甘い薬は
この街には、真昼の静けさというものがある。
ギラギラと照りつける太陽に、微かな土埃を交えて揺らめく陽炎。音もなく燻るエネルギーそのものが生ける者の身をじっと蝕むのが、砂漠の昼だった。
重い樫の扉の前に立ったルルーは、ここに来てまた幾度目かになる逡巡を繰り返していた。
岩をくり貫いて作られた廊下はしんと冷ややかで、固まりかけた勇気をただ立っているだけで片端から挫いていってしまう。
彼女が立ち止っているのは他でもない、今までなら何の躊躇もなしに踏み込めたであろう――――アシュの部屋だ。
いつまでもそうしているわけにはいかず、ルルーは遠慮がちに扉を叩いた。
「アシュ、いる? そ、その、会わなくてもいいから、少しだけ話がしたいん、だ、……けど………」
尻すぼみになる声が我ながら情けない。
ルルーはもう一度扉を叩いて、あの夜以来顔すら合わせていない部屋の主に呼び掛けた。
「…………アシュ……? 」
祈るような心地で返答を待つも、中からは返事どころか衣ずれの音ひとつしない。
寝ているのかとも思ったが彼は普段から眠りが浅く、ルルーが小用に寝床を抜けた気配だけで目を覚ます位だ。留守なのだろうか。
「…………………」
たっぷり迷った末、ルルーは美しい蔦模様の装飾されたノブを捻った。
果たして、部屋の主は留守だった。
がらんとした空間に半分ほっとするも、一大決心を流されてしまったようでやはり半分は物寂しい。
ルルーは小さく溜め息を吐いて部屋を見渡した。
部屋はダヴィドに宛がわれた客室のひとつだ。絡み合う蔦や鳥獣の図案の織り込まれた臙脂色の絨毯に、壮麗さこそないものの品の良い家具。ルルーに宛がわれたやや少女めいた部屋とは少し趣が異なるものの、家主のセンスの良さが窺える。
アシュはその言動と裏腹に案外几帳面な性格をしているらしく荷物はベッドのの脇に小さくまとめられていた。
(なんか、殺風景………)
今までなら何の気なしに眺めたであろうその景色に、ふとそんな不穏な感慨が浮かんで、ルルーは眉をひそめた。
小まめに掃除もしているのか、部屋は埃もそう溜まらず綺麗なものだ。だが、ベッドもシーツまで丁寧に延ばされていると、どうにも人の暮らしている生活感が薄れて見える。
この客室には初めから誰も泊めてなどおらず、アシュという人間もまた初めから存在しなかったのではないかとさえ思えてくるのだ。
………あるいは彼自身、その生き方ゆえいつ身一つで消えてもいいように片付けてしまう癖がついているのかもしれない。アシュには前々からそういう、妙な行儀の良さのようなものがあった。
どうしようもない切なさが胸を押し寄せ、その整えられたシーツにわざとシワを作るようにルルーは手足を広げてばふんっ、と行儀悪くベッドに飛び込んだ。
そのとき、荷物が靴紐に引っ掛かったのだろう。何かの落ちる音と共に、荷袋の一角が崩れた。
ルルーは慌てて飛び起きた。少し話に来ただけで、流石に悪戯をしていくつもりはない。
外に付いた小さなポケットからこぼれ落ちたらしい小銭を拾い上げようと、すぐ足元をコロロロ、とガラスの小瓶がひとつ内向きの弧を描くように床を転がり出た。
「――――あれ? これって……」
妙に見覚えのある小瓶にルルーはふと手を止めた。
きらきらと部屋の僅かな明かりを呑んだ、宝石のような赤。小洒落たカットのガラスの壁の向こうではその水面がゆらゆらと妖しく誘うように揺れている。
「もしかして、“仲良しの薬”………?」
“仲良しの薬”はコダエの里を出る際、双子姉妹のヤハルとヤガナがくれたお土産だ。そういえば肝心の説明を受けていたとき何故かアシュに取り上げられて、以来そのままになっていたのだった。
