悪魔のキス
曰く、悪魔は真っ直ぐにしか進めない。
ゆえに古代から迷路や迷宮は人の叡智の証であり、魔を退けると考えられてきた。
最期のとき、母は自らを“悪魔”称した。
傷付いても傷付けることになっても、間違っていても、思うままにしか生きられない。
破滅を知っても進まずにはいられない。
救い難い凶暴なまでのロマンチストを、母は悪魔と称した。
◇◇◇◇
「ねぇ、テナ」
「うん? 」
「テナはカイルと接吻したことある? 」
「ぐ……ッ!? げほっゴホッ! 」
アムーラ・アジャンダの昼下がりは静かだ。
砂漠の都市では太陽の猛威を避けるため、日中はのんびり過ごし体力を温存する。今だとて窓から覗く空はギラギラと陽炎を纏い、雲の気配ひとつない。
アシュ曰く、太陽は奪うもの、月は癒すものということで、砂漠の民は殊更夜を愛すのだという。月の女神リースが淑やかな恋人である反面姉妹神、太陽の女神ラーナが烈女として描かれる所以らしい。
要するに、カンカン照りの真っ昼間には恐い女神様に目を付けられないように、みんな揃って涼しい屋内でだらだらと過ごすのだ。
宿を定めた初めのうちこそ睡眠スタイルが崩れたが、一週間もすれば大分慣れた。
ソファに腰掛けダヴィドに借りた本をのんびりと繰っていたテナは突然の質問に紅茶を詰まらせた。
「げほっ! な、な、………ルルーちゃんいきなりどうしたの!? 」
盛大にむせる背をさするルルーをテナは必死に息を整えながら手で制した。
「いやぁ、………テナはしたこと、あるかなぁって……? 」
うろうろと視線を戸惑わせるその頬は、流石に話題が唐突過ぎだことを解してか、心なしかほんのり朱に染まっている。
「……もしかしてバカイルのやつ、また何か変なコト吹き込んだ? それならちゃんと早めに言ってね? 即絞めるから」
「あ、いやそうじゃなくて」
ばきぼきと関節を鳴らすテナに不穏な空気を感じ取ったのか少女は慌てて手を振った。
「そんな大したことじゃないんだけど、ちょっとテナに相談したいことがあって」
「相談? 私に? 」
ルルーは少し世間知らずな所もあるが歳のわりにはしっかりしている。大概のことは自分の頭で考えるし、それにちょくちょくアシュもフォローを入れるためテナに相談など、多分初めてかもしれない。
ここ数日、テナもルルーも昼間は寝ているか、暇をもて余してダヴィドの調香の仕事を手伝ったりしていた。しかし今日はダヴィドもアシュも揃って朝から外出している。
カイルは昼寝している以上、確かに手近な大人はテナしかいないが………
事ここまで考えが至ると、テナははたと動作を止めた。
「もしかして…………恋愛相談? 」
華奢な少女の肩はびくんと跳ねた。
「………成る程、ひとまず話は理解したわ。隙を見て、っていうにはちょっと相手が悪いものね」
少女は小さな身体をさらに小さく縮め、こっくりと頷く。
ダヴィドの「おまじない」の話を粗方打ち明けたルルーの悩みは、恥じらいとか不安とかいった乙女の悩みと比べると些か即物的かつわりと物理的なとこで深刻な問題だった。
問題はするかしないか、ではない。
単純に身長差で、届かないのだ。
ルルーの体は同年代の少女たちより一回りは小さい。それに対しアシュは一見細身であるものの、なんだかんだ上背があり並んで立つと結構な身長差になる。普段はアシュの方が小まめに身を屈めて話すのであまり気につかなかったのだろう。
「でも、このところなんだか距離を置かれてる気がして………」
「距離? そうかしら。私には相変わらずルルーには甘いように見えるけど」
「うーん………距離というか、何て言えばいいのかな。少しずつ、ずれていってしまってるような気がして」
上手く説明できないけど、と肩を落とす少女にテナは取り敢えず入れ直した紅茶を置いた。
