街角の舞姫
ちょいちょいここから閑話が入ります。
ジエンとマリアの馴れ初め。
キャラ設定的伏線回収編です。
父に連れられて、地上のある街を訪れたときだった。会合や夜会に忙しい父母を、ギスタフの家の者としては立派なのだろうとは思ったが、それと同時になんとつまらない人間かとも思っていた。
一体、自分は何をつまらないというのだろう?
地位も栄誉も約束された名家に生まれて、飢えることも凍えることもない。
剣は人並みだが、勉学を始めとしたそれ以外なら難なくこなした。ただそれでも、時折襲う息苦しいほどの閉塞感に幼い心は膿んでいたんだと思う。
そこはとりわけ歴史の古い街で父の島主との会談の間、ジエンは街に繰り出していた。
そう、今思えばあれが、すべての始まりの日だった。
退屈紛れか、息苦しさから逃れたかったのか。
あの頃、まだ我が身をもて余す少年だったジエンは父に付いての外出の時には、決まってしばしば姿をくらませた。
アークの王家とそれに準ずる四大公爵家。捨てるにも、逃れるにも、生家は強大すぎた。
ギスタフの嫡男として、ジエンは産まれた。父も母も次期当主としての“ジエン”を望み、幸い“ジエン”にはその素質があったらしい。剣の才はそこまで伸びなかったものの、勉学、とりわけ政治学はじき、教師の方が教えられるものが無くなった程だ。
ただのジエンではいけない。優秀で、間違いのない、次期当主としての“ジエン”。なるのでなく、ならなければならない。なるべき人間。それが少年の捉える“自分”だった。
それを別段不幸だとも思わなかった。
ずっとそれは抗いようのないのない、大袈裟な言い方をするならある種の運命だ。
どんなに天才とか麒麟児だとか持て囃されても、この世は小さな自分の手には変えがたい、変える必要もない大きな仕組みが存在する。巨大な時計塔の中に組まれた複雑怪奇な歯車のように固く噛み合い、よしなしごとは廻っている。
父の節くれた手にはいつも鈴蘭の指環が輝いていた。いずれお前もギスタフに組み込まれるのだと嗤っているように見えたが、心が動くことはなかった。
父にせよ、祖父にせよ、大概の人間はそういうものを背負って生きている。
歯車のひとつがどんなに抗おうと、世界はそれでも廻り続ける。砕かれ、押し潰されるのが関の山。たとえ外圧のすべてに打ち勝ったとしても、時計は壊れるだけだ。息苦しくともジエンは正しさを破壊するほど、愚かになれない。
子供心にもすでに漠然とした諦観を学んでいた。
どうやっても、ギスタフの名は生涯つきまとう。
ジエンは濁った泥の底で焦がれるように酸素を求めていた。そのくせ、この身はいずれ沈むのだと、暴れることもなく水面を眺めていた。
ふいに耳を捉えたのは美しい鈴の音だった。
青い顔で慌てふためく護衛を撒いて、紛れ込んだ裏町の一角。少年は顔をあげた。
シャン、と涼やかな音がまた雑踏に響く。自然と沸き上がったまばらな手拍子がひとつのリズムへと収束してゆく。
さして音楽に造詣もない彼にもどこか聞き覚えのあるメロディだった。
病床の老父が、遠い日の恋人を想う。時を止めた恋人は美しいままで、花々も、街も変わらないまま永遠を歌う。
パンゲアでよく聴く“月待ちの恋歌”だ。
本来ならば低く甘い男声と高い滑らかな女声で合わせ、時に踊りがつく。軽やかな鈴の音は恐らく踊り子のものだろう。
(随分と楽しげだな)
調べこそ単調だが“月待ちの恋歌”は哀愁の歌だ。確かに明るい場面もあるが、根底はやはり辛気臭いストーリーの曲だ。それなのに、今、街角から途切れ途切れに流れてくるこの曲には滲むような喜色が輝いている矛盾。
目も当てられない素人か、新しい見解を披露したがる偏屈者か。