まだあれから二月しか経っていないだろうにもう何年も昔のことのような、少し切なくもくすぐったい懐かしさが込み上げてくる。
つまみ上げて蓋を開けると、濃い花の香りがふわりと立ち上がった。
(もし………)
この薬を飲めば。
ドロップを撒いたような木漏れ日の道、霧に濡れた草を踏む匂い、こんこんと湧き出る湯を湛えた真っ白な湯釜の並ぶ奇妙な景色。
毎日が目まぐるしいほどの眩しさで、そんなことを考えてしまう日が来るなど、あの頃は思いもしなかった。
ダヴィドの話では、アシュは数日中にこの家も出ていくだろうとのことだった。彼がここを去ればルルーの独力では、国中を欺きあのアークにさえ尻尾を掴ませなかった彼と会うことはもはや不可能に近い。
ルルーがダヴィドの養女となるための条件として交わされたのは、彼からは二度とルルーに「会わない」という約束だ。ルルーの意見も聞かず勝手に取り決められたその約束を聞いたときは、何というかもう、言葉すら出なかった。
部屋に押し掛けた今だって、何から話せば良いのかまったく決めていない。
ただ、しがみついてでも話さなければと思った。
「多分」ではなく、これを逃せば本当に最後だから。顔を合わせずともせめて、最後にもう一度くらい何かを話をしておきたかった。
「……………」
とぷん、とベッドに腰掛けた少女の手の中で妖しく深紅の水面が揺れる。
アシュは拒絶するかもしれない。これでようやく顔を合わせなくて済むはずの、大嫌いな娘が押し掛けてきたと知れば。だがルルーはどうしても伝えておきたかった。
ありがとう、と。
どんな思惑であれ、たくさんのものをくれた貴方に感謝をしている、と。
美しい思い出でなくていい。これが別れでも、いや別れならばこそ、ルルー自身の未来を歩いていくためになおさら直接告げておきたい。
そうでもしなければまた、答えのない無限のループ閉じ込められてしまうような気がしたのだ。
(アシュなら多分、こういうおまじないみたいなもの使わないんだろうなぁ……)
徹底的な合理主義者のアシュは俗信として存在を知ってはいても、それに頼るようなことはしないだろう。ぼんやりと、花の香りを撒き散らす小瓶を揺する。
それはほんの、ほんの少し勇気を借りるつもりの幼い行動だった。
ムシヤライの香の一件以来、望まぬ選択肢ばかり突き付けられてきた少女は、このとき決定的な勘違いをしていた。
俗信と薬とは派生した原点は同じでもそのもたらす結果はまったくの別物であるということを。さらに悪いことには、性に疎い自分がどれ程危険なことをしようとしているのか――――まったくもって及びもつかなったのである。
――――唇に触れたガラスはヒヤリと硬質な冷たさを伝えてくる。
ルルーは惑いを振り切るように一気に瓶を煽った。
むっと息苦しい程の花の香り。微かな粘性と共に、ヒリヒリと熱く濃厚な液体が喉を焼きながら滑り落ちてゆく。
甘い。飲み下してなお、薬の味を塗り潰すような、べたべたとえぐみの強い甘さだ。
だが一拍おいて、
「うぁ……っぁ………! 」
襲い掛かる吐き気と多幸感に少女は膝を折っていた。
体が火のように燃え上がり、視界が一瞬で真っ白に混濁した。暴力的な鼓動が、内側からガンガンと煩いほどこめかみを蹴りあげる。
ざり、と冷たい感触が頬を削った。それが床だと気づくまで、少し時間が必要だった。。いつの間にか視界が直角に反転していたのだ。
手足が震える。冷や汗が止まらない。
猛烈な吐き気に上下の感覚まで狂ったらしい。そびえ立つ城門のような床に爪を立てながらもたれ、ルルーはずるずると滑り落ちた。
