悪党と少女
「なんつーか…………お前ホント最低だな」
「あ、やっぱりそれ言っちゃう? 」
部屋はいやに静かで、ぽつりと溢されたカイルの呟きは無視をするには響きすぎた。
カーヒルと別れてから、アシュ一行はあの後、ルルーを抱えてそのままダヴィドの家に転がり込んだ。あまり朝市を見て回れなかったテナは夕市に備えて昼寝中である。
それは、太陽が薄明かりを残して西の岩壁に沈み、夕市を見たいというテナをそろそろ起こさなければという頃合いだった。
綺麗な弧を描いて、丸めた薬包の紙を屑籠に放り込んだアシュにカイルは軽蔑を隠しもせず露にして言った。
「見えてた? 」
「俺側からはバッチリな。いつも袖口にそんなん仕込んでたのか」
そんなん、というところでカイルは視線を屑籠に投げた。
「いくらおチビが酔ってたとしてもアレ、わりと真面目な問いだったと思うぞ? それを眠り薬仕込んでまで応えないって、逆に手酷く撥ねつけてるみたいだ」
「君って馬鹿のくせにテナちゃんに関してと、たまに要らんところで無駄に聡いよね。馬鹿のくせに」
「喧嘩売ってんのかテメェ馬鹿は余計だ! 」
用済みの包み紙、中身は先刻ルルーに盛った即効性の眠り薬だ。
いくら酔いやすいからといっても、突然あんな落ちるようにいきなり眠りだすワケがない。返答を後回しにしただけだとアシュももちろん気づいていたが、今は本当のことを告げるつもりは勿論、色々と嘘をつく気力もなかった。
「ともかく、ああいうのは拒むならちゃんと拒めよ。中途半端は流石に可哀想だぞ」
「まさかカイル君に女心諭される日が来るとは思わなかったなぁ」
「おい、こっちは真面目に話してんだぞ」
「そうかい? 生憎俺は不真面目だからなぁ」
面の皮一枚の微笑みを張り付け、のらりくらりとかわす青年にカイルは溜め息を吐いた。
「………テナはあのおチビを気に入ってる。だからきっとあいつが泣いたらまた余計なこと仕出かすぞ」
カイルは契約によりアシュの駒だが、それでも基本はテナの味方だ。「命令」でもない限り彼は常日頃から気に食わないと思っている野郎より、可愛い想い人の意思を優先するだろう。
「お師匠様といい君たちといい……つくづくあの子は周囲を味方につけるのが上手いよね。理不尽とは言わないけど、どうして俺ばっか責められるのかな」
「人徳だろ」
「言うね。まぁ良いけど。それにしても、自称『乙女の味方』はまず間違いなくルルーの肩持つだろうし、俺明らかに不利だよねぇ」
アシュ頬杖をついて絨毯の紋様を見るともなしに数えていた。
不利でも、理不尽だと訴える権利は自分にはない。
ダヴィドは“協力者”だが“仲間”ではない。カイルやスエンニの執政官たちに師のカーヒル、姉のレミィでさえも。
(人徳か…………)
アシュは無条件で誰かに命運を預けられる生き方を知らない。それが寂しいことだとは思ったことはない。これからも、思うことはないだろう。
「これがさ、」
「あ? 」
「だからこれがさ、最後の旅にしようと思うんだ。ルルーと一緒の旅は」
「はぁ!? おま………なんでいきなりそういう話になるんだよ! 」
「いきなりじゃないよ。スエンニにいたころからすでに決めてたし。まあ、確かに頃合いだったのかもね」
いきなりではない。
実際、少し考えてみれば分かることだ。現にカーヒルは委細のすべてを承知したからこそ、あれ以上追求してこなかったのだ。
ここからは長期戦に本腰いれてかからねばならない。
自分か、アークか。どちらが勝つにせよ事の始末がつくまで、フクロウには当分護衛つきの半軟禁生活を送ってもらわなければならないだろう。
不自由で済む分にはまだ良い。
ルルーは近い将来、確実にこのパンゲアに降りかる嵐の行く末を決める玉だ。彼女の預かり知らぬところで運命はすでに回り出している。
アシュが育て、巻き込んだ嵐だ。この騒乱が何年、いや何十年かかるかはアシュにも分からないが、それ自体はこの計画を立てた何年も前から分かっていた。
カーヒルの言う通り、彼女を塔へ閉じ込めた輩と何も変わらない。
だがアシュの苦笑に「気に食わねぇ」とカイルが目を細めた。
「お前はあの子が大切だったんじゃないのか? 」
