狡くて
いつもお読みくださりありがとうございます。
前半アシュ視点、後半ルルー視点。
(―――この世界は、)
淡い、とグリフは思う。
許して、忘れて。
そうしてやがて死者の名前を皆、優しいものに変えて土の下に埋めてゆく。
まるで無かったことのように少しずつ激情を薄めてしまうのが、グリフは何よりも嫌いだった。
自分が別段優しい人間ではないらしいことは、早い段階から自覚している。見返りなしで施しなどしていたらキリがないし、相手も哀れみなど好き好んで貰いたくもないだろう。
誰も生まれる場所など選べず、この世界は不平等で理不尽だ。そんな中で自分はまあまあ幸運な生まれであること、その一方自身の手で為せる分、というものをグリフはよく理解していた。
誰にでも手を差し伸べるなどという優しい人間がいたら、それこそ気持ち悪いと思っていたほどだ。
冷めた子どもだと、自分でも自覚していた。
寝物語を語りながら、けれど母だけはそんな可愛いげのない言葉にも頭を撫で微笑んだ。
「グリフは案外、ロマンチストね」
褒められたのか貶されたのか微妙な線だったのは、多分、母がにやにやと意地悪く笑っていたからだろう。
手燭の微細で柔らかな灯りに浮かぶのは線の細い、白い顔。人と戦い安寧を得て、天と戦い運命を切り開く。ときに父でさえやり込められるその微笑みは、いつだって不敵に未来を見据えるものだった。
母は言った。
「貴方は私によく似てるわ。理想が高いほど、周囲のものが褪せて見えるのよ。貴方はまだ自分の中の激しさをもて余しているだけ。……楽しみね。貴方を夢中にさせるのは、一体どんなものなのかしら」
半年後、暗示めいたその予言は、皮肉にも彼女の死によって実現した。
(フクロウを差し出せ? 何故父上はそんなものに従うんだ)
フクロウじゃない。
自分の母で、父の妻であるマリアだ。
たったそれだけのことが、何故こんなにも捻曲げられてしまうのか、グリフには分からなかった。
どうすれば捻曲げたものを優しい時間で薄めてしまえるのか、分からなかった。
優しい人間ではない。
正義に酔えるような人間でもない。
だが、押し付けられたその歪みに少年の魂は生まれて初めて、戦慄して拒絶した。
解放された熱量は、幼い少年の思考を鮮烈に焼き尽くす。自由を奪われた獣が網の中で荒れ狂うように、少年は持てる爪と牙を剥いて抗った。
――――許さない。
グリフは叫んだ。
母を取り囲み黒山となった兵、彼らを背に引き連れた父が苦い顔で睨んでいる。母によく似た面差しの姉は、最後の最後まで弟を必死に宥め、庇おうとしていた。
当たり前のもの。
この島ではそれすら薄めきって、忘れてしまった。
――――みんなみんな、地上に引きずり落としてやる。
母、マリアのように。一人にすべての業を背負わせて、みんな無かったことにしてしまうのなら。
そのときから、グリフの中で慟哭と共に一つの人格、いや、一頭の悪魔が形作られた。
―――すべて、叩き壊してやる。
この優しさで薄めきられた淡い世界を、血の色で塗り替えて。
だからもう泣かない。
悲しむ必要なんてない。
“嘆く者”の仮面を被り、笑おう。
歪みの中でせめて自分だけでも、あの女を忘れないために。
悪魔は真っ直ぐにしか進めない。
道を逸れることも振り返ることも思いつかず、焼き尽くされるその日まで、ただ歩き続ける。
苦しいとは、思わなかった。
そう、―――彼女に出逢うまでは。
◇◇◇◇
「レミィですか? 」
「いや、私が相談を受けたのは復讐で身を滅ぼそうとしている弟を持つ、シアナという女性だよ。黒髪黒目の美人ってところは同じだけどね。ああ、でも彼女を責めてはいけないよ。君と違い、彼女が孤独に耐える必要はないんだから」
「………そう、ですね」