まずい。
本能の原始の部分が警鐘を鳴らす。
今もたれかかるこの石の扉の向こう側は、恐らく死が控えている。
オルテが身を投げた井戸の底のような。
真っ暗で何もない、あの小さな石の部屋のような。
吐き出さなければと思うのだが、朦朧とした頭は暗く柔らかい闇に堕ちてゆこうとするばかりで、体もいうことを聞かない。
寒い。多分、感覚も曖昧なこの体も、小刻みに震えているのだろう。寒くて堪らなかった。
すぐ鼻先を、濃い花の香りを撒き散らしながら小瓶が転がっていくのが見えた。
きらきらと憎らしいほどの煌めきを宿した小瓶は、愚かな小娘を嘲笑うように、やがてゆっくりと止まる。
ルルーの意識はそこで途切れた。
◇◇◇◇
茶封筒を開き、いくつかの書類にざっと目を通すとダヴィドは鷹揚に頷いた。
「流石、スエンニに巣食う逆賊の首魁ともなれば、子飼いの“闇”も一流か。これまでの偽造手形が関でバレないわけだ」
アムーラ・アジャンタでも東よりの大岩を削り出して作られた、領主一族の屋敷。蟻の巣のように幾多の部屋の居並ぶうちのその一室に、二人の青年はいた。
「良い仕事をするだろ? 当家のメイドは皆優秀でね。その気になれば旦那への離婚届から国王陛下直々の勅書まで、完璧に模造してみせるそうだ。まぁ、多少ネジのぶっ飛んだ技術屋ってのは否めないけど」
「……それにしたってコレは一日二日でどうにかなる代物じゃないぞ」
身元の証明となる書類は、蟲操りの歌というある意味軍事の要となる機密を扱う貴族となれば厳しくなるのは自明の理だ。この男なら上手くやるだろうとは思っていたが、文書といい印といい、完璧だ。 というか完璧過ぎて逆に騙されているような気にさえなってくる。
世間は広いというがこんな「ぶっ飛んだ奴ら」がまだ無名のままゴロゴロ闇に潜んでいるのかと思うと、いささかげんなりする。そんな輩を集めてお仕着せを着せて主人に収まってしまうアシュもアシュだ。
にも拘らず当の本人はといえば、
「凝り性なんだよ」
と涼しい顔だ。
「……まあ良い」
気にしたら負けだとダヴィドは力なく首を振り、頭を切り換えた。
「これだけ大したものがあれば、叔父に掛け合わずともそのまま戸籍申請が出来るだろう」
「そう。じゃあ後の事は任せるよ」
「良いのか? 」
ひらりと手を振ってアシュは笑った。
「君ならこの手の事は間違いないからね。俺は件の遺跡の調査も兼ねて隣の谷に移る。一通り見て回ったらそのままスエンニに腰を据えるつもりだから、時間や手間のかかる面倒な事務仕事は君に丸投げる」
「戻るのか」
「ああ」
「そうか。お前が本格的に表舞台に出るとなると、いよいよだな」
音楽も文化も人のあり方も、皆およそ百五十年のサイクルで生まれ変わるのだと、以前外海の者から聞いたことがある。
百五十年の間にまるで新しい見解を一人の天才が生み、百人が各々の解釈をし、それがやがて万の人に渡り時代を変える。だがこの国は神話という温い微睡みに浸かったまま、千二百年もの長きに渡り進歩を止めた。
今、この国はようやく変遷のエネルギーを放出しようとしている。
アシュ――――いや、グリフ=ギスタフはアークより堕とされた十四年間、各地を巡りながらそのエネルギーを直に感じ、そして粘り強く、その力を結び付けてきた。国としての形を持たない、資本により結び付く同盟という、新しい勢力。
数えきれないほど多くの者が走り出す時代の軋轢に押し潰され、亡くなるだろう。だがもう、止まらない。
不世出の一人の男の登場に、まるで初めからそうと定められていたかのごとく。
