眠り
真っ白い靄が辺り一面に立ち込めている。微かに甘い、花の匂いがする。
懐かしくて、どこか寂しい。
ふいに誰かの手が、そっと頬を撫でた。
壊れ物にでも触れるような、優しい怯えと微かな安堵を含んで、その手はまぶたを覆う。靄の中、その人の顔は白く霞んでどうしても見えない。
――――忘れるといい。辛い記憶は全部、俺が隠してあげる。
眠りを促す優しい歌。
ここがどこでいつなのか、ルルーには分からない。
ただそこは温かくて、息苦しい。
……そう。何か、大切なことを忘れているような。
かけがえのない人を忘れてしまったような。
窓から差し込む朝陽に靄に含まれた光が濃くなり、意識が浮上してゆく。
ああ、駄目だ。今日も時間切れ。
思い出せそうで思い出せないまま、また、忘れてしまう。
――――……おやすみ、ルルー。
光で真っ白になってゆく視界に、ルルーは覚醒を悟った。
次の瞬間。
ぱちりと泡が弾けるように、夢は霧散する。
「………んっ……朝、か」
薄明かりの寝台から起き上がり、少女は欠伸と大きな伸びをするとさっとカーテンを開けた。
白みがかった群青の、明けの空が高くそびえる。
「うん。今日も良い天気だ」
◇◇◇◇
ぱちり、ぱちりと、朝の庭にハサミの音が響く。
煉瓦を重ねた段々畑の一画。積み終えた野菜やハーブを籠に載せると、ルルーはふぅっと息を吐いた。
ホワイトハーブのうぶ毛に弾かれた朝露が、キラキラと光を吸って視界の隅に煌めいている。土と草と水の匂い。蜜蜂たちが時折、開きかけた花弁を見回るように飛び交う朝の庭は、ルルーのお気に入りだ。
ハーブは繁殖力が強い。綺麗な花が咲くわけでもなく、地味で、ともすれば雑草のような扱いをされているものも多い。とりわけこの雨季の時期になると草花が空へと焦がれるように、ぐんぐんと枝葉を伸ばす。そのたくましさときたら毎日毎日、兄のダヴィドと二人がかりで収穫しても、余りあるほどだった。
「ルルー、そろそろ上がって朝食にしよう」
丁度思い浮かべた顔が、図ったように煉瓦を積んだ畦にひょいと現れた。
「兄さま」
「今日もまた沢山採れたな」
籠を覗き込み、そのままするりと何気なく取り上げられる。どうやら荷を持ってくれるらしい。こういう細やかさが兄の憎いところだ。
妹の自分が言うのも何だが、兄は綺麗な人だ。すっと切れ長な目はいつも気遣いと慈しみに満ちていて、時折何故だか「姉」になるが、それでも見劣りどころか町中にいても却って映えるくらい整った造形をしている。
美形で優しくて、おまけに頭も良い自慢の兄。
「何だ? 」
「ううん。何でもない」
見上げる彫刻のような端整な横顔が怪訝そうに見返してきたのを、ルルーは笑って誤魔化した。
「そういえば昨日、また夢を見たの」
「またって………例の夢かい? 」
「うん」
二年くらい前から、ルルーはしばしば夢を見る。花のような良い香りのする白い靄の中で、ふわふわと漂っている、そんな夢だ。
ルルーには二年半から前の記憶がない。
兄の話では酷い高熱での一時的な記憶喪失らしく、そういたことは稀に起こりうるのだという。覚えているのはベッドで目を覚ました自分を、兄が不安そうに見つめていたことだけ。
気にしなくていいと優しい兄は言ってくれるが、流石に自分の記憶ともなればはいそうですかという訳にもいかない。ルルー自身も色々と医学書を探してみたりしているが、焦らず気長に療養するくらいしか対応策がなく。無精で日記も付けていなかったので、始めは兄さまにあれこれと聞き出し多大な迷惑を掛けながら、それでもなんとか今の生活まで落ち着いた。
優しい兄と、穏やかな生活。
幸せだし、今の暮らしに別段不満はない。
だが時折ふと、消えた過去のことを考えずにはいられない。けれど以前の出来事を思い出そうとすると、途端にそこで頭が真っ白になるのだ。
――――辺りを多い尽くす、真っ白な靄。
夢の景色に、何故だかあの感覚はとてもよく似ている。真っ白な世界。温かくて、苦しくて、ルルーは何かに触れようとして、手を伸ばす。そのたびに夢はそこで終わるのだ。
白い靄がかかって何も見えない、けれどそれが晴れればきっと全部見通せる。
「……今日は、庭の奥に生ってるネロンの実を収穫するか。そろそろだろう」