――――子供でいて欲しいんでしょうね。
母、ミリーがじゃれ合う二人を見つめながら言っていた言葉を、ふと思い出した。
アシュとルルー。
二人の関係をテナはよく知らない。
ただ、それは男女というより兄妹のような。互いに妙に近くて、けれどテナとカイルのそれとは明らかに違う。
中途半端で宙ぶらりんの距離。自分の庇護下にずっと入れておきたいという願望。
けれど子ども扱いも過ぎれば己れの願望の押し付けでしかない。
(……よーするに、二人ともきっと難しく考えすぎなのよね)
女の子は成長が早い。
ルルーも、驚くべきスピードで大人になろうとしている。
だからこそ、アシュもまた目を逸らそうとしているのだろう。
「……まぁ、ひとまずは物理的な距離をなんとかしなきゃいけないわけね。やっぱりここはアシュさんにソファに座ってもらうとか、ルルーちゃんが台に乗るとかじゃない? 」
「あと相手を引きずり下ろすとか」
「……いや、それは女の子の解答としてアウトじゃないかな」というかルルーも妙なところでアシュと似ている。
「アシュは隙を狙うだけじゃ駄目だと思うの。何かこう、小賢しい一計を案じないと」
「いやいや、小賢しい一計って。―――――……いや、待てよ」
ぐっと拳を握り締める少女に、刹那、ある光景が脳裏を過った。
「ルルーちゃん、ちょっと耳貸して。小賢しい案じゃないけど、ロマンチックな案ならひとつ」
◇◇◇◇
「北の谷からそのまた北へ〜、青く輝く井戸の底ォ、っと」
歌いながら猛然とメモを書き殴る友人に青年がため息を吐いた。
「………まったく、お前の集中力には呆れる。よく飽きないものだな」
「ふふん。まあそう言うなって、ダヴィド。男言葉に戻ってる」
「おっと、……これでいいかしら? 」
にっこりと極上の笑みを浮かべ頬に指をあてるダヴィドに、アシュはメモから顔も上げないままぐっと親指を立てた。
「うん、相変わらず気持ち悪い」
「おい」
壁一杯に差し込まれた革表紙に巻物。鰻の寝床のように立ち並ぶ本棚のさらに奥には製紙以前の記録、木簡や粘土版での記録すら残っているというから大したものだ。
何でも、今は遠きアムーラ・アジャンダの初代領主は大層変わり者の知識人だったらしく、公式記録はもちろん、文字と名の付くものは片っ端から保存することを家訓に定めたということらしい。たまに、初めて孫の描いた絵、なんて代物まで仰々しく出てきちゃったりする。
二人が朝から潜り込んでいるのはアムーラ・アジャンダ領主が代々その資料の膨大さと取り留めのなさに畏怖を込めて「魔窟」と呼び、管理という名の死蔵に任せる特別書庫であった。
「それで? 語り部のじい様方のところに顔を出したり、いつの間にか叔父上に鍵借りてきたかと思ったら朝からこんな魔窟に繰り出して。伝説のお宝でも掘り出すつもりなのかしら? 」
「はは、当たらずとも遠からずってとこかな。………っと、もう夕刻か。今日はこのぐらいかな」
はめ殺しの窓からはすでに茜色の残照は消え、書庫は毛穴のひとつひとつがぴったりと閉じていくような、重みある静けさを増していた。
暗くなれば作業はできない。書庫の中で火気は現金だ。
アシュは瀕死のミミズが最後の挽回を目してのたうち回ったようにしか見えないメモをかき集めると、古地図を丁重に巻き直した。
「宝探しってこう、ぐっとくるものがあるよね。男のロマンとか」
「はいはい。ロマン、ね」
首を竦めて流したその背に、アシュは意地悪い問いであることを承知で言葉を継いだ。
「なぁ、ダヴィド。もしも、花の匂いのする都が実在したとしたら…………どうする? 」
「は? 」
「内乱で亡くした義妹を――――エダを、呼び戻したい? 」
一瞬、ざっくり切られたように、ダヴィドの顔が歪んだ。