音を楽しむのが音楽だ、と誰かが言っていた気がするが、現実にこんなにも生々しく痛みや寂しさを歌い踊る奴がいるのだろうか、というのが正直なところだ。
粗末な掘っ立て小屋を覗き込んだのは、そんな捻くれた好奇心からだった。
立ち並び舞台を囲む男女の間を殊勝に頭を下げ、けれどふてぶてしく身を捩じ込むようにしてすり抜ける。天幕のうちには熱気と群れた人の臭いが立ち込めていた。
明るみから急に広がった闇に目が慣れてくるにつれ、ひらりと翻る鮮紅色の裾やら真っ白な足首やら、少しずつ舞台の人影が分かり始める。
ジエンは最前列に滑り出ると粗末な舞台に腕を突いた。
主旋律のリュートを掻き鳴らすのはジエンと同じかいくつか年下の、まだ幼さの残る綺麗な少年だ。まだ安定しない低音だがそれを差し引いても、耳の肥えた自分をして良い声をしていると言わしめる独特の艶があった。
軽やかなステップを踏みひらり、と白く雌鹿のように締まった若々しい足首が視界を掠める。
しなやかなギャロップ。楽しくて堪らないというように、彼女は踵を打ち付け次々と軽快なタップを披露する。
(どんな女だろう)
浮き立つような高揚に当てられたジエンはその顔を一目見ようと面を上げ――――予想外の人物に硬直した。
「……マリア嬢………!? 」
少女がぎょっとしたようにこちらを見下ろした。
「な、何でこんなところに………」
それはこちらが訊きたい。
余談ながら、各界の要望により貴族名鑑には近年、姓名と共に肖像画が載せられるようになった。
上流階級に列なる子息子女は社交の一環として数年ごとに編纂される分厚い巻に記された名前と顔を、ノイローゼになるレベルで徹底的に叩き込まれる。
無論、ジエンも例外ではない。
亜麻色の髪に鮮やかなエメラルドのようなグリーンの虹彩。
マリア=ダレンシス。
無意識に記憶の中の名鑑がばっと開かれ、コケティッシュな猫のようなアーモンド型の目がピタリと肖像画に一致した。爵位こそ低いものの、歴史ある名家にしてこの街の領主、ダレンシス家の娘だ。
自分で言うのもなんだが優秀なジエンの記憶に正しければ、粗末な町娘の衣装で舞台に立つ彼女は、脂ぎった顔にリンゴのような腹のダレンシス伯と南国の鳥を思わせる夫人の養女、マリア嬢のはずだ。
何故、今頃対談しているであろう父たちの娘と息子が、こんな場末の天幕でアホ面突き合わせているのか。
向こうも何かしら符合するものがあったのか、しばらくぱくぱくと声もなく呆然としていたが、
「……………ッ!! 」
突然天幕の向こうへスカートを翻した。
「ごめん、カーヒル! あとはお願い! 」
「え? え? あ、………ちょっ、マリー!? 」
ひらりと翻った裾の紅が、やけに鮮やかだったのを覚えている。
彼女は逃げ出した。
ものの見事に振り返りもせず、犬を見かけた猫のように踵を返して逃げ出した。それはもう、ロマンスとかが思考からすっぽ抜けるくらい純然たる遁走だった。
なんだかんだ言われながらも所詮はいいとこ出の坊ちゃん、認識された途端即、それも妙齢の女性から駆け引きのかの字すらない綺麗な前傾姿勢で一目散に逃げられた経験など、勿論ない。ジエンは束の間、呆気にとられたままその華奢な背中を見送った。
突然の主役の逃走に、客席からは凄まじい野次とブーイングが鳴り響いたが、それすらろくに耳に入っていなかった。リュートの相方が悲鳴のような声で必死に客を宥めようとしているのが視界の端に映る。
すっかり荒れきった天幕を、揉みくちゃにされながらなんとか脱け出したときには、彼女の姿は影も形もなくなっていた。
◇◇◇◇
「ジエン」
はっと顔をあげるといつものように濁った目をした父が冷ややかにこちらを見ていた。