兄の言葉にルルーは慌てて思考を遮り顔を上げた。いきなり黙り込んで思索に耽ってしまうのは自分の悪い癖だ。ルルーは羞恥に微かに頬を赤らめる。
けれどダヴィドは気を悪くするでなく、ふんわりと微笑んだ。
「生のまま食べても良いし、午後にはルルーの好きな蜜煮でも作ろう」
「あ、うん。じゃあ保存用の瓶も洗っとくね」
これから朝食の仕度をして、倉庫から綺麗な空き瓶を探して……と指を折りつつ駆け出そうとしたルルーを「ちょっと待った」と兄は肩をつかんで呼び止めた。
「……済まない。言い忘れていたが今日は午前中に、その、………人が来る」
いつも穏やかながら堂々とした兄にしては妙に歯切れが悪い。ルルーは首を傾げた。
「人? 兄さまのお客さま? 」
「確かに私の知己でもあるが、今回は………多分、お前も訪ねてきている」
「私? 」
誰だろう。ルルーは考えた。
訪ねる、というからには多分他所の人だ。本来人を訪問するなら手の落ち着く午後にすべきところを、わざわざプライベートな時間である午前中に捩じ込むからには、余程親しい人間か。あるいは船便の関係で時間の調節すらしようのない人。例えば――――
「島の外から来た人? 」
驚いたように目を見張ったということは、当たりらしい。
「よく分かったな」
「えへへ」
兄曰く、スエンニという街からやって来る商会の人らしい。忙しい人で、午前中のうちに話し合いを終えたら午後の船に乗って、すぐまた別の街へ向かうらしい。
蜜煮を瓶に移すのは明日でいい、とダヴィドはルルーの栗色の髪をくしゃりと撫でて言った。
朝食後、訪ねてきたのはバロットという燃えるような赤毛の美しい女性だった。
「あらあら、久し振りねルルーさん。私のこと、覚えているかしら? 」
「あ、と………すいません……」
豊満な胸と赤いルージュのひかれた唇を交互に見やり、ルルーはおどおどと頭を下げた。これだけの美人ならまず忘れないだろうが、本当に覚えてないのだ。
そう告げると彼女はほんの瞬きするほどの僅かな間、微かに眉をひそめ、それからすぐ困ったような寂しげな顔をした。
「………そう。髪も色が入ってるし、本当にみんな忘れてしまったのね」
「髪………? 」
「バロット」
ルルーの髪は地毛だ。産まれたときからこの色である。
だが問い返そうとしたところで兄の鋭い叱責にひゅっと喉の奥に引っ込む。
「あら、ごめんなさい」
バロットは悪戯が見つかった子どものように舌を出しひょいと首を竦めた。
「ルルーさんも、記憶が無くなったのは貴女のせいじゃないんだから、そんな申し訳なさそうな顔しないで? また一からお友だちになればいいんですもの」
バロットの話しは多彩でとても面白かった。
年の功よと彼女は言うが、化粧にスタイル、話術といいルルーの思い描く大人の女という憧れを全部詰め込んだような人だ。鮮やかなアイラインはきつい印象を与えるが、思ったよりもずっと気さくで魅力的な人だった。
「へぇ。あのダヴィドも、ルルーさんの前ではそんな良いお兄さまなのねぇ」
「私だって、あの兄さまがそんな怖い人だったなんて信じられません」
「あの人は妹馬鹿だから。エダとルルー、可愛い妹たちにしかそんな甘々の対応してくれないのよ。……でしょう?」
「当たり前だろう」
「ほら」
クスクスと笑い合う女たちに、ダヴィドは苦い顔で茶器を置いた。
「ルルー。これでも彼女は仕事の打ち合わせで来ている。これから大切な話しがあるから、お前は少し席を外していろ」
「まあ、これでもとは酷い言い様ね」
「うるさい。……ルルー、分かったな? 」
「はーい」
有無を言わさぬ口調にルルーは大人しく席を立った。バロットと話せないのは残念だが、仕事に口を挟む訳にはいかない。
ばたん、と閉じた扉の向こうで彼らがじっとこちらを見つめていたことに、少女が気付くことはなかった。
◇◇◇◇
「……………バロット。お前、わざと言ったな」
ルルーの、髪色についてだ。
閉ざされた扉を睨んだまま、ダヴィドは低く叱咤した。どうかしら、とバロットは艶然と微笑んだ。長い爪が意味深に赤い唇をなぞる。
「ふざけるな。ルルーが余計な疑問を持ったらどうする」
「嫌だわ、怖い顔。少しからかっただけじゃない」
「少し? その少しですべてがふいになるかもしれないのにか?! 」