「……それはそうと、ダヴィド、ひとつ聞いて良いかい? 」
「なんだ」
いつの間にかアシュは執務机に腰を掛けぶらぶらと足を揺らしていた。血のざわめきに耳を澄ましていたダヴィドは、青年の問いかけにゆっくりとまぶたを開き、
「お前、何で男の格好に戻ってんの? 」
わりと今更な疑問を何故か子どものように不満げに口を尖らせて訴える「天才」にダヴィドは額を押さえた。
「……今更じゃないか? 」
「まあ、今日は朝からそれだし今更なんだけどさ」
アシュはふいと視線を逸らし、誤魔化すように髪を掻き上げる。この男にしては妙に歯切れが悪い。
すっかりシリアスな雰囲気を塗り替えられ何なんだと眉をひそめたところで、この男が気にしそうなことをひとつだけ思い出した。
「……いいか、以前から言っておいたとおり、私は女装こそ嗜めど身も心も徹頭徹尾の男だ」
特に女になりたいわけでも男が好きというわけではない。そこはこの男もよく知っている筈だ。
「じゃあ何でいきなり止めたんだよ。この先も是非その無駄に麗しい女装をしといてくれ」
「そんなに私の女装を気に入っていたのか」
「んなわけあるか」
「なら、余程この格好が気に食わんか」
「…………」
「無言は肯定とみなすぞ」
本人は意識的に表情を作っているようだが、いい加減被った猫も禿げかけだ。あの子の事となると、途端にこの男は脆くなる。
「まあいい。お前の意見なぞ知らん」
ダヴィドはにこりと聖女の渾名に相応しくその女性的な美貌を笑みに崩した。
「今日の私は帰ったら可愛い妹がちょっと驚いて、次いで少し照れた顔で迎えてくれる、それだけが楽しみなんだから。邪魔をするな」
「うわぁ…………変態だ。変態がここにいる………! 」
「煩い。他の男に預けるのに、この程度の事態も想定しておらなんだか。ルルーにお姉さまと呼ばれるのも悪くないが、こればかしは兄の特権だろう。……まさかまさか、今更惜しくなったとは言わせんぞ? 」
一応懸念に釘を刺すと青年は忌々しげに押し黙った。どうやらこの男は、案外口より目でものを言う類いの人間だったらしい。似非とはいえ女に預けるならまだしも、男だとは聞いてない、というところか。
ダヴィドはふん、と鼻を鳴らした。
「安心しろ。お前も含め、虫除けはきっちりしておいてやるさ。おっと、そう睨むな。虫除けには女より男の格好の方が押しが利くんだ。――――第一お前にはもう、あの子に関してとやかく言う筋合いはないだろう」
ダヴィドは見せつけるようにゆっくりと手にした書類を揺らした。
「こんなものを用意していたということはお前、アムーラ・アジャンタを訪れる前から彼女を放り出すつもりだったんだろう? 」
このレベルの偽造文書ともなれば船はもちろん、たとえ“雲追い”を用いても、ここまで早く用意できるわけがない。となれば導き出される答えはただ一つ。初めからこの街で別れることを決めて、ちまちまと準備をしていやがったのだ。
だがじろりと睨み付けるダヴィドにアシュはあらかじめ返答を用意していたのか、すげなく答えた。
「余計な詮索は嫌われるよ、お兄様? 男女の仲に口出しは野暮だ」
「ほお………男女の仲、ねぇ? 」
「男だか女だか分からん君に言っても無駄かもしれないけどね」
それはそれは、と笑みを深めるダヴィド。
もしこの場に第三者がいれば、一気に下がった室温と険悪な雰囲気に身を震わせたことだろう。
「まぁ、良い」
しばしの睨み合いの末、矛先を納めたダヴィドは執務机の引き出しに封筒を丁重にしまった。
「お前のような油虫男を、家に上げるのはどうせこれが最後だ。ルルーの足止めはしておいてやるから、半時(約一時間)以内に荷物をまとめてとっとと出ていけ」