久し振りに耳にした姉の本名は、意外なほど抵抗もなく胸に落ちた。カーヒルは自分の行為を否定も肯定もしない代わりに、あくまで弟子を諭し、教え導く師としての態度を貫くつもりらしい。
不安げに師弟の顔を交互に見上げるルルーをこちら側に引き留めるように、アシュはその細い肩を抱き寄せた。
「でも、一体いつからご存知だったんです? そんな素振り一度も見せませんでしたよね」
反対するのなら、実行の前に止めるべきだ。確かに自分もカーヒルもふらふらと居所不明の旅暮らしだが、連絡を取る手段なら他にいくらでもあったはずだ。
「君に言わせるなら、始めからですよ。ずっと………君たちと旅をしていた頃から」
「ははっ! 知らぬは俺一人ってわけだ。レミィもお師匠様も大層な役者だなぁ。それで、一体どういうつもりで? のちのち禍根にしかならないガキなんてそのまま放り出せばよかったのに。子どもなら何も出来ないと高を括っていましたか? それともまさか、憲兵につき出すには情が湧いた? 」
まるで傷を隠して威嚇する獣だ。傲慢で挑発的なその白い面差しにカーヒルは寂しげに目を伏せた。
太陽の登り始めた砂漠の街に行き交う人のざわめきだけが空々しく響く。
こんな、余裕のないところをルルーに見られたくはなかったが、かといって退くわけにもいかず、アシュは雑踏から切り離されたような静けさの中で薄く唇を噛んだ。
「………君がこの子を連れてきたとき、私は彼女が君を変える女だと思ったんですよ。私もシアナも、君にはただ幸せになって欲しいだけ。君が………自分のために笑えるようにと。彼女とならそういう道を探せると思った」
自分に話を振られるとは思っていなかったさしい。少女はきょとんと目を見開き、それからおろおろと、窺うようにアシュを見上げた。
(さて、なんと言い繕ったものかな)
明けの空より澄んだライトブルー。
なにもかもをそのままに映す宝石のような双眸が、今は少しだけ恐ろしい。
だが、言い訳を考える間さえ与えず、被せるようにカーヒルは続けた。
「旅間に聞きました。フクロウの存在を公表したそうですね。スエンニを中心にパンゲアは今、上へ下への大騒ぎだとか」
「ああ、成る程。それで慌てて消息を訊ねたというわけだ。耳が早いのも相変わらず、ですね」
「君は自分のしでかしたことを分かっているのですか? 」
「分かってますよ。野心家の貴族や国外の有力者、抜け目ない商人たちにとっておきを見せてあげた。それだけじゃないですか」
「彼女は物じゃありません」
「見た目だけならお人形さんみたいですけどねー」
「君の玩具じゃない」
「お師匠様、何をそんなピリピリしてるんです? 」
「茶化すな!! 」
低い叱咤に囲い込んだルルーの肩がびくりと震えた。
いつでも優雅さを失うことのないこの人に、まさかこんな真剣な目で咎められるとは思わなかった。
本気で、怒っているのだ。
業深き弟子が人の道を踏み外すことを。
笑みの仮面を納めると、彼も気を鎮めるように深く呼吸を繰り返した。
「……君は、取り返しのつかないことをした。ルルーはこれでもう、戻れません。君はアークの貴族と同じ仕打ちを彼女にしたことに気付いてますか? 君の母親を使い潰した彼らと、彼女を利用し尽くそうとする君と、何が違います」
鋭角的に突き刺さる言葉。けれどもう、その痛みにはとっくに慣れてしまっている。
さぞ皮肉げな顔をしているだろうことを承知で、アシュは口の端を吊り上げた。
「……だから言ったでしょ。とうの昔に分かってますよ、そんなこと。今更でしょう? 俺は、悪魔ですから。囚われてると言われようが、これしか生き方を知らないんですよ」
迷うことも、振り返ることもなく。
その先に破滅しかないとしても歩き続ける。そう決めたのだ。