「……でも本当に驚いた。あんなに何もかも、人間って忘れてしまえるものなのねえ」
ダヴィドの問いには答えず少し拗ねるような口調で、彼女は扉の向こうへ流し目を送った。
ルルーの記憶。
蟲師とともに彼らが神殿の壁の向こうに消えたあの日。アシュに抱かれて戻ってきたときにはすでに髪色は変わり、少女の記憶は無くなっていた。
「奴の話によると、記憶に関しては消えて無くなったわけではなく、蓋を被せて思い出せなくしているだけ、とのことだ。何がきっかけでその蓋が外れてしまうかは分からない」
「……だからあの人は自分の痕跡を全て抹消した? 」
「ああ。彼女には奴の指定した通り、私の妹として生まれたという『過去』を教え込んだ。もうルルーであってルルーじゃない。……銀の髪の少女は、あいつが隠してしまった」
バロットは賢い女だ。嘘を暴かずには居れない類いの女。栗色の髪を、まるで以前は違ったかのように告げた彼女は、見定めるような冷たい目をしていた。だが神殿で何が起きたのか、実際のところは奴しか知らない。
奴が明かしてくれたのは、ルルーがもうフクロウではないということだけだ。
彼女はもう、ただの小さな、女の子だ。
あるべき場所にあるべきだった、優しく穏やかな日々。
この短いようで長い二年半という年月は、ルルーの人生にようやく与えられた平穏だ。
「頼むから、あの子に思い出させないでくれ」
絞り出すような懇願に、バロットは眉をひそめた。
「忘れた方が幸せだなんて、殿方のエゴよ」
「それでも、だ」
賢い女が嘘を暴かずには居れないように、賢いくせに不器用な嘘を吐き続けた男がいる。
そんな傲慢でプライドばかり高い奴がたった一人のために嘘で塗り固め、頭まで下げて頼み込んできたのだ。応えてやらなければ男が廃る。
「…………嫌だわ、男のひとって。狡いじゃない」
ふっと視線を逸らし、バロットは泣き笑いのように細い眉を下げた。
「それ………大方あの人が言ったんでしょう? 」
「え? 」
「『思い出させるな』って。言ったの? 」
「ああ」
「ほーら、やっぱりね」
バロットは苦笑しながらソファのひじ掛けに頬杖をついた。
「いかにもあの人が言いそうなセリフだわ。……アシュが今どうしてるか知っていて? 」
「いや。島の外で会ったことはあるが、あれ以来この街には寄り付かん」
密かに見張りや護衛は付けているようだが二度と姿を現さないという約束を、奴は律儀に守っている。
首を振る男に、そうでしょうねと彼女は頷いた。
「苦しみ続ける人よ。自分を痛めつけて、いつも自らを罰している。それでも足を止めたらいけないって、まるで呪いでも掛けられたみたいに歩き続けてる。………カイルって坊やをシグの跡目にすげて以来、本当にいつ寝ているのか。アークとの大口取引切ったかと思ったら、今度は外海に造船技術者の引き抜き、この頃じゃ銀の相場にまで首を出してるって話しよ? スエンニもようやく少し落ち着いたけど、あの人の見てる景色が私たちには分からないわ」
「何でまたそんなものを」
「さあ。私たちにもさっぱり。けど、あの人がやると言えば、それだけで不思議と人が集まるの。あの人が噛むからには儲け話であることは変わりないしね。でも――――」
「でも? 」
問い返すダヴィドに束の間、バロットは唇を舐め逡巡した。
「………どういうカラクリだかは知らないけど、あれはきっと近いうちに嵐が来るわ」
「……別に、あいつならそう珍しいことでもないと思うが……」
トリッキーなところは昔からだという意を含めて眉を寄せるが、
「私もそう思ったわ。でも目がちょっと、ね」
女の勘よ、と彼女は額にかかる髪を掻き上げた。
「男がああいう狂の目をするときは、何をしでかすか分からない。あの人ってば狡くて臆病で理屈っぽいけど、ある意味純愛じゃない? ……いや、この場合純粋より殉ずる、と言った方がいいかもしれないけど。ほら、『オルテ』の歌にもあったでしょう? 『至高の愛は、』」
「『もはや狂信』」
「『それでもなお想い焦がれる』」
ストンと心に落ち、一拍置いて途端に背筋が寒くなった。
――――対価としては安過ぎるくらいだったね。
ルルーを抱いて戻ってきたとき、微笑む奴はカラスの濡れ羽のごときその黒髪と、右目を失っていた。