「夕食の席で何をぼんやりしている。ダレンシス伯に失礼だろう」
「………申し訳ありません」
「まあまあ」
俯く少年に何を勘違いしたのか、エリシマム伯は太った腹を揺すりながらちらりとこちらを見て笑った。
「ジエン殿、何か考え事でもありましたかな」
「いえ…………いや、そうですね」
ふと思い立ったジエンはフォークを動かす手を止めた。
「ダレンシス伯。確か、伯には三人のご息女がいらっしゃると伺いました」
「ええ。長女のエリーザ、次女のルイーゼ、姉夫婦が亡くなった際養女として引き取った姪のマリアです。上の二人はすでに嫁いでおりますが………確かマリアはジエン殿と二つ違いでしたかな」
「実は昼間、庭であるご令嬢をお見かけしまして、以来ずっと頭を離れないのです」
「ほほう」
前代ダレンシス伯は、婿入りした当代ダレンシス伯の兄である。つまりダレンシスの本系は亡くなった夫人の方なので、伯爵家の正当な血筋は当代よりその娘のマリアにあたる。
マリアが婿を迎えれば継承権はマリアとその夫に戻る。だがもしここで上位の公爵家、それも一粒種のジエンに運よく気に入られれば、継承は自動的に夫妻の娘夫婦かその孫に継がれることになる。
要するに、姪御を嫁に出すのは彼れからすれば願ったり叶ったりの状態なのである。
会ったこともないオッサンの名をひたすら機械的に詰め込む貴族名鑑の暗記など楽しくもなんともないが、この時ばかりは自分のまめさと記憶力に感謝した。
まつげを伏せ、悩ましげに答えてやると、案の定ダレンシス伯は冷たい目をして黙す父をちらりと横目で見やりながらも、身を乗り出して食いついてきた。
「それで、そのご令嬢とは………」
分かりきった前振りだろうに、そわそわとこちらを見やる夫人が面白くて、つい悪戯心が湧いた。
どうせなら焦らしてやるかと、困ったように手を広げた。
「それが分からないのです。声を掛ける間もなく、逃げられてしまいまして」
「そ、そうでしたか。それは難儀でしたな」
いかにもな上っ面一枚のしたり顔で頷く夫妻にジエンは可笑しくて堪らなかった。
煩わしく息苦しいギスタフの名は、彼らのような人間には垂涎の的だ。次期公爵が娘に興味を持ったとあれば、繋がりを作るため滞在までになんとかして対面させようとするだろう。
手のひらを傾けてやれば傾けてやるだけ、コロコロと卵人形のように転がってくれる。
ジエンはナプキンで口元を拭うと、飛びきりの笑顔で夫妻に微笑んだ。
「まあ、僕も帰るまでにせめてもう一度彼女に会えないか、庭の散策にでも繰り出してみますよ」
事前連絡が功を奏したのか、彼女とは存外早く再会できた。
「なんだ。今日はあの可愛らしい舞姫の姿じゃないのか」
「…………さて、何のことでしょうか? 」
夫人の趣味か、ふんだんにレースをあしらった黄色のドレスに見事なまでに着られた少女。
庭を歩いていたら“偶然”居合わせた彼女に、ジエンは知らず頬が緩むのを感じた。
「今度こそ名前を伺っても? レディ」
夫人から話を聞いているであろうことを前提に、ジエンはすっと手を差し出した。
少女はしばらくの間、疑い深い目でジエンの顔と手を交互に見やっていたが、やがて諦めたように小さな白い手を預けた。
「………マリア=ダレンシスですわ。マリアとお呼びくださいませ」
「残念。マリーじゃないのか」
「…………………」
「頑ななところも魅力的だけど黙りは勘弁して欲しいな」
「……それは命令ですか? 閣下」
むっつりとした横顔は意外なほど幼く見え、苦笑と共に肩を竦める。
「閣下は止めてくれ。ジエンでいいさ。大丈夫、夫妻に告げ口するつもりはないよ」
「……脅しですか? 」
「そう聞こえたならそれでもいいよ」
