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臆病な距離


砂漠の街アムーラ・アジャンダへ。

イメージはオアシスというより風の谷ですかね。


フェミニストのあの人も久しぶりの登場です。




アムーラ・アジャンダは遠い昔、川であったという岩の谷間に広がる街だ。そしてその岩の谷は、砂漠のほぼ中央に位置する。




「あづー………」

ふらふらと歩いてきたその人影は厚いフェルト地の天幕の下に潜るなり、崩れるように倒れ込んだ。

「まったく。砂漠越えを馬鹿にするからだよ。日が暮れてからでないと自殺行為だって、身をもって理解できる素敵な機会を提供してやった俺に感謝して欲しいね」

強い直射日光の一方で、大気は雨の気配を忘れたように乾燥している。海ひとつ隔てるだけでかくも気候が異なるのは、パンゲアの特色のひとつだ。

柱となる棒に大判のフェルト布を引っ掛けただけの、天幕というには簡易すぎる天幕。真昼の日差しを遮ってさえしまえば案外日陰は快適だ。

内側から見ると煉瓦の路面は白く光り、地平の山脈や碧空が黒く見えるほどの対比を織り成している。

昨夜夕刻、一行を降ろしていった船乗りたちは心得たもので、日が上る頃にはすでに出航していた。

港より延々と道なりに辻石を辿ること一時(約二時間)。のんびり昼寝を嗜むアシュたちのすぐ傍らに続く街道には蟲はおろか人っ子一人見当たらなかった。



「旅は自分のペースでゆったりいくに限るよ。無理な行程はどっかで皺寄せが来る。君はよく覚えておくんだよ、ルルー」

「うん」

「チビは、ずっと馬に、乗ってただけ、だろ………」

「あのねぇ、ルルーは二月前まではろくに身体も動かせない生活だったんだよ? 砂漠越えは体力のない者に合わせて進むのが鉄則」

水の入った皮袋と塩粒を渡すと天幕の陰でのんびりルルー共々寛いでいたアシュは、荒い呼吸で胸を上下させるカイルに呆れたように首を竦めた。

リデルとあちこち旅はしてきたものの、基本的に砂漠という特殊な環境下での経験はなかったらしい。涼しい顔の同行人に青年は苦々しげに顔を歪めた。

「くそっ………なんだよ、やっぱり怒ってたんじゃねぇか」

「当たり前だろう。ルルーが軟弱過ぎて足手まとい? 一体何様のつもりだい。追われる身といえ、ちょっと急いだくらいではそう変わらないよ」


フクロウの披露。

先日の一件は、かのアークに大々的に喧嘩を売ったに等しい。

普通、「あ、これはヤバイ」と思ったらとっとと逃げて距離を置くのが一般人の上策だ。だが、すでにその当事者とばっちり契約関係にあるカイルたちは色々とそうもいかない。

六海最高の機動力を誇る飛空蟲部隊が動けば、パンゲア内にいる限り密告一つで瞬く間に押さえることが可能なのだ。となれば時間の限り遠くまで逃げたいと思うのが人情で。

焦るカイルの目にはルルーの体力に合わせた行程がもどかしくて仕方なかったのだろう。

だが年端もいかない女の子を涙目にして、幼馴染みの怒りを買い、保護者の逆鱗刺激してしまう程度には、口が過ぎた。

「じゃあ、試しに君だけ辻石五百個分、歩いてこれたらもう少しペースを上げて進もうか」

辻石の間隔は大体一間(約一・八メートル)弱。行って戻ってきても一刻(約三十分)と掛からないだろう。

安直にそう判断したカイルは意気揚々と昇り始めた太陽の―――多くの旅人たちが「太陽の女神ラーナの憤怒」と称した直射日光の下を歩き出した。

それが悪魔の企みであったとも知らずに。


アシュはぐったりと転がるカイルを冷ややかに見下ろした。

「良い様だね。俺なら今の君にざまぁと嘲笑って足蹴にするものを」

「してるだろうが! さっきから爪先で人の頭つついてるだろうが! 」

「先走り過ぎの君には良い薬だ。もしルルーが熱中症で倒れるようなことになってたら今頃スナトカゲの餌だよ」

「だからって人を熱中症寸前まで歩かせてくるこたねぇだろ!! 」

「うるさいわよ、バッカイル! 寝られないじゃない」

がーッ! と唸りながら体力温存のため昼寝をしていたテナは飛び起きざまに振りかぶった濡れタオルを見事、幼馴染みの顔面に叩きつけた。再び引っくり返る青年に、アシュとテナは思わず拍手を贈る。

