その腕で抱きしめて
すんません。
次回は「とうとう花の匂いのする都へ!」なんて予告しときながら意外に長くなっちゃって、そこまで進みませんでした。
気がつくと、暗闇の中にいた。
暗闇、といっても冷たくはない。上も下も分からないが、柔らかくて温かい。
穏やかな海に浸かったような、そういう優しい闇だ。
頭の天辺から爪先までたゆたう暗闇に身を任せるのはとても楽で、安心出来た。
――――ここにはもう、傷つくようなものは何もない。
誰に教えられた訳ではないが漠然と、そういうものだと分かっている。歓びも眩しさもないけれど、静かで心乱されることもない。
ここにいれば大丈夫。
■■■は目を閉じる。閉じてもどうせ同じ闇だ。このまま波に身を任せていれば良い。
だが、静謐は突然破られた。
温かな均衡を破る無粋な声が、名を呼ぶ。
「■■■ッ、目を閉じるな■■■!! 」
ふいに水中に腕が現れた。
食べても食べても細っこい自分の腕とは異なる、大きくて少し節張った、しっかりとした男の人の手。
その腕は自分の細腕をがっちり捕獲するや、あろうことかぐいぐいと身勝手に引っ張り始めた。
どこか聞き覚えのある耳慣れたその声は、完璧な調和を乱して繰り返し繰り返し名を呼び、眠りを妨げる。
「勝手に死ぬなんて許さない! 目を閉じるな! 」
勝手はそっちだ、と少し憮然とする。眠いのに。ここなら穏やかに眠れそうなのに。
私は自由だって言ったのは貴方なのに――――どうしてそんなに強く抱き締めるの?
“天涯の月”が、フクロウの私が、必要だから?
「■■■、■■■、■■■………ッ! 」
声は執拗に名を繰り返す。しかし何故だかその部分だけが石を爪で引っ掻くような耳障りな音で、頭が割れそうになる。
お願い、もうその名を呼ばないで。
そんなに強く抱き締めないで。
もう苦しいのは嫌だ。
ひどい、ひどいよ。なんて悪党。こんな……呼吸も止まるほど、優しく抱き締めないで。
もう、泣きたくなんかないのに。
苦しくて、苦しくて。このまま壊れてしまいたいのに。
刹那、底の方から猛烈な勢いで金の泡が沸き上がってきた。下からの押し上げに、腕は勢いづいたようにますます強引に水面へと引き上げにかかる。
慌てて逃れようともがけば途端、吹き上がってきた泡がごぼごぼと鼻や口から入り込んで噎せた。空気が獰猛な痛みを暴走させながら肺を犯す。
放して。もう放っておいて。
戻れないならもう何も感じたくない。優しいこの場所でたゆたいに身を任せていたい。
「駄目だ。そんなこと許さない。絶対に許さない!」
見え始めた水面は泡と同じ、朝陽のような金色。傲慢なその声はだんだん近づいて来ているのか、金色の水面にわんわんとうるさいくらい反響している。
水面は泡でバタバタと慌ただしく波立っていた。いや、泡だけではない。上からも、落ちてくる。
鏡のような水面の向こう側、こちらに向かい降り注ぐ大粒の雫。
波紋がいくつもいくつも重なり、広がっていく。泣いているのだ。
傲慢で身勝手で狡くて臆病で偏屈で………けれどどうしようもなく大好きな彼が、泣いている。
悪党のくせに、身も蓋もなく、絞り出すように慟哭している。
「いかせない。いかせるもんか■■■。たとえ君がそう望んだのだとしても、君だけは絶対にいかせない。――――君は生きて、幸せになるべき女なのだから」
水面はもうすぐ鼻先まで迫っていた。
静けさも穏やかさももう遠い。
――――嵐のあの日。
美しいものも恐ろしいものもすべてひっくるめて、窓の向こうに広がるものを知りたいと願った。そして他でもないこの手を取った。
苦しくて、眩しくて、泣きたくなるくらい愛しくて堪らない。
傷つきながら、なお歓びに震える生命の輝き。
目の眩むような水の上へ、光の中へ、彼はルルーを引きずり出した。
◇◇◇◇
「う………」
重いまぶたを開くと、まるで水から揚がった直後のように肌にシャツがべったりと貼り付いていた。気だるい体に纏い付く汗はやけにぬるぬるとしていて、ひどく気持ち悪い。
頭がぼんやりと靄がかかったようだ。何か、大切な夢を見ていた気がするが思い出せない。
思考を放棄し見上げた先には手燭の灯りが揺れる、飴色の寄せ木細工の天井が広がっていた。ルルーの部屋だ。