釣り気味の猫のように大きな目はふてぶてしく睨み上げてくる様に、ジエンはなんだか無性に楽しくなった。
マリアを伴い、ジエンはあらかじめ目星をつけておいた小さな川辺に出た。せせらぎの音に混じり、チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえる。
「ここは、周囲からは“見える”が“聞こえない”場所なんだ」
上流から下流を簡単に指差して、ジエンは少女の耳元に囁いた。
緑が明るく開けた視界に、流れる小川がきらきらと日の光を反射して白く煌めいている。光景の中の所々の不自然に、ジエンはちらりと視線を流した。
護衛はジエンたちを守る一方で、父たちへの報告の義務がある。ジエン一人なら撒くことも出来なくはないが、今はマリアのエスコート役だ。つれ回すわけにはいかない。
だがここなら一番近い茂みからでも、会話の内容はせせらぎに紛れて聞かれることはないだろう。
「…………ご配慮、感謝しますわ」
「つれないね」
ぴりぴりと警戒心もあらわに睨み付けてくる濃いブルーの瞳に、自分はよほど怪しい相手に映っているらしい。
ああ、どうしようか。ジエンは笑みを深めた。
話したいことはたくさんある。彼女といると自分らしくもない部分がやけに剥き出しになってしまう気がする。
猫のように輝く双眸が真っ直ぐこちらを見上げてくるたび、ジエンは感じたこともないむず痒い高揚を感じていた。
「そんなに愛想がないんじゃ、嫁の貰い手がなくなるよ」
「大きなお世話です。さっさとお話とやらをしてください」
「ふーん。じゃあ、どんな話をしようか? 」
「はあ? 」
遠慮の欠片もなく顔をしかめた少女に
「社交辞令の定番、天気の話なら今日は最高にいい天気としか言いようがないね。それとも女性を誉めるならドレスの話でもしようか? その黄色いドレスとても君に似合ってるよ、とか」
一瞬、叩かれたような顔で目を見開いたマリアは、すぐ羞恥に頬を紅潮させ唇を震わせた。
「……皮、肉……よね? 」
「アクセサリーかドレスを褒めるのが一番手っ取り早いけど、流石にねぇ」
くす、と笑いながら頷くとマリアは顔を伏せた。
はっきり言って、これはない。どうにも褒めようがないのだ。
ドレスとは本来着る者に合わせて仕立てるものだ。大人びた意志の強そうな顔立ちに、野の獣のようなしなやかな肢体。ふわふわと砂糖菓子のようなレースをふんだんにあしらったドレスは彼女にはどうもちぐはぐで、愛らしさよりももっさりとした派手さが目につく。
「うーん、それは夫人の趣味? いや、でもかなり裾を詰めてるみたいだし……急拵えの姉君のお下がりかな。マリア嬢は正統な次期爵位継承者だろうに、ドレスくらいなかったの? 」
「…………………で、」
「え? 」
「何であんたにそんなこと言われなきゃならないのよ!! 」
カッと、牙を剥かれた気がした。少女の唇は紅では到底誤魔化せないほど白く震えていた。
「お察しの通り、私のドレスなどとうにないわよ。………ダレンシス家ももう今は、あの人たちのものだもの」
がん、と自分の無神経な言葉に殴られた気がした。
楽しげに踊る街角の舞姫。
浮かれきった頭の芯がここにきて急速に冷えた。
何故、彼女があの場にいたのか。どうして考えなかったのだろう。
運命から逃れようとしていたジエンのように、彼女もまた逃げてきただけではないかと、何故考えついてやれなかったのだろう。
叔母夫婦はマリアを囲いこそすれ、慈しみはしなかった。
大分後になってから知ったことだが、彼女は屋敷では食事すらろくに与えられず、下町に戻った古参の使用人の一人になんとか育てられたのだという。
思うままに舞い踊る彼女に、「マリー」にもう一度会ってみたかった。