「そ、うね………戻るならだけど」
「可能性はあるよっていったら? 」
「馬鹿。見つけたらって、そんなものあるわけ………」
「あるさ」
感情の読めない、けれど激しさを内容して青年は微笑んでいた。
「あるんだよ、ダヴィド」
「……アシュ、いくら貴方でも言って良いことと悪いことがあるわよ」
「俺が追っかけてるのはそういうものらしいよ」
ぞくりと肌が粟立つような、青く底光りする強い瞳。
「花の匂いのする都は実在する」
「…………」
ダヴィドは現実主義者だ。
領主の仕事に関わる者としてそうあるよう育てられてきた。
だがその一瞬、目の前の青年の気配にすべて呑まれた。
たっぷり五秒の沈黙ののち、ダヴィドはふっと息を抜いた。
「……貴方じゃなければ正気とは思えないって、きっと医者に突き出してるわ」
「うーん、信用があるんだかないんだか」
「確信はあるのね? 」
アシュは頷いた。
「オアシスが地下水脈の移動で移っていくことはお前も知ってるな? 千年前、アムーラ・アジャンダは隣の谷筋が主流だったらしい」
「ええ、そうよ。今は人の住めない廃墟だけど、観光地になってる所もあるわ」
「谷の北には何がある? 」
「何って、一番の観光スポットよ。神殿と大風車……………って、ああ?! 」
「気づいたね」
にやりとアシュは唇を吊り上げた。
「この街での風車は水を汲み出すためのもの。オルテの『井戸』というのは、この場合符号だろうね。砂漠じゃ灌漑用に作る地下水路も複雑に張り巡らされている。流石にいきなり迷路探索するには拙いから、長老方に畑や井戸の位置聞いて大体のマッピング予測を立ててたってワケ。コダエでも“フィロの外史”は地下水路にあったし、可能性は大きいだろ? 」
「呆れた…………お前、本当に、真性の馬鹿だったんだな」
ダヴィドは花のかんばせに盛大なシワを寄せ、完全なる男口調でがりがりと髪を掻き毟った。
「―――お前、この一週間殆ど寝てないだろう。薬で無理矢理身体持たせてたのくらい、俺が気づかないとでも思ったのか」
アシュは心外だと言わんばかりに肩を竦める。
「せめてロマンチストと言ってくれよ。自分を守ることすら思い付かないくらい一途で情熱的なのさ」
「お前の相手はあるかないかも分からん伝説の代物だぞ。そんなものに、お前はまるで命懸けだ」
伝説の代物どころか、そもそも雲を掴むような話なのだ。
この男でなければ一言、可哀想にも気が狂ったのだと言って、それで終いだった。むしろうすら寒さに距離を置く。
けれど、理屈ではどうにもならない衝動があり、例え嘘でも、この男は抗えない。そしてタチの悪いことに、この一つ間違えば危険な途端に崩れかねない前傾思考は完璧なバランスを持つ理性に支えられている。
――――まさしく狂気の天稟。
「正直、ロマンチストもここまで来ると、普通なら薄気味悪くて付き合いきれんぞ」
ダヴィドの言葉の裏にアシュはニヤリと悪辣に笑った。
「そりゃいい。この俺の友人に普通の神経なんか初めから期待してないからね」
「俺も大概イカれてるってワケだ」
「類は友を呼ぶ、さ」
くっくっ、とアシュは愉快そうに笑った。
◇◇◇◇
「ねぇ、ひとつだけ訊いといていい? 」
「うん? 」
ひとしきり笑い終えたところで、ダヴィドはふと思い出したように問うた。
「もし、見つけられたら貴方もお母君を、生き返らせるの? 」
「あー………」
面倒臭そうにアシュは顔を歪めた。
「いや、多分俺はあの女が甦ることは、望んでないよ。――――たとえあの女が還ってきても、もう俺が守りたかった場所には何一つ、嵌まらないだろうし」
君やオルテと違って、とは言わなかった。
母も姉も、父もいるギスタフの家は嫌いではなかった。