「ルルーちゃん……? 」
「………テナ」
伺うような声に顔を向けると、目に涙を浮かべたテナはすぐさま駆け寄ってきた。
「良かった、目が覚めたのね。具合はどう? どこか辛くはない? 」
心配をそのまま瞳に乗せて、意識を確認するようにしきりと頬を撫でられる。一通り確かめれば安堵したのか、テナはほっとしたような表情でずり落ちたタオルをボールで絞り直してくれた。ハーブでも散らしてあるのか、ひやりとした感覚が心地良い。
「目が覚めたって皆にも知らせないとね。ルルーちゃん、あれからずっと目を覚まさないから心配してたのよ」
「……あ………」
頭がようやくまともに回転し始めるなり、さぁーっと血の気が下がっていく。
ルルーは布団から飛び起きた。突然の動作に血が下ったのかくらりと視界がぶれるが、それどころではない。
『あれから』
そう、確か薬を飲んでそのまま気を失ったあれから、どれくらい時間が経ってしまったのだろう。
窓の向こうにはすでに氷を削り出したような半月が天頂を傾きかけている。日付の感覚はないが薬を飲んだのが昼過ぎだったから、半日近くずっと眠っていたことになるのか。
(………アシュは……? )
ひらりと手を振り歩み去る背中を思い浮かべ、束の間、頭が真っ白になる。
ルルーを置いて、この街を去ると言ったアシュ。
仕事の早い彼のこと、あんなことがあった街にいつまでも長居をするわけがない。アシュが去れば、ルルーにはもう彼と繋がるものが何一つ無くなってしまう。
だからこそ別れの前にせめて話だけでもしたかったのに、これでは元も子もないではないか。
後悔と焦燥。
もう二度と、会えない。
少なくとも彼に会うつもりはないと、ダヴィドから聞いている。
記憶のない間の空虚が、不気味な真っ黒い強迫観念の影になって手足を絡め取っていく。
もしかしたら、彼はもうすでにここを去ってしまったかもしれない。そうしたら、そうしたら………
転げ落ちるようにベットを滑り出たルルーに、テナが目を剥いた。
「ちょ、ちょッルルーちゃん!? まだ寝てなきゃ……っ! 」
「駄目、………行かないと……! 」
押し止める手をもがくように振りほどき、ルルーはドアを目指す。テナは慌てて扉の前に立ち塞がった。
「と、ともかく落ち着こう、ね? だいたい行くって、一体どこへ? 」
「アシュのところへ。……アシュは、……アシュはどこ? もう行っちゃったの? 」
もう会えないの?
弱気を口にした瞬間、弛んだ涙腺から涙が一気に溢れだした。
しまった、と思うがほたほたと止まる気配もなく後から後から流れ出してくる。ついでに鼻水まで出てくるから、寝汗やらも含めれば顔から出る液はこの時点でほぼ揃い踏みだ。
だがそんな必死の形相でブラウスを掴むルルーに、困惑したような顔で首を傾げた。
「……行くって、アシュさんならカイルたちと別室にいるわよ? 」
「…………………え? 」
「『え? 』て、それは流石に可哀想でしょ………。多分一番心配してたのアシュさんだよ。もうずっと強張ったみたいなすごく怖い顔してたもの」
「ほ、本当に? アシュは、まだここにいる? 」
「いるよ。何を心配してるのか知らないけど、なんなら呼んでこようか? 」
「……そっ、か…」
かくんと力が抜けて、ルルーはずるずるとそのまま床にへたり込んだ。
「まだ、いる? ここにいる? 」
「いるいる。大丈夫ちゃんといるから」
温かな手がぽんぽんとあやすように背を撫でる。
「まったく。ルルーちゃんはそんなことよりまず自分の身体の心配をしないと。大体、あれだけルルーちゃんを大切にしてるアシュさんが、よりにもよってこんなときにふら〜っとどっかへ行っちゃえるわけないじゃない」
「……うん……」
「大丈夫だから、ね? 」
「……、うん…」
テナは頷きながらも涙が止まらないルルーに困ったように苦笑して、「ちょっと待ってて」と言い置くと部屋を出ていった。
一人になった部屋の中で、ルルーは踞ったままぎゅっと自分の腕を掻い抱いた。
薬の影響か、感情の触れ幅が大きくなってしまっている。不安と安堵にぐちゃぐちゃに絡み合った思考で、頭も心も破裂してしまいそうだ。
やがてどたどたと慌ただしい足音が駆けて来たかと思うと、ばんッと叩き付ける勢いでドアが開け放たれた。