「………大切だよ? けど同じ感情だからといって、俺が君と同じ様な選択をするとは限らない」
初めてあの子の手を取った日、契約をした。今にしてみればしなくてもいい契約だ。
ほんの気紛れのつもりだったがもしかしたら、あのときからすでに、自分はあのちっぽけな少女に惹かれていたのかもしれない。
この子にすべて取り返してやりたいと、分不相応に願ってしまった。
名前すらない。小さな窓に切り取られた世界。母の死んだ小さな部屋に押し込められた、母と同じ白銀の髪の少女。
それでも彼女の瞳は雨上がりの空のように曇りなく、真っ直ぐで綺麗だと思ってしまったから。
要は一目惚れだ。
彼女と共にいくつもの季節と景色を巡り、ずっと旅をしてゆく。カーヒルの言う通り復讐さえ忘れられれば、そんな別の生き方もあったかもしれない。
きっと楽しいだろう。
きらきらと万華鏡のように目まぐるしく変化を止めない彼女の傍らで眺める世界は、発見と驚きに満ちて、どうしようもなく綺麗だ。
――――それでも、きっと交わり合うことは間違いだった。
「――――だってさ、壊されるくらいなら、突き飛ばされる方がましだろう? 」
侮蔑の色を浮かべて睨み付けていた青年は、アシュの思いもよらない返答に呆気に取られたように目を瞬かせた。
「壊す、だと? 」
「手に入れても自分のものには出来ないなら、壊す人間なんだよ。俺は」
他の奴にいいように改造されるくらいなら、心の中でくらい完璧のままでおきたい。母も折り紙つきのこの激しさは彼女の幸せと同じくらい、破滅を願っている。
だったら、このままで良い。
ルルーが裏切られたと泣くことが出来る距離。綺麗なままの「縁」で。
「…………なんでそのニ択なんだよ」
「そういう手札しかなかったんだよ。元々、引きの良い人間は博打打ちなんかしてないし、ましてやイカサマの指を磨いたりなんかしないさ」
カーヒルの言う通り、自分は大層要領の悪い、生きにくい性格をしているのだろう。死者に囚われ卑怯で下劣な仕事を必要とする復讐者。けれど己れが正道であるような世界もまた、受け入れきれない。
それにしても、そんなアシュを始め、強欲のロキに頭に花咲いたギスタフの跡取り。よりにもよってそんな男にばかり惚れ込まれている辺り、ルルーの男運は大概悪そうだ。
手を差し伸べる手がカイルやダヴィドのような人間なら、もっと穏やかで優しい手札があっただろうか。しかしアシュには、酔ったルルーがあのまま続けようとした言葉に、応えるわけことはできなかった。
この曖昧な繋がりが男女の情に置き換わった瞬間が、恐ろしかったのだ。過保護な庇護者の仮面を引き剥がされたが最後、血まみれのこの手はバロットの予言通り自分はきっと彼女を完膚なきまでに汚す。
理性でどうこうなるものじゃない。そんなまともさがあれば復讐など、忘れていただろう。理屈を塗り潰して燃え上がる感情の滾りを、アシュはよく知っている。
「頃合いだったんだよ」
「……………」
自身に言い聞かせるように、そっと繰り返した。
カイルは何も言わない。眼差しだけがそれでいいのかと問い詰める。
(そう、頃合いだった)
もう一度心の中で呟き、苦みごと噛み締めた。
踏み躙り、引き裂いて、ぼろぼろになって堕ちてきたルルーに後悔するくらいなら、もうここまででいい。
たとえ傷ついてもあの子にはもうアシュがいなくても廻る世界がある。突き放されても、ルルーはもうそこで泣くことが出来る。泣き止めばまた、笑うことだって出来る。
だから他の何を失っても良い。恨まれても憎まれてもいい。……あの子だけは、壊したくない。
自分勝手で、何一つ救わない一人よがりの偽善。それでも。
――――彼女にだけは、優しくしてやろう。
稀代の大悪党アシュの、生涯この一度きりの善行だ。
ひょっとすると。
最期の一人になってもせめて自分だけは、彼女の味方でいたかったのかもしれない。
◇◇◇◇
―――……い。
誰かが、泣いている。
―――お願い、返して。私の……を。
暗闇の中でその人はただ一人の名前を繰り返し叫ぶ。
胸が締め付けられるような、哀しい懇願だ。
この人に泣いて欲しくない。
この人には笑っていて欲しいのに。
もう、どんな言葉も届かない。