「ったく、ウチの阿呆がうるさくてゴメンね。ルルーちゃんも良ければこっちで一緒に寝ない? 」

ぽんぽんと隣を空けて敷布を叩くテナに、ルルーはちらりとアシュを仰ぎ見た。

青年は苦笑すると行っておいでというように頷いた。

「辻蟲が来たら起こしてあげるから、三人とももう少し寝てると良いよ」

荷台を引いた辻蟲はこの発着所からも日に数本しか出ない。確かに誰かが起きていないと乗り損なってしまうだろう。

だがルルーは目を閉じる前にふと思い付いたように、足を投げ出す青年の背に向けて身を捩った。

「アシュは、寝ないの? 」

「俺? 」

「ん。アシュも寝た方がいいでしょ? 少し寝たら、私も交代で起きるから………」

「ああ、いいよいいよ」

青年はひらひらと手を振った。

「砂漠の旅し方なら慣れてるし、元々眠りの短い(タチ)なんだ。それに、いざとなったら体力だけ(・・)はありそうなカイル君を蹴り起こすから、そこら辺は心配しないで。気持ちだけ貰っとくよ」

アシュは柔らかく微笑み、そっと少女のまぶたに手を覆せた。そのままあやすような穏やかなリズムで布をかけ直す。

その横顔にふん、とカイルは面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「だけって何だ、だけって。悪意を感じるぞ。しかもすでに蹴り起こすこと決定してるだろ」

「穿ちすぎだよ。普通に考えて女より男の方が体力はある。おまけにバカでも君は無駄にしぶとい。一眠りすれば体力も回復するだろう? 」

「………折角だからあんたは人を思いやる気持ちを貰った方がいいな 」

「何言ってるんだい。すでに満ち満ちてるじゃないか。もうこれ以上は許容オーバーだね」

アシュは両手を広げて肩を竦める。

陽射しを避ける大きなフードを脱いだ青年の涼しげな白い横顔をカイルはじっと睨んだ。

「何だい? 」

「……いや、」


――――無償で誰かを守ってやるほど善人でも暇人でもないし。

大切にしているのはフクロウだろうか、それともこの痩せっぽっちの少女なのだろうか。だが実際、この男は少女にどうこうしようという気はないらしい。

違和感。

後見人というには囲い過ぎ、肉親より近く、恋人には儚い距離。

(思い遣り、とも違うしな……)

改めて考えてみればなんとも中途半端で危うげな関係だ。

確かな約束も確信もなく依存しきったルルーもだが、この青年も。これではまるで、縋りながらも逃げ出すことを待っているような。

アーク本土を向こうに回し、国家転覆を目論む凶悪犯。

“アシュ”という判断のための肝心のピースは依然闇の中だ。

(読めねえんだよな)

砂漠に降り注ぐ太陽のあまりに真っ直ぐな眩さに、カイルはそっと目を逸らした。




◇◇◇◇






死者を追い、竪琴を手に詩人は一人荒野をさ迷う

空には月、銀の砂漠にオルテは歌う

我が妻いずこ

我が妻いずこ

我が愛しの妻はいずこ


砂は歌う

死者が戻るわけもない

それでもなお探すというなら、白の花をお尋ねなさい


花は笑う

死者が戻るわけもない

それでもなお探すというなら、白の精霊をお尋ねなさい


白の精霊は歌う

死者が戻るわけもない

それでもなお探すというなら、我らが母をお尋ねなさい

谷の北からそのまた北へ、青く輝く井戸の底

花の匂いのする都エローラ・サン・メルテ”、 常夜の国の水晶宮へ

それは麗しき、魂の記憶が還る場所………









明けの空が白み始める刻限。

切り立つ渓谷は黒々とそびえ、その間を大小いくつもの風車が速度もまちまちに気儘な精霊のように不規則に回転する。特に大きなものなど、その横幅はちょっとした貨物船程もあった。

青く影を引く荷台から、石畳へぴょこんと小さな影が飛び降りる。

影は両足を揃え、ぴしりと両手を挙げた。


「着いたー! 」

「あ、こら。危ないだろう」

しかめ面で追いかけてきた青年が、少女の頭を軽く小突く。

けれど少女はまろい頬を綻ばせ、ますます嬉しそうに青年の周りを飛び回った。

「だってだって、ずっと座りっぱなしなんだもん。お尻が痛くって」

一晩中浅い眠りに就くとも就かないまままま辻蟲の荷台で揺すられてきたルルーは昼寝をしておいたとはいえ、初めての徹夜である。妙に(たかぶ)る気を抑えきれないのだろう。