「ルルー!! 」
真っ先に飛び込んできたのは、ダヴィドだった。
視界にルルーを納めるや否や、彼はズボンが汚れるのも構わずしゃがみ込んでしきりと頬を擦ったり、額に手を当てたりと、まるでそこにルルーがいるのを確かめるように執拗に慰撫を繰り返した。
やがてひとしきり撫でくり回すと、満足したのかこつんと額を合わせた。すぐ鼻先を、涼やかな美貌をくしゃりと泣き笑いのような形に歪む。
「……良かった。ずっと目覚めないものだから心配していたんだよ。身体はもういいの? まだ寝ていた方が良いんじゃないか? 何か欲しいものはあるか? 」
ダヴィドは矢継ぎ早な質問を繰り出しつつ、また頬を撫でた。
どれだけ心労をかけたのかが窺える分、下手に叱られる以上に身に染みる。俯いたまま「ごめんなさい」と呟けばダヴィドは眉尻を下げたまま首を振った。
「いや……きっと謝るべきは私たちの方だ。煽るだけ煽っておいて、いざ状況が変われば肝心の君の意思を無視して押し進めてしまった」
「でも、私……ダヴィドさんが私のためをお、想ってって、知ってたのに………」
「……ルルー」
「ごめん、なさい。優しくしてもらったのに、ごめんなさい。……でも、会いたかったの。最後に一度だけでも、話したかったの……」
「……………」
ダヴィドはそっと頭を抱え込むように腕を回した。途端ふわりと、人肌に温められた柔らかな香のかおりに包まれる。
ダヴィドのことは好きだ。
大切にすると、守ると言ってくれた。
でも、会いたかった。
それしか思い浮かばなかったのだ。
「……私は、君を傷付けるような奴を君に近づけたくはない」
「うん」
「だが、あれも私の友人だ。みすみす傷付くような真似はさせたくない」
「うん」
「一緒には行けない。これはもう決定事項だ」
「……うん」
「それでも………会いたいか? 」
迷いながら、それでも慎重に言葉を探す兄に、ルルーも自分の気持ちに正直でありたいと思い頷いた。
「全部忘れて笑っているより、待ち焦がれて泣く方がいい。他の誰かで帳尻を合わせる幸せならいらない………だから、会いたい。どうしても、会いたいの」
「………そうか」
ダヴィドは一瞬だけ、ちらりとドアの方を見遣った。それから長いため息を吐くと、ルルーを支えて立ち上がった。
「……またあとで話すが、君が寝ている間に君を取り巻く状況も変わった。それについて私は少々詰めねばならん話がある」
椅子に下ろし慈しむように頬をひと撫でして、青年は優しく微笑んだ。
「そういう訳で、私はしばらく大事な話をしなければならない。――――そこのドアの前で立ち聞きしてる奴、勘違いするなよ? 少し『約束を延期』にして、少し『席を外す』だけだからな」
後半だけ、戸口に向かいわざとらしく忌々しげに吐き捨てる。
チッと舌打ちの音がした。半開きの樫のドアがゆっくりと開く。
「……あ………」
ぽんとルルーの頭に一度手をのせ、ダヴィドは言葉通り立ち上がった。すれ違い様、そこに立っていた青年には容赦ない拳を腹に叩き込みながら。
珍しく文句も言わず、軽く噎せるその青年から、ルルーは目が離せなかった。
「アシュ………」
「……もう、酷いことはしないから、触れてもいいかな………? 」
夜闇を切り取ったような漆黒の瞳を伏せ、彼は消え入りそうな小さな声でそう乞うた。
うん、と鼻の詰まった返事をして、手を伸ばす。
青年は一瞬だけ躊躇ったが、そっと壊れ物でも扱うように節張った大きな手を重ねてくれた。
「………あの薬が何か、君は知ってた? 」
「“仲良しの薬”? 」
「違う、媚薬だ。女性の身体と精神を狂わせる薬」
真剣な目に思わず肩を強張らせると、アシュははっとしたように微笑み直した。
「いや、責めている訳じゃないんだ。ただ……あまり、ああいうものは口にしないで。一時は本当に危なかったんだ。俺もいつでも助けられるわけじゃない」
「………ごめんなさい。あんなものだと思わなかったの。せめてほんの少しでも、いつも通りな最後でって……」
「そっか………うん、そうだよね」
苦笑を浮かべる青年は、椅子に座るルルーの足元に跪くようにして視線を合わせた。
「――――俺はね、多分怖かったんだ」