貴族の馬鹿馬鹿しいしきたりも、この狭い範囲の幸せを守るためなら別にいいかと思っていた。
母がフクロウにならなければ。父が裏切らなければ。あるいはあのとき、グリフが死んでいれば。
こんな不毛に惹かれることもなかっただろうに。
「――――ただ、知りたいのさ。俺にとっての一番大切なものを壊した運命の正体を。ま、正直言えば、多少はアークへの嫌がらせのタネになるかも、と期待してるとこもあるけど」
「……私には分からないわね」
そうだね。生けるものすら救われないなら、それこそただの夢追い人だ。
あるいは血と糞尿の沼でなお幻を忘れられずに喘ぐ、咎人か。
「そうかもね。なにせ、俺も母も悪魔だから。普通の幸せを囲って生きるにこの性格は……色々、不都合が多過ぎる」
苦しみから逃れ痛みから目を逸らし、幸せになりたいと思うのは人間の本能だ。だからダヴィドもカイルもカーヒルも正しい。
少なくとも己れを守ることを考えられない欠陥品の自分よりは、ずっと。
帰ろうか、とアシュは背を向けたまま言った。
「あ、おかえりなさい! 」
家に戻ると玄関からルルーがぴょこっと顔を出して迎えてくれた。
「うふふ。もう、可愛いわねえ。ただいまルルーちゃん 」
「ただいま。どうかしたの、ルルー? 」
玄関まで出迎えとは珍しい。いつもなら、帰宅の挨拶は大概ルルーたちがくつろぐリビングだ。
どさくさに紛れてちゃっかり抱きつこうとしたダヴィドを引き剥がし、アシュは首を傾げた。
「あ、いや、そんな大したことじゃないんだけど………」
目が合うなり少女はびくんと肩を跳ねさせ、それからおたおたと視線を迷走させた。
「んー? 」
今日はいやに挙動不審だ。
そういえばこのところ妙にそわそわしているし、
「何か企んでる? 」
「企んでない!! 」
……元々嘘の吐けない子だけになおさら怪しい。
膝を折り、じっと無言のまま目を合わせてやる。「ほら、吐くがいいよ」のポーズだ。子どもに効果覿面のこれは彼女にも例外ではない。
ルルーはしばらくスカートの裾を握ったり開いたりを繰り返していたが、やがて観念したようにぼそぼそと呟いた。
「その、展望台に、行ってみたいなぁって………」
「展望台? 」
確か、居住区の岩場の最上階にある、ちょっと開けた踊り場のような場所だ。子供の遊び場にするには少し危ないので使い勝手もない。
(けどなんでまたそんな所へ……? )
青年はますます少女の意図が分からなくて眉をひそめた。
「あんなとこ、行っても面白いものは何もないよ? 」
「――――いや、素敵なアイディアだわ、ルルー」
「ダヴィド? 」
突然首を突っ込んできた青年はちょんと人差し指で唇を突くと、頬に手をあてにっこりとルルーに微笑んだ。
「アシュったらこの頃、休みもろくに取ってないの。気分転換がてら一緒に出掛けてらっしゃいな」
「お前なぁ、なに勝手に………」
「ぐだぐだ言わず行ってらっしゃいな」
悪びれもしない上に、今日は男の顔の方を見ていたためかしなをつくる仕草が一々癪に障る。
しかしすぐつん、と袖を引っ張られ意識を引き戻された。
「…………駄目? 」
「…………………」
不安げな、夏空の色を写し込んだ瞳。多分、意識すらしていないだろう上目遣いにアシュはつっと視線を逸らした。
「あらあら。これを断るには別の勇気が必要ねえ」
「うるさい」
「まあ折角のルルーちゃんからのお願いなんだから叶えてあげなさいな」
「はぁ、君に言われるまでもないよ。……ルルー、夕飯の後でも良い? 」
「うん! アシュ、ありがとう! 」
そのまま尻尾まで振りそうなくらい嬉しそうに破顔すると、「テナー、聞いてー! 」と叫びながら、ルルーはぱたぱたとリビングに駆けていった。
「………何なんだ、一体」
「ふふ、可愛いおねだりじゃないの。行ってみれば分かるわよ」