◇◇◇◇
そびえ立つ岩壁に無数の蛇が這うような回廊が張り付く様は、この街独自の景観だ。
軋みもない堅牢な床を踏みながら、アシュは日除けのひさしの向こうに傾き始めた太陽に目を細めた。
兄君は余程心配性なのか、それともアシュに余程信用が置けないないのか、部屋以外彷徨かず速やかに出ていくことを約束させられた。
(そこまで警戒してくれずとも、もうどうしようもないのになぁ)
ルルーは幸せになる。
当たり前だ。
そうでなければならない。
自分がこれまでどれ程汚い仕事をしてきたか、それぐらい自覚している。
ダヴィドは妹を喪っているからよく知っているだろう。再び内乱が起これば、どれほどの死者とそれ以上の難民が発生するのかを。国を失った民は戦場も銃後も凄惨で哀れだ。飢餓と疾患に喘ぎ、寒さに震えながら磨り減るようにして死んでいく。
そもそも王家や貴族は血縁や婚姻などとで結び付いた他国との横のパイプでもある。どんなに腐っていようとアークはパンゲアの屋台骨だ。力のまま根こそぎ取り払えばこの国などあっという間に分断され、各国の属国となるだろう。
何を殺し、誰を生かすべきか。
復讐に憑かれたアシュではあるが、命の有用性くらい弁えている。
一部の権謀術数主義者がルールを作り、その広大な影に気づかぬ凡人が泣き笑うのが、この世界の仕組み。彼らの一手で、内乱後のこの国は天国にも地獄にもなる。
身分も慣習も言語も宗教も、そんなものだ。
母を奪われた日より、アシュはその「ルール」についてずっと考えてきた。そして今度こそルールを定める側になるべく、力を蓄えてきた。
そのためになら、何でもした。
腐敗した溝の臭い。血と脂の臭い。染み付いて、もう取れない。取ろうとも思わない。
自分のような下劣な手段は必要だ。決して正義と正当化は出来ないけれど、必要悪という言葉ひとつを免罪符にして。
だが、きっとそれだけに支配されたの世界もまた、アシュ自身、耐えきれなかったのだ。
闇の中で奇跡のように見つけた、どうしようもなく眩しいもの。
光に目がくらみ、しかしすぐ息苦しくてたまらなくなって。手元には置いておけない。だが結局壊すこともできなくて。
だからこんな気紛れに、まるでただの恋するつまらない男のような酔狂まで重ねてしまった。
――――ひとつくらい、正しいものがあるべき場所へ。
あの「兄」は気に食わないがルルーが幸せで、ずっと笑っていられるなら。
たとえアークとの戦いに敗れ、この身が闇に帰る日が来ても、それだけを希望にゆける。
部屋の前まできたところでふと違和感を感じ、アシュは歩を止めた。
「…………? 」
扉が、少しだけ開いている。
昨夜はダヴィドの部屋で酒浸りのまま寝落ちしてしまったから、この部屋を出たのはルルーに誘われて星を見たとき以来だ。
(んー、出掛けたときは確か閉めてた筈なんだけど)
狐が不穏を嗅ぎ取るようにアシュは警戒に目を細めた。
ベルトに仕込んである針のような短剣を指に掛け、気配を探りつつ慎重にドアを開ける。暗い室内にヒュッ、と微かな吸息のような音がした。
――――息が詰まるほどの、濃い花の香り。
その影は床に崩れ、小さな背を丸めぐったりとうずくまっていた。
あまりにも見慣れて、目を閉じても焼き付いて消えない美しい白銀の髪。罠とか警戒とか、そんなものが一気に吹き飛び、頭の中が真っ白になった。
「――――ルルー!!? 」
体の血が、急速に冷えてゆく。きっと今、自分は真っ青になってるだろう。
這いつくばるようにして駆け寄ると、アシュは少女の肢体を慌てて抱き起こした。
首が据わらない。