ぐるぐると仔犬のように纏わりつくその姿に、アシュは苦笑した。

「まったく。それじゃあ、朝食は身体ほぐしも兼ねて、少し朝市を冷やかしながら食べようか」

「朝市? 」

「そ、朝市。朝市はね、女衆がその日一日の食材を買い込むから、食べ物がメインなんだ。逆に夕市は衣類や家具、絨毯に、各国から集まった珍しい香木なんかも行き交う」

「何でそんな時間に? 」

荷台のノイを引く青年の袖をちょいちょいとつまみ、ルルーは訊ねた。

「まだこんな明け方なのに」

「いやいやむしろ明け方だから、さ」

アシュはちっちっと芝居がかった仕草で指を立てた。

「アムーラ・アジャンダはじめ、砂漠の街は朝と夕方が活動時間。昼間は暑すぎで誰も出掛けたりしないし、そもそも商品が持たない。みんな涼しい屋内でゲームか昼寝さ」

カイルが荷台に座ったまま呆れたように頬杖を突いた。

「はぁ、そりゃあの暑さじゃ仕事にもなんねぇだろうが、なんつーか………自堕落な街だな」

「あー、牧場育ちの君たちからすればねぇ」

切り立つ山間の村では平野に比べ日が短い。牛の搾乳や羊追いをはじめ、日のあるうちにしなければならない仕事は山ほどあるのだ。太陽を忌む、という生活スタイル自体が奇妙に感じられるのだろう。だがこればかりは砂漠の習俗として受け入れてもらうしかない。

もっとも、約一名は昨日真昼の太陽の凄まじさを身をもって強制体験済みだが。


「ここは砂漠の街の乗り継ぎ地点でもあるから、ちょくちょく屋台も出ててね。粉を薄く焼いた生地に肉や野菜を挟んだり、熱くて辛い豆のスープに、ああ、香辛料をたっぷり使った臓肉のパイもオススメだよ」

