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花の舞台

長らくお暇しておりましたが久方ぶりの投稿です。

ルルー視点とカイル視点。





「さあ、よろしいですよ」


緩やかに梳かれた白銀の髪は、闇を垂らしたような黒のレースで縁取られた髪飾りで浅く纏め上げられほっそりとした背へ流れる。

仕上げのピンを留めたメイドがにっこりと微笑みながら、俯いたままの少女の顎をそっと支えるようにして姿見へと促した。

顔を上げると、鏡の向こうに立ち尽くす美しく着飾った少女と目が合った。


(――――あなたは………誰? )


思わず延ばされた琺瑯(ほうろう)のようなたおやかな指が、互いに冷たいガラス越しに触れ合う。

ベッドから有無を言わさず引きずり出されて来たときには一晩たっぷり泣き疲れたお陰でひどい有り様だったというのに、そんな事情を微塵も感じさせない。いや、それどころかむしろ美しい(かんばせ)に掛かる僅かな陰りが、かえって幼けない少女の顔立ちをひどく艶めいたものにしていた。

裾へ向かうにつれ深みを増す濃青は、窓の向こうの夜へと移ろい始めた夕暮れ、幾重に重なったひだを縁取るのは侵食する闇を思わせる髪飾りと同じ黒のレース。そんな夕闇に縫い付けられた真珠は、瞬き始める星のように潤沢に散らされている。

夜会用のドレスにしては襟刳りは慎ましいものだったが、それでも露になった細い鎖骨や白銀の髪は色彩的対比に怖いほどに映えていた。


「何だか………わたしじゃないみたい」

ルルーは、胸に浮かんだしこりにぽつりと心情を溢した。

透けるような白磁の肌は、一晩泣き明かしても定まらない心のためかいつにも増して人形めいて、分かっていても何だか自分でない気がする。

心と身体が切り離されて、互いに見失ってしまったみたいだとルルーは思った。

「まあまあ、うふふ、大丈夫。ルルー様は会場に入った途端、必ず一番美しく輝きますよ。誰もが貴女に息を飲み、心を奪われる。ええ、私たちが保証しますとも」

誇らしげに頷くメイドたちは、宝石箱に取り分けられていた仕上げの白銀のペンダントを飾るため、手に取った。


「―――ねぇ、ルルー様」

優しげな手付きに身を縮めるルルーに、メイドのうち一人が独り言のように何気なく、けれど噛んで含めるように続けた。

「人は孤独な生き物です。同じ言葉を解しても分かり合えない、傷つけ合うことしか出来ない廻り合わせの相手も、ときにはいるでしょう。………それでも、私は越えられない淵を隔てて手を伸ばすことを愚かとは思いません。その結果泣き、笑おうとも、それは人の(さが)なのですから。一つに溶け合うことが出来なければこそ、抱き合うことに意味を持つのですから」

「…………………」

「さぁ、出来ましたよ。顔を上げて、笑って。私たちは主様の命を受けておりますの。ルルー様を世界一美しく仕立てあげるように、と」

―――仕立てあげる、か。

いい得て妙だとルルーは思った。

何もない痩せっぽっちの少女に名を与え、感情を与え。そして今、あの頃は想像もしなかったこんな遠くまで来てしまった。

多分、それがアシュの当初の目的で、ルルーの役割。

全部全部、初めから。




ふいに重厚なドアが開き、大気が外界のざわめきとともに流れ込んできた。

「ルルー、時間だ。仕度は整ったかい」

「ア、シュ…………」

あだっぽい黒を貴重とした上衣は銀糸に縁取られ、折り返しの袖はルルーのドレスと揃いの艶めいた青。濡れたような黒髪も今日は軽く後ろに結わえられ、口許に笑みを浮かべながらすらりと立つその姿は燭台の灯りの下ではひどく華があった。