情や愛は獣ならぬ人が、人ゆえに誰かを想い恋う、尊い感情だとダヴィドは思っている。
しかしあのとき感じたのはそんな暖かさではなく、背筋の凍るような本能的な怖れだった。
鳥肌がたつような純化した想い。
献身ともいうべきあれこそが、無償の愛だったのだろうか。
もし本当にそうならば、確かにバロットの言う通り――――狂信と変わらない。
「その子が覚えていないというなら、なおのこと気を付けなさい。もし彼女に何かあれば………あの人は何だってやるわ」
◇◇◇◇
「皮肉だよなぁ」
アシュの指はそっと少女の首筋を伝い、鎖骨の間から瀟洒な銀の鎖を掬い上げた。
今は閉ざされた彼女と同じ、明るい空の石を置くペンダント。
所有を仄めかせる首輪のごとく繋いだ贈り物を、スエンニを出た後もルルーは律儀に身に付けていた。
銀の台座に花弁やがくの一ひらまで繊細に彫りこまれているのはケシの花だ。赤やピンクと色も多彩な中でも、スエンニ商工連の印はとりわけ白をイメージしている。
甘い香りで満たした泉のほとりに透き通る雪を溢したように咲く花々。いつだったかベッドの枠木に彫られていた叡智、そして真実を示す学府紋章のモチーフである。
学府の創始者ロジェ=ダレンシスがどんな思いを込めて紋章を作ったのかは分からない。商工連の印章を起案したとき少し調べたが、それらしい記録は特に残されていなかった。
――――そこにいけばすべてがあるんでしょうね。
そう、ここにはすべてがあった。
チリ、と手のひらできつく握り締められた鎖が鳴く。
これを作らせたときは単に周囲へ誰の保護下にあるかを知らしめるためで、そんな皮肉な洒落を利かせたつもりはなかったのだが……どうやら白い花に自分はよほど縁が深いらしい。
方や叡智の花、方や麻薬の原料ともなる堕落の花。
相反するそれらは唐突にして、アシュに天啓とも魔の囁きともつかない一つの閃きを与えた。
彼女に贈ったケシの花の意は、眠りと慰め、脆い愛。そして――――忘却。
「………“天涯の月”さえなければ俺はこの子と出会うことはなかった。きっとこんな悪党なんかにかかずり合うことなんか一生なくて、つまらないくらい普通の女の子として歩んでいたんだろうね」
ルルーが自分を慕うのは半ば刷り込みのようなものだ。虚ろさを満たしてやればこの子が手に入るんじゃないかなんて考えた過去の自分が、浅ましくて殴り飛ばしたくなる。
フクロウでなければ今頃彼女は両親や兄弟に囲まれ、当たり前の愛情を受けて満たされていて。騙されることはあれど、騙されてもいいと言うほど漬け込まれたりはしなかったはずだ。
「しかし、ジャミングとは考えましたね。僕たちが“天涯の月”を媒介に記憶の移行と保存を行うのを、まさか記憶そのものを妨害するのに利用しようだなんて」
アシュはフクロウ化と共にもうひとつ、“天涯の月”を用いての策を考えていた。
目を着けたのは幾度も肉体を乗り替えてきたというリースや蟲人たちの「記憶の保存法」だ。
肉体は成長と共にやがて劣化する。
リースの祖国の人々はその途方もない科学技術力により記憶を媒介に移し、いわば精神体のような存在とすることで半永久的生命となった。彼らは思考や記憶をすべて微弱電流の総体として解き明かし、それを媒介を経由することで思いのままに操る。
泉での奇妙な夢や、アシュの思考を覗けたのもそのためだ。
ならば、とアシュは考えた。
出力が可能ならば、記憶を思い出す直前に阻害すれば記憶は塗り潰せるのではないか、と。
――――これまでの記憶をすべてなかったことにする、か。
それで本当に良いのか、彼女はそう問うているのだろう。
これでいいんです。そう含めて、頷いた。
「ルルー」
初夏の雨上がりの、磨き抜かれた青く高い空だった。
解き放たれて欲しいと願い付した、愛しい空の名前を呼ぶ。
もう十分、満たされた。
空っぽだと思って差し伸べた手に、君は山盛りの感情で俺の虚無を埋めてくれた。自分のために利用した悪党をさえ君は許した。
だから、君はもういい。
煩わしいことなど何もかも忘れて、当たり前の幸せを抱えて、君は笑っていればいい。
君に似合いの日溜まりのなかで顔をあげて、笑っていて欲しい。
「………俺の、ルルー……」
まぶたに唇を落とし、少し躊躇いののち、唇を重ねた。