虚ろな目からは光が消え、何もない天井ばかりを映している。華奢な体はぐったりと弛緩し、ヒューヒューと辛うじて続く呼吸音ばかりが耳をついた。
一体何があったのか。
そのとき、アシュの目にふと床に転がり落ちた空の小瓶が入った。
(ッ………まさか! )
青紫色に変わり果てた唇を指で抉じ開け、鼻を近づける。嫌な予感は的中だった。
思考を狂わす、甘い花の香り。
「おいアシュ、一体何の騒ぎ………」
「水!! 」
部屋にルルーがいないことに気づいたのだろう。途中でかち合ったのかテナとカイルまで引き連れ戸口に現れたダヴィドに、アシュは振り向きもせず叫んだ。
「このバカ、妙なもの飲みやがった! これから毒消しを飲ませる。胃の中のもん全部吐かせるから今すぐ水と桶を持ってこい! 」
半拍のち、目を剥いたダヴィドが踵を返して駆け出す。
アシュはテーブルの上の水差しをひっ掴んだ。
「おい、そこの薬箱持ってきてくれ」
「へ………? 」
「早く!! 」
事態が飲み込めず呆然と突っ立ったままの二人に、苛立ちのままに吼える。こういうとき女はタフだ。カイルより僅かに早く、テナは弾かれたように駆け寄り、薬箱を掴んだ。
(媚薬っつても一瓶丸々飲んだってんじゃ、毒と同じだぞ………! )
特にこれは即効性の高い分、昏睡を起こしてしまうほど吸収も早い。
小刻みに震える小さな体が恐ろしくて堪らない。そのまま熱を失った瞬間、自分は気が狂うだろうと本気で思った。
必要な薬を二人に指示しつつアシュは少女の体を支え、水を含む。そして血の気を失い青褪めた唇に、覆い被さるようにして自分のそれを重ねた。
「………んんっ……」
甘い口内に尖らせた舌を捩じ込み、そのまま水を流し込む。昏睡状態で嚥下する力もないため、ゆっくりとだ。
「おっ、お前何やって………!? 」
顔を赤くするカイルを無視して、零れた口許を拭う間もなくまた水差しを煽り唇を重ねる。
悪いが今は、その手の意見になど構っていられない。舌を差し入れたままギロリと一睨みすると、流石に状況を理解したのか青年は真っ赤な顔のまま口を噤んだ。
そうこうしているうちにダヴィドも戻ってきたので、二人がかりで受け取った薬を水と共に流し込む。
震えに体の自由が利かないのか、飲み込みが鈍い。それでも無理矢理指を突っ込み、吐けるだけ吐かせた。
「――――……それで、ルルーは結局何を飲んだんだ? 」
ようやくルルーの呼吸が安定したところで、落ちていた小瓶を弄びながらダヴィドが切り出した。
「………メリの花の蜜と、ワレマムシの根を各種ハーブと共に煎じたもの」
幾千の香のを利いて育ったアムーラ・アジャンタの者なら、これだけでもう十分分かるだろう。
「………コダエの媚薬か」
案の定、ダヴィドは眉間にシワを寄せた。
「何だってまたそんなものを」
「それはこっちが訊きたいよ」
互いに苦虫を噛み潰したような顔を合わせ、そして二人揃って盛大に溜め息を吐いた。
「……アシュ、取り敢えずお前はもう部屋を出ろ。看病は私がする」
「はぁ? 冗談は顔だけにしてくれ。この中で薬毒かじってんのは俺だけだ。毒が抜けるまで付き合う」
「要らん。医者は呼ぶからとっとと出ろ。これ以上お前のような男の前に晒されたらルルーが減る」
「乱れたこの子を飢えた野郎の前に置いていけるワケないだろ」
「野郎は野郎でも妹を気遣う心優しい野郎だ。……いや待て、分かった。女装して看病しよう。これで良いだろう? 」
「お前を置いとく方が不安だわ」
多分、気を逸らすためにこんな不毛な口論をしているのだろう。
一先ず峠は越えた。胃に残った分は一通り吐かせたし、現在進行形で即席の中和剤を飲ませている。
