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酒場の夜 (1)













 夕暮れが路地に濃い藍を落とし、各軒先に吊るされたランプに橙色の火が灯り始める刻限。

 アシュの言った通り“黒猫亭”は仕事帰りに一杯引っかけようぜという男たちでにわやに賑やかになっていた。

「よう、アシュじゃねえか! 」

「なんだぁ、アシュ坊のやつも来てたのか。近頃見かけなかったが、今度はどこ行ってきたんだ? 」

「お前の話しは面白ェからな。こっちに来てまたやってくれや」

  話上手で如才ないアシュは、酒場ではなかなかの人気者らしい。

 ルルーと共に隅のテーブルに陣取っていたのだが、赤ら顔の男たちがしきりと声を掛けていった。アシュもその度に片手を挙げて応える。


「大悪党なんて人にはそうそう言えないだろう? 普段は“薬師のアシュ”で暮らしてるんだ」

  買い付けと称して島々を旅歩くには、薬師という職が一番確実で手軽だったらしい。

 それにしても、何故アシュは島々を旅していたのだろう。

 ふとルルーの脳裏を疑問が掠めた。確か、塔からルルーを連れ出すときにも、行きたい場所があると言っていた。

 あちこち旅しているはずの彼が、行くことの出来ない場所。それと何か関係があるのだろうか。

 しかし少女が疑問を口にする前にその当人が思考を遮った。

「ほら、ルルー。詩人の歌が始まるよ」

 繋がりかけた思考は突如として頭をもたげた好奇心の前にあっさりと霧散した。

  そっとフードの端を持ち上げ、ルルーはアシュの指差す方向を伺い見た。


「えー、今宵は綺麗な女主人の酒といい実に結構な夜を過ごさせて頂いております。まずこの一曲目は美しき“黒猫”に捧げましょう」

  深みのある声が朗々と響く。

 詩人は初老の男だった。若い頃はさぞや鳴らした色男だったのだろう。不思議な色気のある悪戯っぽさで、苦笑するレミィに向かい片目を閉じた。

 白髪の混じる栗色の長い髪を背に垂らした吟遊詩人は、そっと、優雅な手つきでリュートを爪弾き始めた。



「月待ちの恋歌か。これまた随分と懐かしい」

  ひゅう、と片肘を突いたアシュが口笛を吹いた。

「つきまちの、れんか? 」

「ああ。パンゲアではとても古くから歌われてる。歌詞なんかほとんどが古語で、なかなか歌える者自体が少ないんだけどね」

 リュートの柔らかな音が、男の深みのある低い声に寄り添うように奏でられる。古語である歌詞の意味は分からないが、美しい調べだ。ときに高くときに低く、多彩にして繊細。

 長い時間に洗われて残ってきたという自負が、歌自身にも溢れているかのような優美さである。

 そしてそれを歌い上げる男、ルルーにさえこの詩人が練達の歌い部だと分かった。

「月待ちの恋歌は、結ばれることの出来なかった恋人を歌った歌なんだ」

 ぽつりと青年が言った。

「“月”は一般に手の届かない女性を指す。死の床についた老人が、遠い恋人の面影を歌う歌だって言うけど、失われた古語も多いから本当の意味はよく分からないんだよ」

 言葉って不確かだよね。アシュは誰にともなくそう締め括った。

 歌も佳境に入ったらしく、額を微かな汗で湿らせ、詩人は持てる哀切の限りに歌う。

 リュートの高音を掻き鳴らす音が壁に、柱に、絶え間なく反響する。

 高まり、身を切られるほど張り詰めた座の空気の中、詩人の琴爪をはめられた指が最後の一音弾いた。


  完全な、無音。

 しかし一拍置いて、店中からはやんやと海鳴りのような歓声と口笛が沸き上がった。

 水夫の一人が舟歌の一つを要望する。詩人は頷くと客たちの手拍子に合わせて、今度は魚が跳び跳ねるような軽快な調べを奏で始めた。

 賑やかな、楽しげな笑いが響き渡る。

 楽しくなったルルーも傍らの青年を見上げ、そして息をのんだ。

 アシュの横顔は、何故かここではないどこか遠くを見ていた。

 そこの見えない暗い沼の底を覗くような、指の先から冷えていくような感覚。

 ルルーは思わずその袖口を握った。

「…………アシュ」

 はっとしたように瞬き、そしてすぐいつもの微笑を浮かべた青年はルルーの頭を撫でた。

「あー、いやいや、ごめん。ちょっと考え事をしてただけだよ。もう少ししたら蟲鎮めの歌でも教えてもらいに行こうか」

  アシュはもうすっかりあの、何か新しい悪戯を思いついたような子どもっぽい顔に戻っていた。