「怖い? アシュが? 」
アシュは基本的に怖いという感覚が薄い。アークから飛び降りたときすら、彼は虚勢ではなく心の底から笑っていた。告げられた言葉の意外さにルルーは訝しげに眉をひそめた。
「そう、怖かった。君を失うことが怖い。君が凄いスピードで大人になっていて、いつまでも俺の手元にだけいてはくれない。君の目に映る俺も君の世界が広がっていくほど、つまらなくて汚いだけの男になっていく………だから怖くて怖くて堪らなかった」
「………アシュは、汚くなんかないよ」
「いや、汚いよ。汚いんだ。君には見せたくなくてずっと隠してたけど、俺は君が思う以上に悪どい。もう幾人も地獄に落とし、この手で命を奪ったこともある。後悔すらしない」
アシュは自嘲気味に口の端を吊り上げた。
「………君がキスしてくれたときだって、このまま誰の目にも付かなくなるくらい汚してしまおうかと、本気で思ったんだ。ぼろぼろに、見る影もないくらい壊して、俺から離れられないようにしてしまおうかと思った。――――多分、あのとき見たものの方が俺の本性。歪で醜い、本当の俺自身。君が、いつかそんな俺に気づいて離れていくことが怖かった。それならいっそ自分から突き放してしまった方がましと思ったんだ。……情けないな」
何故だか分からない。でも今だけ、これは嘘つきな彼の、心からの言葉なのだと分かった。
醜いという。彼は自らを汚れていると蔑む。忘れたり許したりする方が楽だろうに、復讐を誓い、正当な怒りを差し引くさえしない。その上誤魔化すことも目を逸らすことさえ出来ず、馬鹿正直に己れの業と背負い続ける。
きっとこの先も、彼はこういう生き方しか出来ないのだろう。
いつだって自信に溢れて飄々とした彼の、初めて晒す弱りきった脆い姿。
裁きを待つような静かな目を向けるアシュが哀しくて、ルルーは思わずその頭を抱き寄せていた。
「汚くなんか、ない」
「…………ッ、」
びくりと身を竦ませる青年に言い聞かせるように、軽く髪を梳いてやる。
「汚くなんかない。情けなくなんかない。……アシュは真っ直ぐ過ぎただけ。皆が日陰に入る中、一人日向に取り残されてしまっただけ。皆が楽に逃げる中、太陽の真下に取り残されてしまっただけ」
陽炎のたつ真夏の太陽の下、渇きながらも焼ける大地を歩き続ける。
孤独で、救いのない旅。
そんな人をどうして汚いなんて言えよう。
救いたい。ルルーが救われたように、この人も救われて欲しい。
思えばこんな風に抱き締められるのでなく抱き締めるのは、初めてだった。いつもとまるで逆の有り様だ。
それでも僅かばかりの温もりが、彼にも伝わればいい。沢山の人にルルーが救われたように、抱き締めたこの腕を温かいと感じてくれればと思う。
「怖がらないで。私は待つから。ずっと待つから。貴方がそう望むならもうどこにもいかない。アシュを置いて、いかないから」
縋り付く腕に力が籠る。骨が軋むほど強く抱き締められる。
鎖骨へ、自分の涙と紛うくらい熱い滴が落ちた。
「――――ごめん、ルルー……ごめんね……」
君を、騙して。
君を、縛って。
君を、利用して。
君を、愛し抜くことも出来なくて。
繰り返される懺悔にうん、と頷く。大丈夫と、何度も髪を撫でる。
「……良いよ。アシュになら、私は許すよ。騙しても縛っても利用しても、愛してはくれなくても」
その代わり、疑うことも思い付かないくらい甘く騙して。
アシュ以外何も見えなくなるくらい柔らかく縛って。
周囲の音が何も聞こえなくなるくらい優しく利用して。
愛してるなんて言わなくていいから、今だけ。――――息も止まるくらいきつく抱き締めて。
アシュがゆっくりと身体を起こした。刹那、視線が絡まる。
鼻先で彼我の距離を確かめ合い、唇が重なった。
互いに泣きながら。何度も何度も角度を変えて。
惜しむように。
奪うように。
約束通り、アシュはルルーをきつく抱きすくめる。
言葉なんてない。アシュは一度だって明確な愛の言葉はくれたことはなかった。
でも今なら、少しだけ分かる。この気持ちはたった一言に要約するなど余りに不実で、結局口を噤むしかないから。
――――最も原始的で、最も冴えたやり方。
これしか、胸を締め付ける想いの伝え方を、私たちは知らないから。