ロキは契約があるから出自は明かせないと言っていたが恐らく、アシュは貴族の生まれだ。それもかなり上位の。 昨夜、ロキに連れ出されてからルルーはずっと考えていた。

与えられた情報。

知り得た情報。

何を意味し、何を示すのか。

彼の立ち姿は自然で、どこか近寄りがたい冷たい(たっと)さがある。

戸惑いに視線を床に逃し、ルルーは俯いた。アシュはきっと、笑っているだろう。何となく気配でそう感じられた。

コツコツと革靴の踵の音が迫ったかと思うと、次いでくっと顎を持ち上げられた。

「っ………! 」

「どうしたの? いつもの君らしくもない。ああ、もしかして正装の俺に惚れ直しちゃったのかな? 」

口の端では意地悪く笑いながらも、羽毛のように薄く頬に触れる指はひどく優しい。

きっと昨夜ルルーが屋敷を抜け出した事も、すでにみんな知っているのだろう。そして燃えるような赤髪のあの美しい人に触れたのと同じ指で、こんなにも優しく触れてくる。

――――悪党。

今になって、ようやく分かった。

アシュは、本物の悪党だ。

胸が締め付けられるくらい悲しくて、切なくて。

けれど振り払えないくらいその優しさが息苦しい。


「アシュ…………ねえ、アシュ」

「ん。何だい? 」

「私はね、アシュと旅をするだけで良かったの。アシュの与えてくれる沢山の景色や感情を受け入れるだけで…………もう十分幸せだと思ってた」

ぴくっと眉を寄せ、目を細めた青年の手のひらをルルーは両手で頬に擦り付けた。

自由なんて、分からなくても良かった。

利用されても良かった。

ただ、ただ――――こうして触れていられれば。並んで歩いていければ、それで十分だった。


「……………」

悼むように目を閉じていた青年は、それから伏し目がちに瞼を上げた。

名残惜しむように頬を一撫でして、膝を折るとそのままルルーの目の前に祈るように手を重ねる。

「ご覧」

その瞬間、ふわりと青年が手を開いた。

薄く乾いた花弁が、魔法のように広がる。

わぁ、と思わず身を乗り出すとアシュはルルーの手を取り、今にもぱらりと崩れてしまいそうな花弁を握らせた。

「紙の……花? 」

「そう。ケシの花」

こうして自分の手の内で改めて見てみると不格好なほど広く薄い花弁は、灯りにうっすらと絡み合う繊維を透かしている。香水を付けてあるのか、すっと鼻を抜ける爽やかな甘い香りがする。ただ、たっぷりと揉み込まれているらしい薄紙は、外見に反してこしのある強さと絹のような滑らかな肌触りがした。


「今夜のパーティーの………まぁ暗黙のルールみたいなものだね。ここにルルーの名が入ってるの、見えるかい? 」

示された、やはり紙で造られたがく近くには、純白の上に青いインクの小さな字が刺青のように刻まれていた。旅路の間も、文字を教えられて以来幾度となく地面に繰り返し書いた単語だった。

アシュは紙花をルルーの髪に差した。

「この花は会場に入るためのいわば許可証。今夜のパーティーでは賭場が設けられる。チップって、こういう色石の入ったコインを使うんだけど、この花は金以上の価値の物を賭けるとき使うんだ」

ポンと手を打つと、青年の拳から今度は金色のコインがじゃらじゃらと噴水のように溢れだした。

アシュはそのうちのいくつかのコインを選び出すと、手のひらに並べた。

「コインは五種類。中央にこの赤い石が嵌まっているのがニ千五百リル、黄色は五千、緑は一万、青は五万、黒は十万リルだ」

伸ばしかけた手を、ルルーはぎょっと引っ込めた。

パンゲア庶民階級の一般家庭の平均収入は大体ニ、三万リル程度。この手のひらの一山だけで一年は楽に生活できるだろう。

「ははっ、大丈夫。そんな心配そうな顔はしないで。どんな高額だろうとチップはチップだ。それさえ理解していれば、そう恐れるほどのものではないよ。人を狂わせるのは、もっと別のものだ」

「別の、もの………? 」

「君の名を記されたこの花ね、今夜のレートなら百億リルは下らないよ」


約定花、と言うんだ。

眩いばかりに輝きながら溢れる銀髪を一房掬うと、青年は戒めるように唇に押し当てた。

「通称一億リルチップ。こんな紙に名前を記しただけなんだけどね、もしこの花を奪われれば約定としてその名前ごと人生のすべて(・・・・・・)を受け渡さねばならない。入場パスであると共に一度テーブルに上がれば運命を左右する破滅の花とも呼ばれてる」

もちろん、招待客は嗜みとして身に付けるだけで滅多なことで花がテーブルに乗ることはない。だが実際、スエンニでは大勝負としてたった一枚のカードに破滅と栄光が賭けられることもあるのだという。

この街では名は紙よりも軽い。

「だからね、ルルー。その花は決してテーブルに乗せてはいけないよ。他の男に触れさせるのも駄目だ。会場に入ったら、君はただこの花を飾ったまま笑っておいで」

穏やかな、兄のような慈愛に満ちた微笑みを見上げたそのとき、ルルーの脳裏にふっと、血のように赤い、炎の幻影が過った。炎は大きくうねったかと思うと、瞬く間に美しい女の形を取る。