だがギスタフの名を使って無理やり引きずり出したのは、ダレンシス家のしがらみに囚われたマリアだった。
雁字搦めの貴族社会にあって蝶のような奔放なその光に惹かれたが、光である以上それは必ず影に宿るもので。マリアからすれば自分は彼女の最後の逃げ場所すら奪おうする貴族社会の権化に過ぎない。
息苦しい、音も匂いもない泥の底。
逃れることの出来ない時計塔の歯車。
彼女も自分も。
「もう、帰らして下さい。これ以上お話しするようなことはないはずです」
イヤダ。
だって俺はまだ何も知らない。
君の言葉を全然知らない。
「―――伯爵家の小娘風情がギスタフ家次期当主に逆らいたいと言うのなら、ご自由に」
とっさに、家の名を出したのは初めてだった。
本当に踵を返していってしまいそうで告げたのは冷ややかな、そして最悪の言葉。
「ねぇ、マリア―――」
上手く纏まらない言葉を探しながらも、その肩が自分のそれより遥かに薄く、か細いことに気づく。
けれど、小さく震えながらも彼女はきっ、とうっすら涙の溜まった目で真っ直ぐこちらを向いて、笑った。
「やってみなさいよ 」
怒りも悲しみも、本当はとても近い色をしているのかもしれない。
大きな瞳に溜まる済んだ涙は、今にもこぼれ落ちそうな美しいエメラルド。危うい儚さと苛烈さに、どうしようもなく目が吸い寄せられる。
令嬢なんかじゃない。
獰猛で、けれど圧倒的に美しいもの。
鬱屈した想いを解き放ったような獣じみた、一人の「マリア」としての叫び。
この世にはどうしようもならない大きなものがあった。それでも押し潰されまいと輝く、「個」の光。
「どうぞお望みのままに、閣下。 こんな家滅びたってかまわないわ。私は私の意思であんたなんか――――」
大ッ嫌いよ。
決定的な拒絶に、その瞬間、自分の内に覆っていた昏い殻が亀裂を弾けさせて崩壊した。
「………あ、」
引き止めなければ。
また、彼女はスカートを翻して消えてしまう。
そんな焦りにとっさに掴んだ腕には、思いがけず力が入っていたらしい。
「触んなこの糞ボンがぁああああ!!! 」
淑女らしからぬ怒声と共に……拳が鼻を直撃した。
「ッ~~~~~!! 」
鼻は人体における急所である。東方の医学書に昔、そんな記述があった気がする。
剣術稽古でもちょっと経験したことがない類の鋭い激痛に、無意識にぼろぼろと涙が零れ落ちる。鼻を抑える左手が妙に温かくて金臭い感じがすることから鼻血も出てるようだ。
……それでも掴んだ腕を離さなかった事は、ジエンの生涯で恐らく最大の英断であった。
――――どさくさに紛れるなら今しかない。
後にクリミアの英雄とまで謳われることとなる少年が初めて決勝点を制した瞬間であった。
弧を描いて飛び散った赤に、ギョッとした顔で流石に引け腰になっている少女に少年は流れるように跪き、騎士の礼をとっていた。鼻血と涙と顔から出るもの取りあえず押さえた手のひらで一緒くたになった最高に決まらない状態のまま、それでもジエンは逃さじの熱意を込めた上目遣いで見上げ、綺麗な方の手で少女の手を押し戴いた。
「済まない、俺は言葉が足りないから………ただ君と、話をしてみたかっただけなんだ」
結婚後、あの時はちょっと本気で怖かった、とマリアは語る。
だが鎌かけや冗談の多いジエンの人生において、多分、後にも先にもあれ以上馬鹿正直な言葉はないと断言出来た。
そう、自分はただ、彼女と話をしてみたかったのだ。
もっと知りたかったのだ。
伯爵家の令嬢マリア=ダレンシスでなく、粗末な舞台で楽しげに歌い踊るただの“マリー”と。
哀歌でありながらあんなにも伸びやかな歌は、隙間なく守られて息苦しい“ジエン”の世界に、初めて差し込んだ光だった。