「え………辛いの? 」

途端不安そうに眉を垂れた少女に、アシュは吹き出した。

「そんな心配しなくても大丈夫だよ。確かに料理は刺激的な味付けが多いけど、その分付け合わせの飲み物とかがとっても甘いんだ」

「んー………」

「まだ何か不安? 」

「アシュ、よくこういうとき嘘つくし意地悪するから。物凄く辛いのを美味しいよーってくれそうな気がする」

「ははは、……信頼ないなぁ俺。六割方はそんなことしないよ」

「でも四割はする気満々、でしょ? 」

「算術も大分早くなったねー」

「………アシュ、」

誤魔化されないぞとばかりに、じと目を向ける。青年は困ったように両手を上げて降参の意を示した。


「大丈夫よ、ルルーちゃん」

ひょっこり荷台から首を伸ばしてきたテナが、くいっと親指で隣席を煽る。

「ここは女の手練手管の見せどころよ。上手いことおだてて激辛料理はみんな男の人に回しちゃいなさい」

「え゛」


男性陣は無邪気に笑う少女を思わず二度見した。

そんな視線に答えるようにテナはぱちんと片目を閉じた。

「最終奥義は『私の料理は食べたくないっていうの? 』よ。それじゃ、ルルーちゃんも一緒に、さんハイ」

「私の料理は食べたくないっていうのー? 」

「ちょ、ちょっとテナちゃん! 何教えちゃってるの!? 」


泡食ってルルーの耳を塞いで詰め寄るアシュに、少女は首を傾げた。

「何って………お母さんの必殺呪文? 」

「殺!? 」

「ああ、先生を落とし(・・・)たっていうあの決め台詞か………」

頭を抱えたカイルをルルーは不思議そうに眺め、それからふいと傍らに立つ“目標”へ顔を上げた。

頬を引き攣らせた青年の肩がぎくりと跳ねる。

「アシュ、私のは食べたくない? 」

「う………あーいやいや、食べるよ。もちろん食べますとも。うん、とっても男冥利に尽きるのにこの決断を迫られてる感は何だろうね……」

「言うな。先生曰く、男はそういう不憫な生き物だと割り切れば楽になるらしいぞ」

「なるほど、悟りの境地か」


そんなこんなと言い合いながらも青年はノイを降ろし、するすると鞍を乗せ荷を括り直してゆく。その手際よさは彼がいかに長い旅をしてきたのかが窺える。

そんな旅人はやはり慣れた様子でさらさらと手帳に何事か書き付けて、それを降りてきたカイルとテナには渡した。

「あ? なんだこりゃ…………“調香師 ダヴィド”? 」

「古い知り合いだよ。この街にいる間しばらく世話になるから」

「ん、分かった。じゃあはぐれたらここで落ち合えば良いんだな? 」

「そうゆうこと」

アシュは頷くと、作業を続けたまま“唇”を開いた。


「ダヴィドは闇船に“蔓”があるから、フェムトと連絡が取れるはずだ。まあ、多分心配するような事態まで発展しないと思うけど」

「何かあれば、俺はテナを優先するからな」

「ご自由に。でも、精々首に付いた紐が俺と繋がってるってこと、忘れないようにね」

「……チッ」

「ま、荒事なんて苦手だし俺もいざとなったらルルー抱えてとっとと逃げるよ。ただあの子、思いの外行動力あるみたいだし、最悪の場合に保険だけは掛けとこうと思ってね」


言うだけ言うと彼はひらりと奇術師のように手を振った。

刹那目を奪われ、次の瞬間には、もうあの仮面のような笑顔が隙もなく張り付いている。

カイルはちらりと目線を上げてから小さく頷いた。




◇◇◇◇





「ほらアシュ、早く早く! 」

夜明けの青い闇の中で、先に通りに出た少女たちが振り返って手招く。

雑踏に紛れても鼻腔を掠める甘い種子の薫りに、小さな鼻がひくひくと動いているのを見て、アシュは思わず苦笑した。

「そんなに慌てて走るとつまずくよ」

「だって朝市でしょ。のんびりしてたらお昼になっちゃうよ」

露店商の色とりどりの果物の詰まった麻袋の隙間を縫うようにして歩く。

ひらりひらりとローブの隙間から見え隠れするスカートが、黄土色の石畳を背景にひどく鮮やかだ。


「……砂は歌う 死者が戻るわけもない、それでもなお探すというなら、白の花をお尋ねなさい……」

ふいに風に乗って流れてきた妙に聞き覚えのある歌声に、ルルーは足を止めた。

典雅に掻き鳴らされるリュートの音。

重ねた年月だけ深みを増した甘い声。


「――――おやぁ? 誰かと思えばルルーちゃんじゃあ、ありませんか」

それはレミィとアシュ姉弟の師にして風来坊の吟遊詩人、カーヒルであった。


「カーヒルさん。お久し振り、です」

「ふふ。また会えて嬉しいですよ、ルルー。少し見ない間に少し背も伸びたんようですね。元気にしてましたか? 」

「はい! 」

アシュとはまた違う柔らかさで頭を撫でられ、少しくすぐったそうに身を竦める少女にカーヒルも安心したように目を細めた。

そんなほのぼのとした雰囲気と対照的に、

「げ、お師匠様!? 何でまたこんなところに………」

後から追い付いたアシュは師に気づくと嫌そうに口許をひくつかせた。

「やぁ、可愛らしい娘さんが二人もいるから声を掛けてみたら、どうやら可愛いげのない弟子もちゃんと付いてきているみたいですね」

「おい、このおっさん誰だ? あんたの知り合いか? 」

「いや、まったくの他人だね―――と言いたいところだけど、紹介するよ。こちらは俺のお師匠様で育ての親、吟遊詩人のカーヒル。女漁りが趣味の真似しちゃいけない大人だ。お師匠様、こちらがカイル君とテナ嬢。色々な事情で、今一緒に旅をしています」