バロットだと気づいた瞬間、それは反射的に口をついていた。


「ねぇ、もし―――もし私がこの花をテーブルに乗せたら、」戸惑いに切れた言葉を、少女は唇を舌で湿らせ繋げた。「アシュも花を乗せてくれる? 」

青年が僅かに目を見開く。

「………俺の話はちゃんと聞いてた? 」

呆れたような、推し量るような問いかけにルルーはこっくりと頷く。

無言で眉間を抑えて俯いた青年の指は、いつの間にか髪を手放し頬から白い首筋へと流れていた。

「参ったな。あんまり………大人を試すもんじゃないよ」

アシュは顔から手を下ろすと糸月のように剣呑に目を眇めた。

「………あのね、ルルー。このパンゲアで君は今、一番利用価値の高い人間なんだよ。それなのに、君はそんなに踏み躙られたいの? その生にも死にも、君が見も知らないような輩がそれぞれ莫大なチップが賭けている」

変換点。

アシュという一人の男に捻曲げられ、変えられる瞬間。一介の穀物商がスエンニの執政官に成り上がるまでの、莫大な力が動く。

そのスエンニすらアシュにとって足掛かりならば。その先の絵図に組み込まれたフクロウの命運に賭けられる富みも力も、命も、もはや誰にも止められない本流となってルルーに関わるものを片端から呑み込んでいくだろう。

たぶん、一枚のカード、あるいは一枚のコインを廻る、運命のように。

「もしかしてこの街が―――スエンニそのものが、アシュの用意した“テーブル”なの? 」

「……………ああ、成る程、ロキの奴だね。まったく、とんだおしゃべりめ」

どこか皮肉げに口を吊り上げ、アシュは吐き捨てた。けれどそれは何故か、己れへの自嘲じみた哀しみが宿っている気がして目が離せなくなる。

青い火。

冷ややかなその色に対し、焼き尽くさずにはおれぬ激しさ。

アシュに人が惹かれる理由が今、少しだけ分かった。

優しくて虚ろで。破滅に向かうほど、彼は原石のような本質が剥き出しになっていく。


ふっとアシュは頬を緩めた。

と同時に張り詰めた空気がほどけ、より一層鮮明に潮騒のような周囲のざわめきが鼓膜に押し寄せてくる。

「分かった、いいよ――――もし君が俺の“テーブル”に花を賭けるなら、俺も花を賭して君を奪ってあげる」

ルルーが哀しくなるほど優しい声音で、悪党は囁いた。


「そうしたら、そのときは………君の生も死も、今度こそ俺のものだ」






アシュのエスコートに従い会場に足を踏み入れた途端、一斉に集中した剥き出しの視線にルルーは思わず足を竦めた。

「大丈夫。深く息を吸って、少しだけ顎を反らして」

緊張に固まる少女に、アシュは安心させるように小さく微笑んだ。

後ずさりそうになる足を叱咤し、どうにか肺に空気を送り込むと僅かだが気が楽になった。



「さぁお集まりの皆様、ようこそ当家へ。遅れてしまい大変申し訳ありません。ですがお陰で今宵、彼女を存分に磨きあげることが出来ました。彼女についてはかねてより皆様、ご存じのことと思いますので私の口からはもう何も言いますまい。このスエンニでは己が耳と眼だけを信ずるが倣い。どうぞ、その目でお確かめを」


好意と悪意。あるいは利用すべきか排すべきか。

様々な思惑を孕みベッタリと(やに)のように纏わり付く注視を、アシュは両手を広げて受け止めた。視線をものともせず何とも不敵で慇懃な口上を述べ上げると、最後は胸に手を当て芝居がかった一礼までして見せる。

そこには恐れも、気負いもない。

ふと目が合うと彼はぱちりと陽気に片目を瞑った。


「――――さぁ、おいで。ルルー」

彼はこちらに向かい、微笑みながら手を差し伸べて、待っている。

まるで、物語の中の王子様のように。



結局、彼はいつも最後の判断はルルーに委ねる。是非も聞かずに引っ張りあげても、それはいずれもルルーが望んだときだけ。

もしも花を、彼が奪ってくれたならこの胸のわだかまりも消えるのだろうか。


(試してみたい…………)