小鳥のように逃げ出した彼女をなんとか捉えようと夫妻に手を回したのも、ただ話してみたかったから。
それなのに焦って力で捩じ伏せようとして、泣かせて。
締めに至ってはまぁ…………本当にどうしようもない。
ギスタフでも器用でもそつなくもない、つまらない一人の“ジエン”。
歯車なんかじゃないちっぽけな少年として、彼女と話してみたかった。
不器用と分かった以上、ひとつひとつ交わしていく言葉はまどろっこしくて届く保証もない。
それでも泣き落としてまで手に入れた伝え合う機会を、逃す義理はない。
ジエンは鼻血を溢れさしたまま真摯に己が非礼を詫び、そして実に原始的にその想いの丈を伝えた。
「――――もういいわよ」
、ややあって、少女はそっぽを向いたまま唇を尖らせた。
「マリア? 」
それはどういう意味なのか、不安に駆られながらその海の色の瞳を覗き込む。
「もういいって」
「何が? 」
「もういいって言ってるでしょう! 」
「だから何が!? 」
必死に顔を背ける彼女に、こちらも必死だ。なんとか追い縋り、俯こうとする顔を半ば強引にこちらを向かせて固定する。
もうすっかり涙(と鼻血)の乾いた互いの目がばっちり合うなり、マリアはとうとう吹き出した。
「だ、だって学院の寵児とも言われたはずの貴方が、お、お風呂に入れられたレミィみたいな顔しちゃって、あはははは! 」
「レミィ? 」
「あはははは! もうやだ、笑いが止まらなくなるからあっち向いて! 」
「ねえ、レミィって何? 」
「こ、こっち向かないでッたら、ぶふッ、ね、ねこよ」
「ねこ………? 」
「家で飼ってる黒猫! ずぶ濡れでこっちを見る目がそっくりなの! 」
「………………」
「いやーもうこっち見ないでーあはははは! 」
「………………」
彼女は笑い出したら止まらない性格らしい。
どうやらジエンをそのレミィとかいう名の猫に重ねているらしく、治まりかけたかと思って顔を合わせた途端吹き出しての繰り返しだ。
腹を押さえて大爆笑する様はおおよそ淑やかな令嬢と言えるものではなかったが、こんな底抜けの気持ちのいい笑いを、ジエンは他に知らなかった。
泣き顔も悪くはないが、この笑顔には勝るまい。
紳士として泣かせたお詫びに、猫だろうが犬だろうが甘んじて受けようではないか。
取りあえずそう告げてやると、とうとうマリアは「ホント止めて」と爆笑しながらよろよろと走り去って行ってしまった。
◇◇◇◇◇◇
街角の舞姫と、猫被り少年。
喧嘩と仲直りをいく度となく繰り返し、足りない言葉を迷いながら重ね合い、二人はささやかな恋をした。
やがて、彼女を妻に迎え、子供に恵まれ。
彼女はいつも、ジエンに大切なものをくれた。
生涯もう、彼女以上の女には会えない。そう思えてならないほど、ジエンの生に彼女はかけがえのない光だった。
自分が彼女にしてやれるものなら、何だってしてやりたい。欲しいものがあるなら、すべて与えてやりたい。
そう言っても、彼女は優しく微笑むだけだった。
もどかしくて「お前は謙虚すぎる」と言うと、彼女は首を振った。
「私はきっと、貴方が思う以上に強欲だわ」
子供たちの寝顔を眺めながら呟くその姿は、穏やかな慈愛に満ちていて、けれどどこかあの日の儚さを思わせる彼女に、ジエンはそっと唇を重ねた。
彼女との時間は、いつだってジエンの中で鮮烈に輝いている。
幸せだった。
あの光に満ちた日々を送る自分はきっと世界中の誰よりも、幸せだった。
かちり、と。
逃れ得なかった歯車がその瞬間を突きつけるまで。
――――やがてその言葉の本当に突きつけられる、そのときまで。
レミィと黒猫亭の由来、カーヒルの「縁」の由来でした。




