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君がため




視界を覆う、一面の闇。


(…………姫様、)

水底から泡とともに、蟲や蟲師のリコ、そしてリース自身の身体が派生してゆく。


いくつもいくつも。

何度でも何度でも。

肉体に記憶を入れ替え、生まれ直す(・・・・・)

記憶(メモリアル)”たるミーナに保存された技術や記録を用いて、船を追われた彼らは永い永い時を生き続けた。


(――――姫様)

まったくもって、あり得ない景色。

いつも通りであればあり得ないと断じたはずの映像を、しかし断じられない。

それが魔法や神の奇跡でもなく理と律に基づいた明確な「科学」だと、他でもない(・・・・・)アシュ自身が(・・・・・・)知っている(・・・・・)からだ。



パンゲアには到底なし得ない知識や技術ごと、映像と同時進行で叩き込まれていく。どうやら裏付けやバックボーンとなる知識までサポートしてくれるらしい。余りの情報量にパンクしない自分が不思議なくらいだった。

「理解できないだろうから、まとめて説明する」というミーナの言葉の意味がようやく分かった。

これは、言葉だけではとても理解できるものではない。ましてやこんな情報伝達ツールがあるなら、一々説明するだけ時間の無駄だ。


ふいに場面が変わるように、闇の中にふわりと華奢な肢体が浮かび上がる。

ルルーだ。

眠っているのだろうか。白い面に長い睫毛が露を含んだような影を描く。

(――――姫様、)

次いで、砂に汚れた旅装束のリコが現れた。

大昔のケープのような衣装は瞬く間に滑らかな繋ぎの奇妙な服へ変わる。ザザッ、と映像がぶれたかと思うとリコは老人になっていた。老人の指はゆらゆらと揺れる銀の髪へ。

愛しげに撫でたそのときにはまた画像が揺らぎ、老人は背に髪を括った青年へと変わっていた。

少年のリコ、老人のリコ、青年のリコ、壮年のリコ………

出で立ちや姿も目まぐるしく変わる中で、蟲人は慈しみに満ちた優しい目を軽く閉じるとそっとルルーを抱き寄せた。

(…………ようやく、また会えた。僕の、姫様)

愛しげに、切なげに、互いの隙間を埋めるように掻き抱くリコ。



「黙って見てれば………ふざけんのも大概にしなよ」

リコが顔を上げた。

心底不思議そうに、揺らめく影を引き擦りながら彼は首を傾げる。

(何故? 僕は今度こそ姫様を守りたい。なのに何故それを妨げるんです? )

「何故だって? 」

アシュはリコをきつく睨み付けた。

「人違いだね、その子は君のお姫様じゃない。守れなかったのは、君だ」


『今度』という言葉が許されるなら、自分とても手を放さなかった。

それが出来ないから突き放した。

なんの確証もない他人の『今度』という甘えに彼女を危険に晒すくらいなら、始めからあんな風に泣かせたりはしなかった。

彼女を傷つける者なら自分自身ですら許せなかった俺が、そんな彼女の隣にお前なぞを立たせるものか。彼女は誰かの代わりになんかならない。

アシュはその優しげな面に吠えた。


「大体、お前どこ触ってるんだよ! その子はルルー、俺のルルーだ!! 」



再び視界が揺らいだかと思うと、すっと灯りを落としたように二人の姿は舞台から闇に掻き消えた。







◇◇◇◇





(――――これは……)

腕をかくと、水の感触が指をすり抜ける。七色に変化する波紋。ごぽり、と口から漏れ出た泡がたゆたいの中に吸い込まれていく。

気がつけば光と闇の狭間のような、青い奇妙な空間の中にいた。

ぼんやりと身を任せていたアシュだが、目を見開くなりはたと喉に手をあてた。

(な、息が………)

息が出来る。

肺を満たしているのは確かに水のはずなのに、どういうわけだか普通に呼吸ができていた。幻覚的なものでもないようだ。

アシュは記憶を手繰り寄せる。そう、確か泉に向かうと言うリースが天を仰いで歌い出して、それから………


(まさか、あの水柱が“泉”なのか……? )

最後に覚えているのは、轟音と共に落ちてきた奔流。

直径だけでも一町(約百九メートル)はあろうかというふざけた奔流だ。リースはふらふらと浮かんでいた周囲の水球を全て集めたのだ。石柱のサークルの範囲内にいたアシュたちは、逃れようもなかった。

咄嗟に覆い被さるようにルルーを庇い、……記憶はそこで途切れている。

(んー……となると、この妙な空間が真実の眠る“虚空の泉”ということになるわけか……)