「ルルーには悪いことをしたと思ってます。償いにはならないだろうけど、大切にしますよ。この子には何不自由しないだけのものを遺します。失ったものを全部取り戻して、笑っていられるように」
「……まるで自分はそのまま消えるかのような口ぶりですね」
苦々しい師の言葉に青年は少しばかり面食らったように目を見開き、それから頼りない苦笑を溢した。
「いや、ただ単に他に思いつかなかっただけですよ。上手くは言えませんが………俺には絶対にルルーが必要で、利用する。そのために歩いてきた。それは確かです」
許さないなら、それでもいい。
憎むというなら甘んじて受けよう。
彼女に残したのはせめて裏切られたと泣くための、小さなスペースだけ。アシュが彼女にだけは告げないと、決めた対価だ。
――――どうせ痛みには、慣れている。
苦しさも切なさも完璧に隠して、アシュは作り物めいた優しい眼差しをライトブルーの瞳に落とした。
「………そして、ルルーのためになら俺は何だってやる。死ぬとしたらそれは、この子のために。――――多分、これも確かなんですよ」
◇◇◇◇
「あれ、おっさんもう行くのか? 」
カイルとテナがめいめい干果や骨付き肉を齧りながら戻ってくると、カーヒルが入れ替わりに腰を起こした。
「ええ。話しはもう済みましたので。放浪の吟遊詩人は花から花へと舞う蝶がごとく、ひとところにいつまでも留まれない性なんですよ」
「なんだかよく分かんねぇ喩えだけど………もう日も大分昇ってきたぜ? これから移動するのは辛いんじゃねぇか? 」
「ふふ、ご心配なく。この街にも今から転がり込める花くらい、いくつか当てがありますから」
小指を立てる色男にカイルは妙な顔になる。
流石あのアシュの師と言うべきか、どうやらあちこちの街にちゃんと「宿」を確保しているらしい。
「それにしても、一体何を話してたんだ? 」
「大したことじゃありませんよ。ただ、淡白だと思っていた弟子の思いがけない要領の悪さに呆れていただけです」
「はぁ? 」
怪訝な顔になる青年と娘に優美に一笑すると、詩人はひらりと外套を翻した。
「私はもう行きますが、君たちはどこに宿を取るつもりで? 」
「あ、ダヴィドって人のところらしいです」
「そうですか、ダヴィドのとこに…………って、ダヴィド!? 」
ぎょっと目を剥いたカーヒルにテナが首を傾げた。
「あれ、もしかして知り合いですか? 」
「もしかしたらだったと願いたいくらいですよ! まさかあの変態ダヴィドのとこだなんて。嫌がらせですかそんなに私に嫌がらせたいんですかねあの馬鹿弟子は………っ!! 」
「やだな、邪推ですよ。というかお師匠様、まだ奴が苦手なんですか? 」
すっかり青褪めて腕をさするカーヒルの後ろからひょっこり顔を出した弟子は、呆れたように首を竦めた。
「おい、変態ってどういうことだ? 」
これ以上の厄介事は御免だぞと眉をひそめるカイルに、アシュは笑いながらひらひらと手を振った。
「いやいや、これは単にお師匠様のプライドというか、沽券の問題? なにせ年頃の女の子の目の前で、野郎の手を握って口説きに掛かったんですもんねぇ。あれは傑作でした。そういえばレミィがアレな世界に嵌まったのもあの後からでしたね」
「アレな世界? 」
「テナ、お前はちょっとこっち来てろ」
色々情況を察したのか、カイルは小首を傾げるテナをすかさず退避させる。
「コダエの双子に聞きましたよ、お師匠様。タイトルを聞いてもしやと思ったんですが、あの本って“黒猫亭”の二階の本棚に飾ってあったヤツじゃないですか? 」
「君は師を疑う気ですか」
「いいーえ? ただ偶然と言うにはちょっと、ねぇ? 」
「ねぇアシュ。アレって、ヤガルとヤハナが持ってた本? 男同士で愛の言」「やめてください! 」
いい歳した男が半泣きの真顔で少女に縋り付く様に、今度は道行く人がぎょっとした顔で振り向く。アシュはよくやったとばかりにルルーに向かい親指を立てると、ニヤリと悪辣に笑った。