「相変わらず私のは毒のある紹介ですね。まぁいいでしょう。テナ嬢にカイル君ですね。カーヒルといいます。弟子が大層世話になったようで」

「あ、いえ、こちらこそ! 」

にっこりと上品に微笑むカーヒルに微かに頬を染めながら、テナは差し出された手を握った。

「うん、やはり握るなら柔らかい女性の手に限りますね」

するりと甲を撫で上げつつも、何故かいやらしい感じをさせないのは流石というべきか。

「……なんか俺今、こいつのルーツが分かった気がする」

「と言いつつこっちを見ないでくれるかな。失礼だよ、俺に」

「ほんと、可愛いげのない野郎共の手じゃこうはいきませんからねぇ」


あはは、うふふ、と三つ巴の体をなし始めた男性陣に対して、ルルーとテナはすでにきゃっきゃと蟲歌談義に移っていた。

「あー、だからルルーちゃん船でも歌えてたんだ」

「ん。カーヒルさんに教えて貰ったの。凄いんだよ、アシュの小さい頃から知ってて、色んな所に行ったことがあるんだよ」

「へー。やっぱり国中回る吟遊詩人(ほんしょく)は歌のレパートリーも多いのかしら? 」

「そうそう。……“花の匂いのする都エローラ・サン・メルテ”、 常夜の国の水晶宮へ、それは麗しき、魂の記憶が還る場所………このアムーラ・アジャンダにもいく度も訪れてるんですよ」「あ、テメ」

朗々と歌いながら再びテナの手を取る詩人に、すかさず番犬の裏拳が決まる。

だが、ルルーはその歌詞に―――“花の匂いのする都エローラ・サン・メルテ”の一節に―――あっ、と声を上げた。

アシュも気づいたようでくぐもった呻きと共に身体をくの字に折り曲げた師に訝しげな目を向ける。

「カーヒルさん、もしかしてその歌って『オルテ』? 」

「おや、ご存知でしたか。そうですよ。激しくも儚く、砂漠の街にはやはりこの歌が一番しっくりきますね。それに麗しき詩人の一途な悲恋だから、女性受けも良いんです」

……なんだか最近どこかで聞いたような台詞だが、取り敢えずそこはスルーしておく。

「『オルテ』も蟲操(むしぐ)りの歌なの? 」

「ん? いいえ、特にそういう話は聞いたことはありませんね。まぁ古い歌ではありますが」

顎に手を掛けるとカーヒルは記憶を手繰るように視線をさ迷わせた。

「確か昔、私もまだ若かった頃ですかね………酒場で歌ってたらこの街の古老の一人に大層気に入られましてね、その方に教わったんです。でも街人だろうと旅人だろうとわりと誰彼構わず教えていたみたいですし、まぁ十中八九蟲操りではないでしょうね」



蟲操りの歌はそれ自体で一つの情報に等しい。

広場まで来ると人の数も市の賑やかさも一際増した。

テナは見慣れない食材や香辛料にも興味があるのか、カイルを伴い先程から店主の老婆と何やらやり取りをしている。

次第に明るくなってきた空を眺めながら、ルルーは噴水に腰掛けた。カーヒルも隣に来るとぴん、ぴん、と確めるように弾きながら弦の調節を始めた。

世間一般に広められている歌は多々あるが、それでも利権が絡むため誰彼構わずほいほいと広めていいものでもない。

親子間や、一族、師から弟子へ。基本的には身内や郎党の間のみで伝えられる、公然の秘密なのである。ルルーの場合もアシュという、いわば仲買役がいたからこそ教わることができたのだ。

『オルテ』も蟲操りの歌ならばこうは易く伝えられなかったはずだ。


「まぁ歌は必ずしも蟲を操るためだけではありません。古い歌ならば時に忘れられた歴史の断篇を秘めていることもあります。……あの子はたまに馬鹿っぽいですが、基本的には頭の良い子です。どうせこの街にも何か掴める確信があって来たのでしょう」

――――“花の匂いのするエローラ・サン・メルテ

コダエのように意図的に隠された歴史を、“空白の真実”を埋める何かを秘めている。少なくともアシュはそう期待している。

だからこそ、フクロウの存在を世間に全面的に公表しながらルルーを伴ってこの街を訪れた……。


「それにしても、アシュの奴、随分と変わりましたね」

「え? 」

突然耳元で囁かれ、ルルーの思考はあっという間に四散した。

カーヒルはルルーの肩越しにためつ眇めつ、すでに気儘な師の言動に諦めたように屋台で朝食を調達し始めた弟子を見つめている。

「いえね」

耳を押さえながら怪訝な顔をするルルーに彼は眉を垂らした。

「なんだか、随分と俗っぽくなったというか………人間臭くなりました。一時は本当に善悪も感情も捨てた人形のような子でしたから、余計に」

「アシュが? 」

信じられない、とルルーは眉間にシワを寄せた。

カーヒルも大概気儘だが、アシュも相当だと思う。ルルーからすればアシュは「自由」の代名詞のような人間だ。飄々と何でも器用にこなせるだけに、縛られるものもなく、ひらひらと閃く蝶のような感情のままに生きているように見える。