何だが知らんが息が出来るのも、“天涯の月”の効果なのだろう。少なくともまだあの世では無さそうだ、とアシュは胸を撫で下ろす。


(それにしても)

まるで夢を、それもとてつもなく悪い夢を見ていたようだった。

脳内を見たこともない映像が己れの意思と無関係に流れていく。誰かの夢の中に強制的に閉じ込められているような、思考やらを勝手に弄くられて覗かれているような、そんな薄気味悪さ。

恐らく、あれがリースたちの見てきた過去の景色、千二百年前に起きた出来事なのだろう。



――――ほう、やはり大層な男じゃの。もう適応しおったか。


頭の奥にりんと涼やかな声がこだました。

闇の中にふわりと仄白いリースの肢体が浮かび上がった。

――――少しそなたの記憶を覗かせて貰ったぞ、“嘆く者(アシュ)”。

「…………………」

強張りかけた身体を咄嗟に抑え、青年は微笑んだ。

「成る程、貴女の記憶に俺たちが四苦八苦している間に貴女は貴女で、探っていたというわけか。ふん、俺の過去なんざ、そう面白いものでもないでしょうに」


母を奪われ、姉を巻き込み、父に追い落とされ。身内で相争い、挙げ句娘と引き裂かれる原因ともなったフィロ兄弟の諍いを知るリースにはギスタフ家の悲劇はさぞや醜悪に映ったことだろう。愛も、情も、家族もない。 幸せや未来を求めるでなく、ただ悔しくて、燃え盛る憎しみに身を浸し嘆き続けてきた。

その点、自分はアリウス=フィロに近いのかもしれない。

自嘲気味に口の端を吊り上げると、白い指がそっと頬に触れた。


――――……そうだの。そなたの記憶は吾の娘たちの悲しみそのもの。

リースは悼むように僅かに声を落とした。

――――この世界で、もはや吾は過去の亡霊に過ぎぬ。ミーナに記録された技や知を頼りに肉の器を入れ替え、何とか今日まで繋いできたがそれだけじゃ。生きるというのは本当はもっと、違うものなのだろうの。

