えーと、彼女はルルー。さっきも言った通りちょっと縁がありまして、この先の旅の同行人です。人見知りと、あとは言葉はまだ少し不自由ですが、基本的には聡い子です」
妙に突き刺さる視線を感じながらもなんとか説明しきる。若干棒読み感は否めないが、状況報告としては十分許容範囲だろう。
それにしても何でこんなに焦ってるんだか、と青年は内心首を傾げていた。
全くもってらしくない。
「ふむ。縁ある同行人……ね。まあいいでしょう」
師は含みのある言葉を翻し、案外あっさりと肩を竦めた。
悪戯っぽい目尻のシワが緩やかに寄せられる。からかうような声音でカーヒルは言った。
「それで? 私はどんな歌を教えましょうか。まさかとは思いますが、こんな幼子に恋歌教えるつもりだったら君、早々に隔離ですからね? 」
「隔離って………年寄りの邪推ですよ」
師との会話のたびに思うのだが、自分の口の中にはどうも苦虫が生息しているらしい。わざとらしく視線を合わせてへぇ〜、ほぉ〜を繰り返す師に、多分今、すごく嫌そうな表情をしている自覚がある。
「可愛い弟子の言い分なんか聞いちゃいませんね」
「もちろん信じてやりたい気持ちは山々なんですが、人は往々にして流されるし嘘をつく生き物なのですよ」
「俺は貴方というこの上ない反面教師を得て、常々ごく正直で誠実な人間であることを己れに課しているつもりですよ」
「ですがどう見ても彼女はまだ十かそこいらでしょう? 君は確か今年でニ十一ですから、流石に師としては弟子の性癖で一人の女性が泣かないためにも、理性を喚起してやらなければ詐欺でしょう」
「――――十五」
「お師匠様なら元々詐欺師まがいのことくらい………………え? 」
ふいに交じった愛らしい異音に、苦虫の味も忘れてアシュは自分の袖口を握る少女を振り返った。「十五」とルルーはか細い声で再び繰り返す。
「一年ごとに、くしをかえる、いってた。十五あったから、ルルー、十五」
「え、………でもどう見たって……は、え、十五ぉ!? 」
素っ頓狂な声をあげるアシュの傍ら、カーヒルも珍しく本気で驚いたように目と口をあんぐり開けている。
病的なまでに色の白い華奢な手足、小作りな体は、突然の師弟の驚嘆と無遠慮な注視に怯えたように一歩後退った。
「その大きさで、十五………」
しかし、考えてみれば当然かもしれない。アシュは師すら気づかぬほど微かに、眉をひそめた。
ろくな運動もできないあの狭い部屋の中だけで暮らしていれば、同年代の少女にくらべ発達が遅れてしまうのも当たり前だ。
筋肉のない腕も、棒のような足も、そして―――――平たい胸も。
「き、気にすることなんかありませんよ! 」
真っ先に衝撃から立ち直ったのは流石年の功が奏してかの、カーヒルだった。
自らの失言に慌てたように、
「ほら、こういうのは好みの問題ですから! 巨乳には夢が、貧乳には希望が詰まってると言いますし! 」
墓穴を掘った。
「……お師匠様………。ルルーのには希望どころか多分背徳しか詰まってませんよ………」
続く弟子も混乱が大きすぎたのか、あっという間に師と同じく墓穴へ続く。
「なら丁度いい。君、背徳とか好きだったでしょう」
「なっ………! それはお師匠様じゃないですか! 昔、恋は危ない方が燃えるとか言ってたの、俺、覚えてますよ」
「何を分かったようなことを。詩人というのは皆、夢追い人の熟女好きと相場が決まってるんですよ」
「いやはじめて聞きましたよ、そんな相場」
下世話かつ男の主観に基づく大概失礼な乳談義に、しかしルルーはキョトンとした顔で二人を交互に見上げた。
自分のことを話しているのは分かるのだが、幸か不幸か、話の趣旨はさっぱり理解出来ていないらしい。
愛らしく小首を傾げて、彼女は至って素直に訊ねた。
「なんのはなし? 」
全くもってその通りである。
女は胸じゃないと思うの。