やがてその人は沈んでゆく。
暗い水面に向かい銀の泡が弾け、崩れ、消える。月も星もない静寂。完全なる虚空。
―――お願い、返して。
その人の声だけが、いつまでも耳にこだましていた。
◇◇◇◇
頬を撫でる水の感触に、ルルーは目を開いた。
「あら、良かった。気がついたのね」
見慣れない寄せ木細工の天井にふわりと影が落ちる。
「ずっとうなされていたのよ。怖い夢でも見たのかしら」
「え………」
随分と冷や汗をかいていたらしく、頬を撫でる濡れタオルの感触が気持ちいい。霧散しきった今、悪夢であったかすら覚束ないそれから、引き上げてくれた感触だ。
夢の内容など覚醒した瞬間にもはやほとんど忘れてしまっている。だがおそらく、あまりいい夢じゃなかったのだろう。
荒れた呼吸を宥めるように大きな手が優しく前髪を整えた。
ルルーは大きく一つ息を吐くと天井を仰いだ。
緩くウェーブを描く茶金の髪に、優しい瞳の青はルルーのそれより濃い。どこかロキを彷彿とさせる甘い匂いは、異国情緒に満ちている。
綺麗な人だ。
ぼんやりとその長いまつげを眺めていたルルーは、すぐはっと意識を覚醒させた。
フードを被っていない。
シーツに河を作る銀の髪をその人は優しく撫でていたのだ。
突然青い顔でシーツを掴んで後ずさった少女に、彼は目を見開いた。
「ああ、驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね。私はダヴィド。貴女の出自は知ってるからそう怯えなくても大丈夫よ」
「ダヴィド……さん? 」
確か、アシュがしばらく世話になると言っていた人だ。
「そうよ。地上のすべての乙女の味方、ダヴィド。よろしくね、ルルー」
ぱちんと送られてきたウインクは声からして明らかに低い男のものなのに、そこらの乙女より余程チャーミングである。
……どういう人かは結局よく分からなかったが、彼が隠れ家に選んだとなればきっと大丈夫なのだろう。
ひとまず警戒を解いたルルーはきょときょとと辺りを見回す。
アムーラ・アジャンダでは岩壁に穴を掘って住居にすると聞いていたが、ここもそんな一室らしい。綺麗に整えられてはいるが部屋は全体的に薄暗く、ダヴィドは手燭を持参していた。
漆喰に塗り固められた壁にはタペストリーの他、所々棚のようなくり貫きがあり小物や花が生けられている。向かいの壁に一つだけ空いた小さな窓からは、すでに一番星を引き連れた夕闇が切り取られていた。
あの後、どうしたのだろう。
記憶に残るのはカーヒルとアシュの慌てる顔。
(えっと確か、ホットワインで酔っ払ちゃって、それから………)
――――だからアシュも色んな女の人に必要だとか言えちゃうんでしょ?
「アシュなら確かまだ下でウロウロしてるはずね。呼びましょうか? 」
「ま、待って!! 」
立ち上がりかけたダヴィドの袖をルルーは反射的に掴んでいた。彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、そのままベッドに腰を掛け、微笑んだ。
「アシュのことは、嫌い? 」
「ち、違っ! ……今はその、顔を合わせたく、ないだけで………」
「じゃあ彼のこと、好き? 」
「それは、…………好き……だよ」
口にして、ルルーはその言葉がひどく不実な気がした。
これ以上に真っ直ぐで明瞭な言葉など思いつかない。でもこんな軽いたった一言で表してしまうことがもどかしい上、いかにも子どもめいていて気に入らなかった。
もっと違う、もっとぴたりと隙間もなく当て嵌まる相応しい言葉くらいいくらでもありそうなのに、どうして今ここに落ちてこないのだろう。
もごもごと言い募る少女にしかし彼は「ああ」とすべて了見したように頷いた。
「貴女、恋してるのね」
「こ…い……? 」
恋。
ヤハルとヤガナが言っていた。確か、人を愛しさでどうしようもなく求める気持ちだ。
「私が、アシュに? 」
ダヴィドは応えず、水差しを取ると厚い色ガラスのコップに水を注いでルルーに差し出した。
「飲むといいわ。いっぱい汗かいたでしょう。ここでは水分は小まめに摂るよう心掛けなきゃすぐ倒れちゃうの。アシュはともかく、私は別に逃げないから」