頬を離れたリースの指がひらりとたゆたいに踊る。

次の瞬間、闇の中にふっと雪明りのような白い小さな身体が浮かび上がった。

白銀の髪が緩やかな流れにふわふわと揺れている。舞台を終えた人形のような力ない身体は静かにこちらへ流れてくる。

アシュは腕を伸ばすと、まぶたを閉ざしたままのルルーをそっと抱き止めた。


――――ほんに、その娘が羨ましい。見ているこちらがあてられそうじゃ。

「………ルルーは俺の“光”ですから」

ふっと口に手を当てて笑うリースにアシュは答えた。


この子には誰よりも幸せで、安全なところにいて欲しい。

小さな手を引いたそのときから、自分はすでに光に目が眩んていたのかもしれない。

利用する目的で連れ去っておきながら、誠実でいたいという矛盾。過去の闇にしか目を向けてこなかったくせに、「幸せ」なんて鼻で笑っていたはずの言葉を心から願った。

――――光、か。……その娘には、本当にすまないことをしたと思うておる。

夜目にも光輝くような銀の髪が波線に浚われ、煌めく。夫と娘を奪われ、一人きりでこの虚空の中にあり続けた彼女を哀れと思わないわけではない。

――――そなたには言い訳に聞こえようが……吾もまさかフクロウがかような幼子とは思わなんだ。つらい使命を背負わせてしまったと悔いておる。

「……………」

青年はリースの誠意に何も言わず、少女のまろい頬を撫でた。


運命に翻弄された彼らを、哀れとは思う。でも、それだけだ。この子が一人ぼっちで小さな空しか知らずに過ごした時間はもう戻らない。

過去は過去だ。良くも悪くも。

ふっと口の端を綻ばせ、アシュは顔をあげた。

「リコ君も、いるんだろう。出てきなよ」


「………嫌みなくらい聡い人ですね」

ふわりと波紋が広がる。

水影が揺らぎ、いつの間にかそこには困ったように眉を下げながら少年が立っていた。

「一体、いつから気づかれていたんです? 」

「別に気づいていた訳じゃないよ。ただ蟲師……いや、従者たる蟲人が仕えるべき主の傍らを離れているとは思えなかっただけさ。――――女神リース」

アシュは顔を上げた。

「貴女は先程、俺の思考を覗いたと言いました。……なら当然俺の腹の内の企みも、すべてご存じのはずですよね?」

そうじゃの、と彼女は淡く微笑んだ。

「アシュ殿の体内を流れる“天涯の月”に干渉し一部遺伝子を書き換えることで、貴方自身が“フクロウ”となる。……そういうことですね」

「そうそう、そういうコト。話が早くて助かるね」



ルルーの中にあるという、“天涯の月”。

“天涯の月”が彼女の遺伝子に作用し続けている限りその髪は白銀で、生涯アークの追手や反政府派の手から身を隠し逃れ続けなければならない。

――――それならば、今この場で、フクロウの『代替』をさせてしまえばいい。

アシュが提案したのは至極簡単な、いっそつまらないくらい面白味のない策だった。



「理論上は可能です。………ただし肉体的負担と成功確率を知ってなお主張しているなら、正気の沙汰とは思えませんが」

「そうかなぁ。リコ君ならやったことありそうだけど? 」

「ええ、ありますよ。原因不明の不完全発達やら細胞肥大やらの末、内臓ごと腐り落ちましたが」

「……………それはそれは」

ちらりと視線を向けたアシュに、リコは淡々と応えた。

「もともと(グランマム)や姫様に合わせた“月”は、遺伝的にも根本から異なる蟲人(ぼく)の肉体への干渉は不可能です。船に残る装置を使えばあるいは可能だったかもしれませんが、アリウスのやフィロの阿呆どもが適当に弄くったお陰で、外部からハックしようにもすでに船のリンク設定はメチャクチャ。おまけに蟲人の遺伝データからムシヤライとかいう有毒植物まで生み出して………」


結局、アリウスたちはパンゲアの一部を焦土にしてしまった事を切っ掛けに船自体を使いこなす事は諦めたのだという。

代わりに管理者たるフクロウを確保することで船体――――アークを拠点として維持。虚構の「神話」と蟲による社会の礎を作り上げた。

これでも四公の生まれだ。フィロの血統において、客観視しても王祖アリウスがどれほど卓越した政治能力を持っていたか分かる位には、教育を受けている。国政を独特の政治学をもって整え、なされた情報統制などほとんど芸術的と言っていい。

“月”の誤作動も結果的にアークにとっては良く運んだ。彼ら自身がそれを望んだかどうか、また購われた血の色こそ拭えまいが、アリウスとニルアナ、二人の不世出の天才が自由と規律のしがらみの中で起こしたある種の奇跡のようなものだ。

だが四公の母となったフクロウの娘(オウリ)は城の西の尖塔、かつて制御室と呼ばれていた“泉”のある部屋の真上に閉じ込められた。二度と|蟲を使えぬ《・・・・・》ように《・・・》封じられたのであろうもう一人の蟲人、「兄弟」のサナはムシヤライに囲まれたコダエに封じられ、故意か偶然かは分からないが、やがて長い歴史の中でアークに忘れ去られた。

両親のみならず親しい者から切り離され、巨大な空飛ぶ船の主に祭り上げられた一人きりの幼い少女が、その後どのような経緯を辿ったのか。気の狂いそうな時間の中で待ち続けた彼らの心情からすれば、空白の歴史は許したり忘れたりするにはあまりに悲しすぎた。

とりわけ王祖アリウスの名に対し、ニルアナを愛したリースが滲ませていたのは深い悲しみだったが、リコの言葉の端々に見え隠れしていたのはそんな、決して癒されることない引き攣れのような傷だった。





フクロウの(・・・・・)役目は俺が(・・・・・)引き継ぎます(・・・・・・)。俺の身体にある“天涯の月”を、発現させて下さい」


ルルーの頬をそっとひと撫でして、アシュはいつも通り気負いもなく飄々と立つ。

大勝負は意地の張り合い。好いた惚れたと抜かしたからには、命を掛けても張り通さねば意地にはならない。

リースはちらりと傍らに控えたリコを見遣ってから、白魚のような麗しい指を悩ましげにおとがいにかけた。

――――傲慢じゃな? 本当にやれるのか?

リースの試すような問いに、青年は「もちろん」と力強く頷いた。

「勝算のない賭けはしない主義ですがあの子に関わるってんなら、話は別だ。男として退くわけにも負けるわけにもいかないでしょう」

幸い、勝率はゼロではない。

遺伝的にはフクロウを発現しているマリアを母に持つアシュだ。血の濃さに関しては女神の折り紙つき、可能性は十分にある。

何かを欲するなら多少の見返りくらい覚悟のうちだ。

「この子は貴女の望みを叶えるだけの力なんてない、ただの女の子だ…………少なくとも俺の方がこの子よりは余程上手くやれますよ」

不敵な笑みを浮かべる青年にふむ、とリースは束の間長い睫毛を閃かせて逡巡する。

――――リコはどう思う?