「何を隠してる?」
「隠してなんかいないわよ。初めからそこにあって、貴方が気づかないだけ。ロマンチストってのも案外野暮天ね」
そう言ってダヴィドはさっさと家の中に入っていく。アシュは諦めを溜め息に混ぜて重い樫の玄関のドアを閉めた。
瑠璃色の空には飴色の月が登り始めていた。
◇◇◇◇
砂漠の夜は昼と打って変わって恐ろしく寒い。
きりりと肌を締め付けるような寒さの闇と、凶悪なまでに燦々と降り注ぐ太陽。昼と夜、光と影の鮮烈な対比は、そういったものをすべて曖昧にぼかしたスエンニとは対照的だ。
アシュは襟巻きに顔を埋めながら、はぐれないようにと繋いだ手を楽しげに揺らす少女を見下ろした。
「寒くない? 」
「平気。ちゃんと厚着してきたもん」
テナに巻かれた外套を翻してルルーはにこにこと笑っている。
「今日は随分と楽しそうだね」
「そうかな」少女は少し照れたようにはにかむ。「なんかちょっと久しぶりな気がして」
「朝食と夕食のときと毎日顔合わせてるじゃないか」
それはそうなんだけど、とルルーは不満げに淡く色付いた唇を尖らせた。
「アシュってば、このところちゃんと向き合って話してくれないもの」
「えー、そうかな? 」
「そうだよ」
それは避けてたからね。
忙しかったのと、決定的に踏み込まれそうな気がして。
だから、
「……アシュ、その、………この前は変なこと訊いてごめんなさい」
そう言われた瞬間、毛を逆撫でられたような、気味の悪い安堵が押し寄せてきた。
「え……? 」
繋いだ小さな手のひらが緊張のためか、まるっきりサイズ通りの子どものように湿っていた。真っ直ぐ申し訳なさそうな目にすぐ、間違って酒を飲んでしまったときのことだと気づく。
風に遊ぶフードを指で押さえるその横顔だけが、何故だかひどく大人っぽく見えた。
「困らせた、でしょ? 」
「ああ、まぁ。確かに困った、けど……」
むしろ聡い彼女から今まで問われなかった方が不思議なくらいだ。
「聞かなくていいの? 俺がその、……君の知らない誰かを……必要とすること」
止めとけばいいのに恐る恐る訊ねると、彼女は少しだけ笑い損ねたような不格好な笑顔で首を傾げた。
「だって、アシュには“天涯の月”が必要なんでしょう? 契約がある限り私のことも必要としてくれるでしょう? 」
「……っ! 」
違う、とは言えなかった。
しかし凍り付いたアシュに、ルルーは少し俯いたままぴょこんとぜんまい仕掛けの人形のように突然頭を下げてきた。
「だから、ごめんなさい! もう訊かないから怒らないで!! 」
「…………はい? 」
「だ、だってアシュいつも変な怒り方するんだもん! ずっと笑ったままだったり、口を利かなくなったり」
「変なとは失礼だなぁ」
色っぽい話に流れなかったのを幸いと思うべきか、彼女の純真さ加減を見誤った己れの狼狽っぷりを失笑すべきか。
単純に忙しかっただけでもないが、彼女は彼女なりにアシュに避けられていたと心配していたらしい。ついこの間まで塔に閉じ込められていたルルーに、その手の発想はまだまだねんね同然。子どもらしく、怒られたと思ったのだろう。馬鹿馬鹿しいくらい歪んだ憧憬を拗らせた自分と同じ所には立ってはくれない少女に、少しだけほっとした。
せめてあと少しだけ。別れまでのもう少しだけ。
幸せが一番綺麗な形をした、このままで。
「はいはい。じゃあこれで誤解は解けたってことで。こっちこそ忙しくてかまってあげられなくてゴメンね」
ぐいぐいといささか乱暴に頭を撫でると重心の定まらない華奢な身体はぐらぐらと加えられる力のままに揺れる。同じ様に食べて、歩いて、喋っているのが不思議なくらい頼りない。
「また子ども扱い……! 」
「そう不満げな顔しないの。ほら、ご希望の展望台に着いたよ」