ただ一緒にいられればそれで良かったはずなのに、いつの間にか自分は随分と欲深い人間になってしまったらしい。

だがそこに抱くのは恐れというより、どこまでも見通せそうな高慢な高揚感だけだった。冴え渡る、天上の月のように。きっと今も左右に、目の前に、無限の空が広がっている。

孤独と隣り合わせの、自由。

彼は、奪えるだろうか。

大悪党で大泥棒の彼は、盗めるのだろうか。

ルルーはほっそりとした手を伸ばすと、初めて出逢ったあの嵐の夜と同じ温かな青年の手に乗せ、しっかりと握り締めた。


アシュはそんなルルーに一瞬だけ、くしゃりと顔を歪めて切なげに笑った。………叩かれた子どものような、途方に暮れた弱々しい笑み。

けれどすぐその手を力強く握り返すと、恭しく赤い絨毯に彩られた壇上へと少女を導いた。


そこにはもう、泣き笑いのような少年の面影はなく。

シャンデリアのぎらぎらと真昼のように眩しすぎる明かりに、少女は僅かに目を細めた。






◇◇◇◇◇





「………ねぇ、カイル。あたし疲れてるのかな? 紳士淑女の皆様方カードゲームに興じているように見えるんだけど」

「そりゃパーティーだからな」

もきもきと皿に取り分けてきた料理を貪りながら、カイルは幼馴染みの問いに鷹揚に頷いた。


「それにしてもこのプチプチしたの、めちゃくちゃ旨ェな。テナも食ってみろよ」

「………あ、ホント。魚卵か何かかな? 」

物珍しい山海の珍味に、料理人たちが腕を奮った至高の料理の数々に舌鼓を打っていると、すぐ向かいのテーブルに着いていた男がカードを投げ出して蒼白の顔で天井を仰いだ。


「………ねえ、カイル。今の人手持ちのコインを全部持ってかれて絶望に突き落とされていたように見えたんだけど」

「そりゃ賭博パーティーだからな。ここは特にレートが高いみたいだし、負け込みゃ首括るかもな」

さらりと事も無げに答えたカイルに

「やっぱり………」

とテナはがっくり肩を落とした。

「パーティーって、そりゃパーティーなんだろうけどコレ、明らかに賭博(こっち)がメインよね? 普通こういうのって禁じられてるはずでしょう? もっとこそこそ隠れてやるもんじゃないの? というかそもそもこんなの主催してるアシュさんって一体何者よ!? 」

「お、おい、まずは落ち着け! ソース飛ぶからっ」

どうどうと興奮気味のテナを宥めすかしてなんとか休憩用の席に着けると、青年も周到に辺りを見渡した。


このパーティー。

華やかではあるが、夜会の規模としては非常にこじんまりとしたものだ。

内輪だけの席、というのか。しかし果たしてあのふてぶてしいまでに自信に溢れたあの男の開くにしては、 あまりに地味に抑えられ過ぎてはいまいか。招待客もぎょっと二度見するような大物がいるにはいるのだが、大半はかなり適当に集めたような、各面で妙に雑然とした粗があるのだ。

(ったく、一体何をおっ始める気だ…………? )

白いクロスの掛かったテーブルには立食形式に所狭しと料理が並べられ、使用人たちが忙しなく空になった皿を入れ替えてゆく。

取り敢えず鼻息荒いテナから危険物になりそうな皿を取り上げると、カイルはそれをテーブルに置き、通りがかりの給仕からジュースの入ったグラスを受け取った。

口をつけると薄緑の液体は爽やかな酸味と共にするりと喉を滑り落ちてゆく。滑り落ちてから、緊張に口の中がひどく渇いていたことに気づいた。


「う〜、何か凄い場違いな気がする。ルールとか全然分からないし、そもそも金額が怖くって貰ったコインも使えないよ」

警戒を弛めないカイルと対照的にテナは小さく唇を尖らせ、ひらひらと手汗を乾かすように振った。

テナとカイルは会場に向かう際、事前にフェムトからそれなりの額のチップを受け取っている。テナの分の手付かずのチップは纏めて美しい飾り籠に入れられ、テーブルに載せられていた。

とりどりの石の埋め込まれた金のコインもこれだけあると、どうにも子どもの玩具(オモチャ)のように見えてきてしまう。

「あいつもくれるってんだし、後から返せなんて言わないだろ。今夜だけなんだから使い切っちまえばいいのに」

「だーかーらー! ルールすら知らないって言ってんでしょ。………というか、そもそも何であんたやり方分かるのよ。さてはやったことがあるんだ? 」

じとっ、とテーブルに突っ伏したまま半眼で睨み付けてくる幼馴染みに、カイルは肩を竦めた。

「まぁ、昔先生(リデルさん)から一通りな。男の嗜みだって」

「やっぱり! 父さんってばそういう変なことばっかあんたに仕込んでたもんね」

「変なことって何だよ。テナも試しにやってみりゃいいだろ? ルーレットやカードでないにしても金の車輪(ゴルド・ウィール)ならチップを置くだけだぞ」

金の車輪(ゴルド・ウィール)とは簡易化されたルーレットのようなものだ。

1、2、5、10、20、40の六種類の数字のうち予想した数字がディーラーの回す車輪に刻まれた数字と一致すれば、選んだ数字と同倍率の配当となりそれ以外ならばディーラー側の受け取り、いわゆる寺銭となる。