口をつけると、成る程自分は渇いていたらしい。清澄な水がすぅっとささくれた喉を潤し、滑り落ちていった。何かハーブが入っているようで、気持ちが徐々に落ち着いていく。
あのね、とダヴィドは口を開いた。
「もどかしくて、言葉が足りなくて、もっともっとって焦るとき、女の子は大抵その相手とケンカしているか、恋をしているのよ。――――貴女も、何か言ってやりたくて仕方ないって顔してる」
不透明な心の底まで見透かすようなその視線に、心臓がぎゅるんと嫌な跳ね方をした。
「で、でも! でも、もしかしたらケンカかもしれないんでしょ? 」
「あらやだ。どんなこと言ったのかは知らないけど、あれがケンカなワケないじゃない」
食い下がる少女を彼はあっさり一笑に付した。
「実は私はね、彼の出資者なの。スエンニをアークに対抗しうる商業都市に仕立て挙げるための」
「………穀物の流通を止めてバロットさんのお父さんを追い詰めたときの? 」
「あら、聞いてたのね。アシュ……いえ、ロキかしら」
「…………………」
無言は肯定と同じと見なしたか、彼は肩を竦めた。
「本当に頭の良い男よね。でも、スエンニ商工連創立初期の頃はあれでもかなり無理に無理を押し通してきたのよ。老舗の商会なんかは今でも彼のことをほとんど海賊扱いしてる。まるで荒くれものの『海狼』だって」
人を惹き付け動かす力、その一面で彼は何倍もの畏怖も集めてきた。
まだ十代の、少年の枠を抜けきらないうちから彼はそうやって戦ってきた。『海狼』と名付けた人は単に『流儀を弁えない荒くれ者』という意味だったのかもしれないが、彼の苛烈な人生はまさしく狼だ。
「いつも笑ってるのに笑ってないみたいな、私はそういう顔しか知らなかった。……というより、そもそもそういう顔以外出来ない類いの人間だと思ってたわ」
でもね、と彼は一度言葉を切ると優しいまなざしをルルーに向けた。
「それが今なんかまるで叱られた犬みたいな顔しちゃってたわ。狼どこ行ったのかしらーって以前に、もう進退窮まって雨の中とぼとぼうろうろって感じ? 」
……言ってることはわりと辛辣である。
「ともかく」と、ダヴィドはきっぱり否定と共に首を振った。
「これがケンカなわけないわ。アシュどころかルルーちゃんまで、似たり寄ったりの顔してるんだもの。まずケンカになんてなりようがないでしょう」
「………………」
「ねぇ、ルルー。言葉は口にして、ようやく自分のものになる。今は違和感があっても、そのうち貴女の形に馴染んでくるわ」
「……………だって、だってアシュが逃げるんだもん……」
ようやく喉を迫り出た言葉はひどく熱く、みすぼらしいものだった。
ぼたぼたとシーツに涙が律儀なシミを作っていく。
ケンカなら、いっそその方が良かった。少なくとも厄介はないから、アシュだって逃げずに相手をしてくれただろう。
逃げられたら、ルルーにはどうしていいか分からず途方に暮れることしか出来ない。
「自分のものだって、利用するって言ったのに。……私は自由なんだって………いっつもそう」
分からなくなったら、手を引いてくれた。
ルルーになかったものをみんなくれた。
誰かと囲む食事も、海の眩さも、街のざわめきも、濡れた草を踏む匂いも、みんなみんな。
「私を引っ張り上げてくれるのはいつもアシュなのに! 」
そのくせルルーにはフクロウとしての利用価値以外、一切求めない。
もどかしくて、苦しい。たった一言で済ましてしまうにはあまりに不実で、眩さにただじりじりと燻ることしか出来ない感情。
名前をつけた瞬間、今度こそ取り返しのつかないところまで本当になってしまう気がする。
「まあ、考える時間ならたっぷりあるわ。ほら涙は拭きましょ。涙は女のここ一番! ってときだけの最終兵器よ。どうでもいい男に見せるものじゃないわ」
女物を着こなし口調も丸っきり女性的なのに、拭う指先はアシュとは違うものの、やはり硬く節張った男の指だ。
「恋をしている女の子はね、みんな綺麗になるの。ルルー、貴女は今、とても綺麗だわ」
「嘘。泣き顔、……ひっく、ぐちゃぐちゃって、分かってるもん……っ」
「それでも、よ。ほらそんなに擦ったら赤くなってしまうわ。」