が、いかせん薬はまだ完全に抜けきってはいない。
頭上を展開する口論が耳に障ったのか抱かれたアシュの腕の中でむずがるように寝返りを打――――
「ひぁあんッ! 」
――――とうとしたところでどうやら性感帯を掠めたらしい。白い肌を紅潮させ、ルルーは潤んだ瞳のままびくびくと身を波打たせた。
「……………………」
「……………………」
ごくりと生唾を飲んだのは誰だったか。
桜色のまろい肌に、涙に濡れた長い睫毛がふるふると震える影を落とす。もどかしい快楽をもて余すように吐き出される呼吸は熱い。
少女の殻を纏ったままの恍惚としたその表情は余りに年不相応。けれど幼く危うい色香は、それなりに女性経験も重ねた男にはかえって開拓し甲斐ある原石に見えてくるのだ。
「……ふっ………ん、……」
「アシュ」
「分かってるよ」
もじもじと擦り合わせる膝に視線が走りそうになったところでダヴィドの忠言が入る。
「……はぁ、………ぅ、あ……」
「ダヴィド」
「分かっている」
こめかみを流れていた髪が一房、ハラリと鎖骨に落ちたところでアシュが制止をかける。
……要するにちょっと、いやかなり扇情的なのだ。
だが、そんな微妙な空気に包まれた時間は案外突然終わりを告げた。
「――――ようやく見つけましたよ。銀の髪の愛し子、私たちのフクロウの姫」
突然、鈴を転がしたような美しい少女の声が部屋に響いた。
「っ!? 」
岩壁をくり貫いて作られたこの部屋は外界と繋がるのは扉と、風抜きの小さな窓しかない。女優が観客の意識をを舞台の一点に集めるように、驚愕の視線が窓辺へと集中した。
ヴゥゥゥンと羽音のような唸りが短く響く。午後の太陽に純白の鱗を煌めかせ、虹色の突起がふわりと広がった。
蟲、だ。
風に揺れる薄いカーテンの向こうに、『それ』はいた。
「ダヴィド、捕獲だ」
「任せろ」
「あ」
余談ながら、アムーラ・アジャンタの少年たちはしばしば水路でカブトガニという甲殻類を捕らえて遊び育つ。生粋のアムーラ・アジャンタ育ちのダヴィドの行動は素早く、躊躇いは一切なかった。
びっ、と背中から捕獲された『それ』はわたわたと突起や短い足をもがかせるが、構造上抵抗にはならない。
「喋る蟲なんて、こんなの見たことも聞いたこともないぞ。アシュ、お前なんか知ってるか? 」
「いや。それよりコイツ、ルルーを見てフクロウの姫とか言った。何かしら関係しているのかもしれない。吐かせろ」
「蟲の口を割る方法なんて知らんぞ? 」
「そのびらびらみたいの何本か引き抜いてみればいい」
「え」
「なるほど。しかし痛覚があれば良いんだが」
「ええええ」
冷ややかに見下ろす二人の青年を、恐怖のためか純白の蟲はぷるぷると突起を震わせながら交互に見上げる。人間なら完全に顔を引き攣らせていただろう。
「お、おいおい。少し落ち着けって」
色々と気が立っていたところに降って湧いた闖入者。憂さ晴らしも多分に兼ねて毟る気満々の二人に、蟲とはいえ流石に哀れになったカイルがストップをかけようと手を挙げた、そのとき。
「ああああミーナ、僕もう疲れましたよう。というか垂直壁登りじゃなくても良いじゃないですかぁ、普通に玄関からご挨拶すれば…………って、ミーナァァァアアア!!? 」
「……人間の方が尋問も拷問も勝手が分かる分、有効だよな」
「だな。任せろ」
目を覆ったカイルの目の前で、遅れて現れた少年が妙な蟲共々床に叩きつけられたのは、それから数拍後のことであった。
カオス。
ひとまず伏線その一は回収、かな……?
お兄様の女装の理由はまたいずれ。