「僕は、構いませんよ。確かに、アシュ殿なら身体に何らかの障害を遺すとしても、僕などよりはよほど可能性は高い。それに、貴方なら成功さえすれば言葉通りの結果を出してくれそうです」

守ると言うなら守りきって見せろというように、リコは彼にしては挑発的な強い視線を向けた。


「………ああ、そうだ。アシュ殿に一つだけ、いいですか? 」

「? なんだい? 」

ふと思い出したという体で、呼び止めた少年にアシュは振り向く。

「確かに貴方の言う通り、僕らは“(グランマム)”に仕える者。ですが、一つだけ訂正させて下さい。我々にも意思がない訳じゃない」

「うん? 」

「彼女を守りたいと思ったのは姫様の系譜によるものだけじゃありません。ちゃんと僕の意思ですから」

「……………」

口を噤んだアシュにリコはにっこりと微笑む。柔らかな輪郭に浮かぶ幼い笑窪と正反対の老獪な笑みだった。

「先程は久々のことで些か記憶につられてしまいましたが、大丈夫ですよ。貴方が賭けに負けても、ルルー殿はルルー殿として守れますからね」

「……どうせ俺が勝つけど一応、記憶に留めとくよ」


――――話は纏まったかの。では嘆く者(アシュ)、健気なその献身に免じてそなたの策に花の匂いのする都エローラ・サン・メルテは全面的に乗ってやる。

ルルーをリコに預け、アシュは頷いた。

女神の名に相応しく厳然さる美しさを纏い、リースは赤い唇を割った。

生まれ故郷を失い、歌と共に渡ってきた異界の徒。

その稀有なる歌が、光の波紋とともに渡ってゆく。流れ出す水の感触に、視界の隅を流れる己れの黒い髪が煽られるのが映った。





次の瞬間。

闇の色がざわめいた。

「くッ、……ぁあ……ッ 」

食い縛る歯の隙間から漏れ出る押し潰された呻きをアシュはぐっと飲み込んだ。


「……これから肉体負荷を超加速でかけていきます。しばらく辛いでしょうが、後遺症を除く肉体的変化の苦しみは一瞬です。ご健闘を」

リコの歌がさらに重なった。

絡み合い、支え合い、調べは光にこだましてゆく。

襲い掛かる締め付けるような吐き気と疼痛。骨肉が軋み、ぶちぶちと繊維が作り替えられる。

「あ、あアアぁあァァ………!! 」

脳髄を抉られ、内からまぶたへと圧迫される眼球が悲鳴をあげる。物でも憑いたかのように震える手足は、時折耐えかねたようにピッと出血しては盛り上がる肉に再生されてゆく。



死ぬのは怖くない。

死ぬかと思ったことくらいは幾度かあるが、どうも自分にはその手の恐怖が薄いらしかった。

アシュは軋む視界と八方へ震え暴れる指を伸ばした。

揺らぐ光の輪の中に眠る愛しい少女。

自分が付した空の名を抱く、小さな少女。

死ぬのは怖くない。

でも今はだめだ。

負けるわけにも退くわけにも、いかない。

(………ルルー)


カーヒルの言う通り俺は父と同じ、結局フクロウとして君を道具にした。

思えば自分はただ、母を愛していたはずの父が母を救えず見捨てた事を受け入れられたくなかったのだ。本当は…………誰よりも母を愛していただろう父に、ただ救って欲しかっただけ。

忘れたり許したりすれば悲しみを差し引いてしまうようで、乗り越えねばならない父の影を嘆き憎むことで心の均衡を保っていた。

そしてその結果は、巡り巡ってアシュを父と同じ道を歩ませた。

 


でも、ひとつ。

ひとつだけ。

罪滅ぼしにもならないだろうがせめて成り行きに抱いたこの気紛れを、貫き徹そう。


それが悪党の俺の、君に出来る唯一の償いだ。












「―――――――――ぁッッ!!! 」

圧迫が、何かを押し潰す嫌な音と共に脳髄を叩いた。絶叫が、遠い潮騒のように鼓膜を震わせる。

だがそれを最後に途端ふっと身体が軽くなり、軋みが消えた。

終わったのか。

リコがこちらに向かい頬を紅潮させて何か叫んでいる気がするが、重い霧が立ち込めた脳にまでは届きそうもない。

(……はは、悪運の強さかね……)

遠近感のない視界に混じり合いながら閃く、黒と白銀。

ルルーのような月の色というより悪魔堕ちした老父のような髪だがそれでも、フクロウの色。――――成功だ。

(…ざまあリコ君、これで賭けは俺の勝…ち……)



アシュは感覚の消えた右目を悼むように、ゆっくりとまぶたを閉じた。









ひとまず「女神様といっしょ☆怒涛のフラグ回収祭り」はここで一段落。

そのほかもこれから追々回収してきます。


ここまでお読みくださりありがとうございました。

次回から新章です。

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