だがそれを言うとカーヒルは困ったように笑った。

「あの子はそこまで強くはありませんよ。器用貧乏を地で行くタイプなんで、むしろルルーが思っているよりずっと弱いかもしれない。―――いや、ルルーの前では、強くいたかったのかな? 」

「え? 」

ぼそりと呟かれた言葉を聞き逃した少女が首を傾げるが、詩人はただ柔らかく微笑んだ。

「ふふ、何でもありませんよ。……アシュもいい顔するようになったと思って。きっとルルーのお陰ですね」

「私は何もしてないよ? 」

「いいえ。そこにいるだけで、もうアシュには大き過ぎるくらい大きな存在ですよ。フクロウとしてだけ、なんて考えないでやってください。あれで結構臆病な男なんですから」

「―――へぇ……どこの、誰が、臆病なんですか? 」


いつの間にやって来たのか、人数分のコップと紙包みを器用に持ったアシュが半眼でカーヒルを睨んでいた。

「ほら、ルルーもこんな年寄りの与太話なんか馬鹿正直に付き合う必要ないんだよ」

ぐいっと鼻先に突きつけられた包みにルルーは目を白黒させた。

香ばしい肉汁からふわりと薫るのは、ナツメグだろうか。包みを開くと案の定、野菜と甘辛いソースを絡めた肉を挟んだパンが現れた。無発酵のパンはずっしりと見た目よりもずっと重く、焼きたてなのか朝日の中にまだゆるく湯気をたなびかせていた。

「まったく、勝手なこと吹き込まないでくださいと以前も言いましたよね、お師匠様? 」

「なに、所詮年寄りの与太話ですよ」

「それを根に持つか……」

「いやぁ、私もあと十歳若ければ参戦したのだけど」」

「犯罪者か冷や水かになる前にとっとと辞退してください」

苦い顔で文句をつける弟子にカーヒルは口笛を吹きつつ、ホットワインの入ったコップを受け取った。


「ま、ルルーの歳や胸についてはこの際置くにしても、ぐちゃぐちゃと悩んで考えて。なかなか人間らしい顔になったじゃありませんか。臆病は決して悪いことばかりではありませんよ」

「酔ってるんですか? 」

「この程度で酔う訳がないでしょう。いつもより口がちょっと滑らかになるだけです。私を潰すには六海の酒蔵を空にしなきゃなりませんよ」

「相変わらずのウワバミか……」

ニコニコとお代わりを煽る師に、アシュは自分の分のホットワインを差し出した。

「臆病なんて誰でも嫌に決まってますよ。迷いが出る、決断を鈍らせる。どちらも致命傷になりかねない」

「嫌であることは構いません。問題はそれを全部封じ込めて、殺してしまうことです」



ふとカーヒルはまるで痛々しものを見るかのように、ただ真っ直ぐな瞳の青年を見つめた。

「……君は、時折理屈を優先させるあまり自分の命さえ客観視し過ぎる。しかもなまじ完璧に怯懦を封じてしまえる精神力があるだけに、タチが悪い。オルテにしかり、人はどうしようもないから、取り戻せないから泣くんですよ。封じてどうします。むしろ君は失うことに臆病なくらいで丁度良い。また失うかもしれないからと、今持っているものを皆手放すのは違いますよ」


青年は何も答えなかった。

互いに距離を測り合うように、しばし無言で睨み合う。

ルルーは確信した。口ではなんと言おうとも、やはりこの二人は師弟なのだ。

年月に裏打ちされた踏み込み難い、けれどそっと隣に座ってあげたくなるような疎外感。

浮世離れしたアシュをなんだかんだこの世界に繋ぎとめようとしてくれる。

「……アシュ」

不貞腐れたような、やるせないようなその横顔が何となく突き放された子どものように見えて、ルルーは手を伸ばして少しだけアシュの頭を撫でた。

あ、結構柔らかい、などと思ったのも束の間、黒い瞳と視線がぶつかる。

ふっ、と気の抜けた溜め息を吐くようにアシュは微笑んだ。

「ついてる」

「え? 」

「じっとして」

慌てて拭おうとしたが、やんわりと押し止められた。長い指が少女の口許のソースを拭っていく。

指についたソースをぺろりと舐め取ると、アシュはとうとう観念したように師に向き直った。


「――――やっぱり、お師匠様は俺たちの出自も目的も全部(・・)気づいていたんですね」











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