話してるうちに、いつの間にか石段の終点が迫っていたらしい。途端、ルルーの顔もぱっと明るくなる。
「アシュ、あとちょっとだよ、早く行こう」
「よし来た、じゃあ上まで競走〜! 」
「あっ、狡い! 」
慌てて追い縋ってくる少女を尻目に、アシュは手加減なしの全力で最後の階段を駆け上がった。
荒い息を整えた展望台は恐ろしく閑散としていた。
こんなただっ広いだけのところに、しかも寒さの染み入る夜、酔狂な人影などあるわけもない。色とりどりの小さな風車たちが申し訳程度に夜風にカラカラと回っている。
足元を見下ろせば凍える闇の中にさらに暗く谷筋が横たわり、その岸壁にちらちらと暖かそうな無数の街の灯りが瞬いていた。
「アシュ、なに見てるの? こっちだよ」
ルルーは肩に掛けた鞄からずるりと大判の布を引き出していた。
「これを広げて………、ほら出来た! 」
厚手のフェルト地のシートにルルーはぽんと飛び乗った。そしてそのまま水揚げされた魚みたいに手足を投げ出し、仰向けに転がる。
作業終了。
しばらく待ってみたが、それ以上なにかアクションがあるわけでもない。
「で、何するの? 」
「アシュも。アシュもここに寝転がって」
「…………」
答えになってない。
ばんばんと自分の傍らを叩くルルーに、溜め息を飲んで取り敢えずシートに腰掛けた。だがそれではまだ及第には至らなかったらしく、ルルーは再びばんばんとフェルトを叩く。
「寝転がらなきゃ駄目」
「はいはい」
どうやらこだわりがおありらしい。特にふくれっ面に逆らう理由もないので素直に従う。
「ちゃんと仰向け」
「はいはい」
「で、上見て」
「はいはい。でも上なんか見たって、何も………」
何もない。
雲の一片さえも。
空っぽの砂漠の天にはただ、圧倒的な星空が広がっていた。
「テナが教えてくれたの」
息を飲むアシュに、身を起こしたルルーのしたり顔が覗き込んだ。
「砂漠は雨が降らないでしょう。だから雲も、空気中の水の粒もないから星が綺麗に見えるんだって」
まるで金銀螺鈿を散りばめて作られた、一枚削り出しの盆のようだった。昼は太陽の苛烈さに影を潜めていただけと、改めて突きつけられる。
「確かにこれは、凄いな………今なら月にまで手が届きそうだ」
星も月も。こんなに鮮やかに地上を呑み込むものだったとは。たっぷりと時間をかけて昇ってきた月はすでに天頂近くにまで届いており、飴色からひんやりとした冴えた白銀に変わっている。
寝転んだまま空に向かって手を浸すと「変なの」とルルーが笑った。
「アシュはもう半分、“天涯の月”を盗んでるくせに」
「はは、それもそうだね」
このときの笑顔を、自分は生涯忘れないだろう。
悪党に全幅の信頼を置く、無傷の笑顔。
この子は本当に、残酷だ。
こっちにはそのお綺麗な笑顔くらいいつでも奪って、捩じ伏せて、汚してやれる力の差があるのに、その力が自分に及ぶはずがない、傷つけるはずがないと、心のどこかでいつも高を括っている。
無傷の笑顔で無遠慮に触れてくる。
ふわりと、果実のような甘酸っぱい香りが鼻を抜けた。
覆い被さるフードの隙間から零れた白銀の髪がカーテンのように垂れ、耳をくすぐる。
空の瞳がゆっくりと閉じ、唇を柔らかいものがそっと触れた。
永遠のような、一瞬。ムシヤライの香りと共に唇を掠める柔らかな熱はどんな美酒より麻薬より、痺れるように甘かった。
「――――……ルルー」
「意味なら、分かってるもん」
挑むような目で、少女はぐっとアシュを見下ろした。
「好きだよ。私がアシュを必要とするのと同じくらい、アシュに必要としてほしい。………契約じゃなくて」
香りは、本来鼻で嗅ぐもの。ゆえに鼻先に纏う香水は、古くからキスと愛をねだる意がある。