「やっぱりお師匠様でしたか。レミィに怒られますよー。手に入れるのすごい苦労してたみたいですし」
「だって、居たたまれないじゃないですか! 私だってあんなタイミングじゃなければ、女性と野郎の区別くらいついたのに。もう人生最大の失敗ですよ」
「………一体ダヴィドさんってどういう人なの? 」
何が彼をそこまで言わしめるのだろう。
カーヒルはきっぱりと断言した。
「変態です。近づいてはなりません」
「それと、自称乙女の味方だったっけな? 」
……ますます謎が深まった。
うーんとわりと真剣に顎に指をあてて考え込む弟子と鳥肌をさする師に、周囲は妙な顔になる。
「ダヴィドはね、アムーラ・アジャンダの領主の甥なんだけど、色々あって調香師でオカマやってるんだ」
「そうか、甥で調香師でオカマか………あれ、オカマ? 」
「美人だよ。性的嗜好は男らしいけど、見た目だけなら元々女顔だし、ちょっとごついけどお師匠様が騙されたくらいだから」
「屈辱です……! 香水で体臭を嗅ぎ分けられないくらい鼻が馬鹿になっていたんです………!! 」
「いやおっさん、それもそれでキモイから」
間髪入れずにカイルの突っ込みが入る。
プルプル震える師をまあまあと宥め、アシュは晴れ渡った夏空のように爽やかに笑った。
「ダヴィドはね、言動は確かに男としてどうかと思うけど、基本的には良い奴なんだよ」
「そうか………いや、待て待て。お前基準のいいヤツって言うとロクでもないの同義だし……」
「いえ、人間としては本当に良い奴ですよ」
「え、本当にまともなヤツなのか? 」
「はい。誰にでも公平で慈悲深く『砂漠の聖女』って渾名でしたし」
「……………………は? 」
聖女?
オカマが?
アシュはうんうんと頷く。
「俺の友人としては極めて例外的にまともな奴なんじゃないかな」
「確かに彼くらいですよね。『良識』って言葉を使っても良さそうなのは」
「じゃあなんでそんな嫌ってんだよ! 」
あっさり答えたカーヒルにやり場なき憤りを含めてカイルが噛みつく。
いや、だって、と詩人は弱りきったようにポリポリと頬を掻いた。
「昔、つい押し倒したらたまたま居合わせた可愛い方の弟子に盛大な勘違いされちゃいまして。私が女好きなのは実は唯一にして禁断の恋を世間から隠すためなのねー! と。以来、いくら説明しても隠れ蓑扱いされて聞き入れられず、その後はそっちの世界に走るわ、見上げる無垢な視線が居たたまれないわで」
「爆笑だよね」
「…………なんつーか、色々言いたいことはあるがもうどっから突っ込めばいいのか分からん……」
諦めたように溜め息を吐くカイル。
ふと脳裏に引っ掛かった一言にルルーは顔を上げた。
「ねぇねぇ、アシュ」
「うん? 」
「領主の甥って言ってたってことは、ダヴィドさんって貴族なんだよね。なのにどうして調香師をやってるの? 」
調香師というのが具体的にどんな職業かは知らないが、どう見ても中流階級職だ。パンゲアはれっきとした階級社会。学者のように一代限りの例外的抜擢はあるが、基本的には子は親の身分と職業を受け継ぐのが普通である。
砂漠の中でも、アムーラ・アジャンダは比較的交易も盛んな大きな街だ。
そんな要所を領に持つ貴族が、何故そう自由に暮らせるのか少し疑問に思ったのだ。
「う〜ん、まあ隠すことでもないか。ダヴィドはね、庶子なんだ」
「ショシ? 」
耳慣れない言葉だった。
アシュは言葉を探すように軽くこめかみを指で叩いてから、ルルーへと眼差しを移した。
「庶子っていうのはね、正妻の―――貴族階級以外の母親が儲けちゃった子どものことなんだ。ダヴィドは先代当主と使用人の子で、認知はされてるけど家名は継がなかった。法的には出来ない訳じゃないんだけどね。自分は跡取りの補助にまわるからって、端から継ぐ気はなかったらしい。……まぁ色々あって、結局先代の弟が継いだんだ」