ルール自体はそう難しいものではない。

だがテナは細い顎をついっと逸らした。

「あんたの毛の生えた心臓と一緒にしないで」

「暴れ牛にロープ一本で立ち向かう女が何を偉そうに………って、あいだだだだだだ!! 」

「あーらカイル、何か言ったかしら? 」

ぎり、と踵に体重を乗せてくるテナにカイルは慌てて引っ張り出した足を庇い、ブンブンと勢いよく首を振る。そういえば今夜はいつもの革靴ではなく下手したら足を貫通させられそうな夜会用の細いヒールを履いていたのだった。

「くそッ。誰だよこんなのこいつに整えたの………存在凶器じゃねえか」

「なんですって?」

額に青筋を浮かべて再度足をもたげた娘に、カイルはそそくさと距離を取る。チッとテナは忌々しげに淑女にあるまじき舌打ちをした。

「まったく、何がそんなに気に入らないんだ? 」

「あんたのへらず口」

「馬鹿、そんなこと訊いてねぇよ」

「ふん」

肌に映える明るめの紅の引かれた唇をグラスに寄せ、テナはグラスを傾けた。

「―――何て言うかね、湯水のようにお金が流れてくって感覚が、あたしにはイマイチ納得出来ないのよ。ここにいる人も物も、みんな作り物みたいな…………目が覚めたら忘れてしまう夢みたいに実体が掴めない、そんな感じがして」

「まあ、あながち外れちゃいないんだろうな」


薬師のアシュ。

確か、初めて会ったとき奴はそう名乗っていた。

薬毒に深い造詣を有し各地を渡り歩く“薬師”は裏社会では“情報”の隠語でもある。

情報は秘匿と公開により初めて内蔵されたその莫大なエネルギーを発揮する。

この社交場(パーティ)は恐らく、彼の用意した発表のための舞台に過ぎないのだろう。実体など、抜け目無い彼が残そうはずもない。

「舞台、か………ひょっとしてまだルルーちゃんが来ていないのも、それと関係するのかしら」

「分からない。あのチビにはやたら過保護だったし、単に連れて来ないだけなのかもしれないが………」

不穏な予感に眉を寄せる幼馴染に、カイルは口を噤んだ。

この会場を包む奇妙な緊張と猥雑とした華やかさが、どうしてもそれを否定するのだ。



その時。広間の入口付近から波紋のようにざわめきと、次いで粘つくような不気味な静けさが湧いた。

「さぁお集まりの皆様、ようこそ当家へ」

もてなし手らしい優美な装いで現れたアシュがにこやかに微笑みながら遅れを詫び、周囲を一瞥する。

あいも変わらず気障たらしい口調。だがその背後から彼に手を引かれて現れた少女に、すぐさまその口上も脳裏から吹き飛んだ。

「彼女についてはかねてより皆様、ご存じのことと思いますので私の口からはもう何も言いますまい。このスエンニでは己が耳と眼だけを信ずるが倣い。どうぞ、その目でお確かめを」


「うそ、でしょ………だってあれってお伽話の………」

驚愕に震える声に、テナは慌てて手で口を覆った。

カイルとてとっさに嚥下しなければ口から溢れたのは同じような言葉だっただろう。

こんなことがあるだろうか。

本当に、自分は夢でも見ているのではないだろうか。



作り物の舞台に降り立ったのは、夜空を切り抜いてきたような濃青のドレスに折れてしまいそうなほど儚げな身を包み、眩いばかりの白銀の髪の人外じみた美貌の少女。

カイの爪弾く楽の音に誘われ月光を纏い降り立った女神リース。パンゲアの民ならば誰もが知る古い古いお伽話だ。

それが今、時を越え、鮮やかに人々の前に蘇える。

―――何故アシュが彼女をあんなにも気にかけていたのか

―――何故こんな夏の盛りに拘らず、いつも目深くフードを被っていたのか。

パチパチと放り出されたままにされていたピースが次々と当て嵌っていく。


「ルルーちゃん………」

ゴクリと誰かが唾を飲んだ。

青年の腕に手を委ねた少女は一瞬だけ、微かに笑ったような気がした。







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