開きかけた花が束の間、花弁を戻すような奇跡。
軽く、ほんの触れ合わせる程度の淡い口付けはまるで水蜜桃のように甘く、魂に刻み付けられるように苦く、短かった。
眠る少女から器用にペンダントを外すと、水面の光が揺れる奇妙な景色はいつの間にか明るい光の色に漲っていた。
「アシュ殿、確かにこの方法であれば理論上は可能ですが………彼女の想いすら否定することになりますよ。それでも、よろしいのですか? 」
「ああ。………始めてくれ」
リコの最後の確認にアシュは薄く微笑んで頷くと、少女の身体を手放した。
「――――似ておるの」
「え? 」
「その闇色の髪と目もそうだがそなたは少しだけ、あの兄弟に似ておる」
女神の名に相応しく厳然さる美しさを纏い、リースはふわふわと泳ぐように腕を掻く。呼応するように、周囲に点っていた青い灯りがカッと強さを増した。
光が眩く、闇が深くなる。
「賢しいが愚かで孤独で、……けれど誰かを愛さずにはいられない」
そう、愛していた。
その想いだけで何かを赦せるくらい、好きだった。
「………約束、ですからね」
彼女を都合のいい存在にしたくなかった。取り戻してやると言った俺が、アークの奴らと同じことをするわけにはいかないだろう。
いつか、彼女を普通の女の子に戻してやると決めていた。方法さえ見つかれば、生涯をかけても返してやるつもりでいた。
フクロウの座が移れば、彼女は不幸な記憶を持つだけの可哀想な女の子だ。もう利用されることはない。
そして、不幸な記憶を隠してしまえばもう彼女を陰らせるものは何もない。彼女を欺く悪党もこれで消える。ようやく、ただの女の子としての人生を用意してやれる。
(………いや、)
だがアシュは苦い笑みで結局その建前を自ら否定した。
(単にあの涙が堪えただけだな)
きっと別れのときには、身も世もなく泣くだろう。そんな彼女に自分はなんと言えばいいのか分からないし、それを放って去ることも出来ない。もし追いかけられでもしたら拒む術がなかった。
こんなもの、ただの自分勝手なのだと分かっている。
ただもうあんな風に泣かせることもないかと思えば、少しだけ苦い安らぎを覚えた。
「おやすみ、ルルー」
空のようなその瞳を覗くことはもうない。
嵐の夜の約束通り“虚空の泉”にまで導いてくれた君に、今度こそ本当の自由を。
次に目覚めたとき、君はなにもかも忘れて生まれ変わる。
フクロウとして酷い目に遇わされた日々も、共に旅したことも、君を愛した悪党のことも。君は忘れて、こんどこそ生まれ直す。
フクロウでもなんでもない、ただのルルーとして。
「――――愛してるよ、ルルー」
深々と、物語の騎士のように首を垂れるその顔は、ようやくしがらみもなく愛しい少女を想う事が出来る、静かで晴れやかなものだった。
◇◇◇◇
真っ白い靄が辺り一面に立ち込めている。微かに甘い、花の匂いがする。
懐かしくて、どこか寂しい。
ふいに誰かの手が、そっと頬を撫でた。
壊れ物にでも触れるような、優しい怯えと微かな安堵を含んで、その手はまぶたを覆う。靄の中、その人の顔は白く霞んでどうしても見えない。
――――忘れるといい。辛い記憶は全部、俺が隠してあげる。
眠りを促す優しい歌。
ここがどこでいつなのか、ルルーには分からない。
ただそこは温かくて、息苦しい。
……そう。何か、大切なことを忘れているような。
かけがえのない人を忘れてしまったような。
窓から差し込む朝陽に靄に含まれた光が濃くなり、意識が浮上してゆく。
ああ、駄目だ。今日も時間切れ。
思い出せそうで思い出せないまま、また、忘れてしまう。
(……ねぇ教えて、あなたは誰? )
浮かびゆく身体を捩って袖を掴むと、その人は一瞬だけ驚いたように動きを止めて、やがてルルーの指をやんわりと外した。
――――……おやすみ、ルルー。
拒絶と同時に光で真っ白になってゆく視界に、ルルーは覚醒を悟った。
次の瞬間。
ぱちりと泡が弾けるように、夢は霧散する。
「………んっ……朝、か」
薄明かりの寝台から起き上がり、少女は欠伸と大きな伸びをするとさっとカーテンを開けた。
今朝の空には雨季が近づいてきたことを知らせる、まばらな雲が掛かっている。
「さ、今日は蜜煮をみんな瓶詰しちゃわないとね」