溢れ出る涙を袖口で適当に拭っていれば、やんわりと腕を取られる。
次の瞬間、太陽の恵みを一身に浴びた果物のように甘酸っぱい香りが掠めたかと思うと、ちょんと鼻先に冷たい感触があたった。
「う? 」
見ればガラスの棒をくるりと指先で踊らせたダヴィドがちょっとだけ悪戯っぽく微笑んでいた。
「女の子のためのおまじない。コレ、何の香りか分かるかしら? 」
きらきらと燭の灯りに輝く透明な小瓶。リボンもラベルもないが、どうやら香水のようだ。色は零れ落ちる夏の木漏れ日を思わせる、淡いライムグリーン。
一瞬、柑橘系の果物かと思ったが何かもう一押し、違う気がした。
すぅっと鼻を抜けるのに、どこか柔らかく寄り添うような優しい香り。
「これはね、実はムシヤライなの」
「ええッ!? 」
ダヴィドの言葉にルルーは思わず小瓶から盛大に仰け反った。
記憶に、というかルルーなけなしの防衛本能にくっきり刻み付けられた名だ。
「ムシヤライってあの凄く臭い葉っぱだよね? 本当に? 」
つんと鼻腔を刺す―――喩えでなく嗅覚に刺さるような―――独特な匂い。コダエの隠れ里への道中、雑草然とした凡庸さとアシュの笑顔に騙されて素直に嗅いだら鞍からひっくり返りかけた、忘れようとしてもちょっと忘れられない悪臭の持ち主だ。
「うふふ。そうよ、そのムシヤライ。生憎私は生のムシヤライを見たことはないけど、その様子じゃルルーは実際に嗅いだことがあるみたいね。ムシヤライは元々霧深い山中に育つ植物だから、この辺には根から丸々干したモノしか来ないわ。これはその茎から抽出したエキスをベースにして作ってあるの」
「へぇ、乾かすと匂いも変わるのかな。――――でも、何でそれがおまじない? 」
「貴女の一番好きな人に、キスしてみれば分かるわ」
「キス? …………え、キス?」
さらりと返された言葉にルルーはぱかっと目と口を丸くした。
知識は、一応ないわけではない。
ヤハルとヤガナの妙な聖典のお陰で、唇をくっ付ける行為、という程度には認識している。というかその程度の認識しかないのだが。
「想いを『伝える』って、これが簡単そうに見えて意外と難しいのよ」
ダヴィドはもはや遠い何か思い出すように目を細めた。
「人間って案外不完全だから、融け合うことは出来ないければ、隣り合っていても同じ心にはなれない。ましてや言葉なんて気紛れで膨大な感情の前では氷山の一角よ。やっといくつか覚えた単語を、渡ることの出来ない淵の両岸で互いに投げ合うしかないんだもの」
だからね、とダヴィドは内緒の話でもするように背を屈め、声をひそめた。
「これは女の子の気持ちをよりストレートに伝えるための、特別なおまじないなの。人間が歴史の中で獲得した最も原始的で、でも今日までのところ最も冴えたやり方。意味は………そうね、きっとアシュが教えてくれるわ」
「アシュが意味? どうして? 」
「私からはこれ以上教えられないの。アシュに絞め殺されちゃう。ごめんなさいね。これでも私、男の子だから」
「男の子……………」
頬にてをあておっとり首を傾げる様と男の子発言とでは違和感ばりばりなのだが、教えられないと言うからには、聞いても仕方ないだろう。
元々アシュは秘密も口止めも多い。いちいち気にしていたらキリがないのだ。
分かっているのは、ルルーを引っ張りあげた手がアシュの手だったということ。
それが『恋』という名を付すべき感情かはまだ分からないけれど、たまには自分だって手のひらで転がされるだけでなく冴えたやり方で彼をやり返してみたい。
「うふふ、良い顔になったじゃない。じゃあ、いよいよ反撃開始よ。これは貴女にあげるから鼻先に、体温でほんの薫る程度で良いの、少しだけつけて。時価を下げないように涙と同じ、ここぞってときにだけ使うのよ」
女の姿と男の心を併せ持つ青年は、そう言うとルルーの手にゆらゆらと緩く波立つ小瓶をしっかりと握らせた。
アシュ、ヤンデレ疑惑浮上。
こっからは怒濤のフラグ回収章になる予定だったんですが、先日、突然パソコンが壊れて投稿済文の確認が出来ない。仕方なく現在、ケータイからチマチマ確認作業中。
ったく、まだるっこしいったら………。
「おまじない」の意味についてはまた次回。