 青年は少女の疑惑と困惑に覆いを被せるように、その頭を優しく撫でた。

蟲繰(むしぐ)りの歌は音階が複雑な分、たくさんあってね。でも大抵は船を動かす“舟引(ふなび)き”、空を飛ぶための“雲追(くもお)い”、人や荷を運ぶ“地駈(じが)け”、そして気の昂った蟲や人に慣れていない野生種を抑えるための“蟲鎮(むししず)め”との大きく四つに分けられるんだ。舟引きや地駈けは追々覚えていけばいいけど、今夜はひとまずは蟲鎮めだけでも教えてもらおうか。たとえ使わなくても、いざ何かあったとき俺も心強いからね」

 心強い。

 それはルルーがアシュの助けになれるということだ。

 先ほどまでの疑惑もいっぺんに吹き飛び、ルルーは興奮に頬を紅潮させながらこくこくとフードがはずれるほど頷いた。

「が……がが、がんばる………!! 」

「うん、頑張って。――――でもまずは温かいうちに夕食から片付けようか」

 青年はにこやかに微笑んだまま、小さな肩をいからせる少女の背後を指差した。

 振り返ると、白い前掛けをした売り子が両腕に料理の乗った皿を持ってやって来ていた。

「はいよ、お待ちどうさま! 」

 薄く汗ばんだ鼻の頭にそばかすを浮かべた娘は、パンの入った篭や料理の乗った皿、薄く色づく何かの液体で満ちた瓶を次々と木のテーブルに並べていく。

 ふわりと脂の焦げるいい匂いがテーブルに広がった。


「何事も腹拵えからだよ。しっかり食べとかないと、後で倒れてしまうからね」

  アシュはそう言って小さくパンを千切ると、たっぷり魚と野菜を煮詰めたスープに浸した。ルルーもそれに倣う。

 スープはコクがあり、けれど僅かに散らされたハーブが魚の臭みをすっきりと消していて食欲を刺激する。ルルーは夢中で木の匙にぱくついた。

 次にアシュは平皿にごろごろと積まれた石ころのようなものを皿に取り分けだした。

 しかし、こちらはスープのように見よう見まねとはいかない。

 石ころ、もとい黒々と大きな殻に包まれた貝は、不恰好な木の匙ではごろごろと皿の上を逃げ回るばかりで、肝心の()にいつまでたってもありつけない。

 あっちへごろごろ、こっちへごろごろ、こちらが真剣になればなるほどおちょくるように貝は逃げ回る。

 白い皿の上の終わりのない追いかけっこに、無意識のうち自然と眉間にシワが寄る。

 ふと視線を感じて顔を上げると、アシュがじっとこちらを見つめていた。

「ふぅん。案外何でもかんでも頼ってくる訳じゃないんだね。いやぁ、あんまり一生懸命なもんだからおかし………いやいやつい言い出せなくて」

 途中言いかけた言葉を誤魔化すように軽く咳払いをして、アシュは先の薄く尖った串のようなものを差し出した。

「ピックというんだ」

 アシュは軽く貝の蓋を押さえ、くるりと器用に柄を捻った。

 すると、あれほどしつこく殻にへばりついていた身が貝柱ごと、面白いほどつるりと剥け落ちたではないか。

  呆然と見つめる少女の目の前で悠々とそれを口に放り込みアシュはにっこりと、どこか得意気に微笑んだ。

「ルルーもやってごらん」



  後に聞いた話だが、このブブ貝はどんな料理にしても美味しいが取るのにちょっとしたコツが必要で、それを知らない者にとっては大層ストレスの溜まる珍味として名高いらしい。

 もしルルーがもう少し貝から注意をそらして顔を上げていれば、この小狡い青年の視線に気づいたかもしれない。

 しかし善くも悪くも、生粋の箱入り娘、もとい塔入り娘はまず人に対し疑うという思考回路を持ち合わせていない。

  半泣きになりながらピックで貝と格闘する少女と、それをにやにやと楽しげに見つめる青年というこの微笑ましくも一方的に理不尽な構図は、見かねた女主人が青年の頭に拳骨を落としに来るまでのしばらくの間続いた。


「……ひぐ、………えっぐ、」

  ひと悶着の末ようやくありつけた貝はプリプリとよく太っていて、これまたとても美味しかった。

 机に突っ伏して悶絶する青年の傍ら、鼻を啜りながらクリーミーな身を噛み締めると、絡められたオリーブや香辛料の中に、微かな磯の香りがした。
















弟は多分涙目で助けを求められるのを待って、自分から船を出すのをやめた模様。

もちろんそれが分かっている姉の制裁は容赦なし。



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