「ミリーさんは、女の人は大人になったら好きな人の子どもを産めるようになるって言ってた。それから、そういうたった一人の相手が見つかるまでは、女の子はお高くいなさいって。でも男の人は好きな人が何人いてもいいの? 」
「ぐっ……! 」
視線の先は自称「花から花へと渡る蝶」ことカーヒルだ。
咎めるというより、ルルーの場合は本気で純粋な興味なので、『駄目な大人』としては言葉も返せないらしい。冷ややかな視線や意地の悪い視線に泡食って手を振っている。
しかし好奇心の矛先はそれだけでは収まらなかった。
「あと、ロキも言ってたの。男の人は女の人が必要になるときがあるって。男の人は肉の器がいるって。だから、アシュも色んな女の人はに必要だとか言えちゃうの? 」
「え――――いやちょ、待って待って待って、言い掛かりだよ! というかアイツなに吹き込んでんだ!! 」
予想外の詮索に絶句の後、目を剥いたアシュもあわあわとルルーの肩を掴んだ。
そんな三人から少し離れた所からテナが首を傾げ、
「どうしたのかしら、ルルーちゃん。なんかちょっと顔が赤いけど………」
「言われてみれば。そいつ、軟弱だし熱でもあるんじゃねーの? 」
外野からの客観的意見に師弟ははっと我に返った。
「ルルー、ちょっとごめんね」
むずがる少女の額に半ば強引に手をあて、熱を測る。
「やっぱり少し温かい。疲れが出たのかな。ここまで結構忙しかったし……」
「いや、待ってください」
完全に保護者顔で日程を振り返る青年に、カーヒルがルルーの手の内から何か抜き取った。
「これ………」
「いやーん。かーえーしーてー! 」
「ルルー……君、もしかして酔っ払ってる? 」
少女の手の中に収まっていたのはすっかり空になったホットワインの容器。
師弟が話し込んでいる間、手持ち無沙汰でちびちび呑んでしまったのだろう。よく見れば目も心なしかとろんと潤んでいる。
「熱してあるから酒精は大分抜けてるはずなんだけど、まさかこんなに弱かったとは………」
「絡み酒だったんですね」
「酔ってないよ。誤魔化さないで」
「はいはい、酔っ払いはみんなそう言うんだよ。さ、これ薬ね。酒を出すから出来るだけ沢山水も飲もうね」
「むうぅ」
確かに妙に気が昂るというか、口が止まらなくなる気はしたが、決して適当に言っているわけではない。
「狡い」
聞きたいのは理由や言い訳じゃない。誰かのためとかではない、彼自身の言葉だ。
カーヒルはそれきり追求しなかったが、ルルーは聞きたかった。
(バロットさんには何を求めたの? 私に求められない何を、求めえたの?)
必要だとアシュは言うけど、必要となんてされていない。
これじゃない。
誤魔化さないで。
欲しいのはもっと違う言葉なのに。
――――それさえ分かれば、もう何も聞かずにこの人を信じられるのに。
「それだけ分かってれば十分。仰る通り、男は狡い生き物なんだよ。一足早いけどダヴィドの所で休ませるか」
「平気」
「じゃないだろう」
「平気だもん」
ぱっと腕から逃れるように立ち上がった途端、ぐらりと視界が傾いだ。
「あ、れ? 」
体にまったく力が入らない。
小さな体をまるで図っていたかのよアシュは難なく抱き止める。
がっしりと支える腕は温かく確かなのに、ふわふわと雲を掴むようで覚束ない。
強烈な睡魔に落ちてくるまぶたの向こうで、最後に見たアシュはばつが悪そうに眉を下げていた。
小唄都々逸なんでも出来るのに、約束だけは出来ぬ人
アシュ&カーヒル師弟は典型的なこのタイプ。
次回はオカマで聖女で乙女の味方、アシュの友人としては数少ない良識派ダヴィドさんの登場。