一方で、虫除けを意味するムシヤライは貞潔の象徴だ。そんなムシヤライを纏っての女からのキスはただの好意の表現ではない。
簡潔で、凄烈で、そして今はただ残酷なメッセージ。
――――唯一の人へ。
(ああ………)
どれほどの想いで蓋をしようとしたか、君は知りもしないんだろう。
無理もない。だって俺は君に何も見せてこなかった。
汚くて、姑息で、愚かで、理屈ばった……けれどどうしようもなく君に恋した男の姿を。
まるで悪夢だ。
獣じみていた、と自分でも思う。
細っこい腕を捕らえ、小さな唇を夢中で貪った。
今頃怖じ気づいても遅いんだよ。何もかも。
咄嗟のことに上げられた悲鳴を噛みつくようなキスで塞ぐ。気遣いという言葉ははどこかへ消え失せ、アシュはただただその甘さに一人酔いしれた。呼吸奪い、代わりにその隙間に舌を捻入れる。口内を蹂躙する未知の感覚に怯える哀れな少女は、いつの間にか逆転した彼我の位置にすら気づかない。
(――――こんなつもりじゃなかったのに)
「………ッつ、ぁ!」
ぐったりと力が抜けたところで耳朶に噛み付く。
そのまま舌先で嬲ってやれば組伏せられた腕の中でびくりと、少女の体は面白いほど震えた。
(傷つけたく、なかった)
昏い目をした自分が映り込んだ世界一綺麗で尊い、空の瞳。その瞳が一杯の涙を貯め、困惑と懇願を交えて見上げてくる。声にもならないのだろう。かちかちと小さく歯の鳴る音がする。
隠しきれない小刻みに伝わってくる恐怖が、膨れ上がった嗜虐心を直で刺激した。
(大切に、したかった)
折れそうな両腕を縫い止めるのとは反対の手は、白い首を伝い、頬を撫で上げ、赤く熟れた唇を満足げに弄ぶ。
再び唇を押し開こうとすると、とうとう我慢できなくなったのか、逃れるように顔を逸らされた。
「……怖いかい? お綺麗なお姫様には」
否定も肯定もない。ぼろぼろとライトブルーの目から真珠のような涙があとからあとから零れ落ちてゆく。それが彼女の何よりの答えだ。
「…いや……助けて………たすけて、」
ルルーははくはくと震える唇を必死に動かし、何かを訴えている。アシュは笑った。
「助けて? 誰が? 誰が君を助けてくれるというの? ねえ、ルルー。誰が君をこの俺から助け出せるというの?」
君は俺を唯一と言った。覗き込むその目に、他の誰が映るというのだ。
「ああ、それともやはり自分を映したこの瞬間のまま、壊してしまおうか」
気紛れなんか起こす前に計画していた通り、光も音も自由も奪い、君を閉じ込めてしまおうか。「ねえ、どう思う? ルルー」
「……あ、シュ……」
息が止まった。
「たすけて、アシュ」
力が抜ける。突然解けた拘束に彼女はぼんやりと視線を向けた。
本当に、君は運命のように残虐だ。
これほどの何もかもを否定した酷い拒絶があるだろうか。
彼女が助けを求めた相手は他でもないアシュ自身だった。
……そうだね、可哀想に。
可哀想なルルー。
その憎しみはすべてこの悪党へ。君は傷付く必要なんてなかった。ただ退屈でありきたりで普通の、当たり前の恋をしただけ。
君は何も悪くない。
君はただ、綺麗なままだっただけ。
苦しかった。
こんな小さな小娘に、自分は何を傷付くことがある。
傷付くことに、傷付く。
炎を飲んだ腹の底が焦げ付く。甘酸っぱい香りを堪能しながら頬を舐めると、微かに苦い涙の味がした。
返す返すも、やはり自分は何かを守ることの出来る人間ではなかったらしい。
「優しいアシュ」が彼女を守っているうちに、突き放すように身を起こすと顔を背けたまま、吐き捨てた。
「――――震えるくらいなら、初めから煽るな。君のそういうところが大っ嫌いだよ。ルルー」
ここまでお読みくださりありがとうございました。
パソコンが故障中なんでしばらくはケータイ投稿。改稿がめんどくさすぎる。




