蛇と鳥籠
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師カーヒルから初めてその杯を見せられたとき、夏の森を彩る瑞々しい苔の緑だとアシュは思った。
実際、西の島々では“蛇酒”と呼ばれるらしい。つんと鼻を刺す強い酒精と、ニガヨモギのぴりりと舌を走る一抹の香味。ニガヨモギには元々弱いが毒性がある。その上、リキュールの一種なのだがこの冗談みたいな度数はなるほど、自他共に認めるうわばみの師が煽っていただけのことはある。
無言のまま杯を置いた青年に、女はつまらなそうに腕を絡めながら艶かしい白い指で杯の縁をかるく突いて揺らした。
「呑まないの? 」
「こんな毒みたいな酒、呑まないよ。味すら分かりそうにないし」
「そう、残念だわ」
バロットはそう言うと杯を光に透かし、長い睫毛に覆われた目をきゅっと細めた。
秘めた毒とは正反対の、木漏れ日のような美しい緑。そんな緑と対の色をなす鮮やかな赤毛の女は悠々と杯を煽った。
「…………君がそんなに左利きだとは知らなかったよ」
「そう? でも私だってこんなものを呑むようになったのは、夫が亡くなってからだわ。毒すら飲み干す、蛇にならなければと思っていたのかしら」
パンゲア有数の商工会会長、“炎華”バロット=リンハルトが女帝として執政官に上り詰めるまで。それはいかに夫の商工会を引き継いだだけとはいえ、地を這う蛇よりも苛烈な歩みであったのだろう。
紅を塗られた蠱惑的な赤い唇に、緑の毒酒はこれ以上ないほどよく映えていた。
「――――悪の街」
茜色の斜陽が照りつけ、床に張り付いた窓枠の陰影をぼんやりとつ見つめながら、彼女は聞かせるともなく呟くように口を開いた。
「不思議ね。毒を煽れば煽るほど、この街に順化していく気がするの。当たり前みたいに闇と光が混在する、この景色の中に」
「………………」
押し黙る青年に構わず、彼女はくっと喉を鳴らして自嘲した。
「でも、シグはもう駄目ね。貴方の言う通り調べてみたけど、毒が回りすぎたわ。アークとの蔓も作っているようだし、私はこれだけど彼は麻薬の方だったから、まず戻っては来れない。潮時なのかしら」
悩ましげなため息を吹きかけるバロット。
アシュは窓の外を見た。
中心から順に、灰色の城壁が幾重にも街を作る。重ねられたひだは今、金色の夕陽に焼かれていた。じき、日も沈むだろう。
白粉と嬌態に彩られたスエンニの夜は、闇と光が当たり前に隣り合う。毒になりきれない異物感と体に無機物が溜まっていくような感覚は、アシュにも確かに覚えがあった。
「…………この前、シグは俺の名を出したんだ………死んだ男の名を」
この街では、名は紙よりも軽い。
かつてスエンニの領主は、クリミナの英雄ジエン=ギスタフが子息、グリフ=ギスタフの名を騙る青年に騙され、首を落とされた。
街の者は皆、名に重きを置くことがない。大切なのは使えるか使えないかの一点に集約される。しかしシグだけには、自分名と過去を話していた。
真実と虚構を織り混ぜてなるこの街の毒にあてられながら、しかし彼はその名の意味を考え続けたのだろう。
シグがアシュの“名”を口にしたとき、胃のそこの部分がすっと冷えた。傷つけられる前に、この男を切り離さなければならない。裏切られる、そういう直感的が外れることはアシュの経験上まずなかった。
「そのとき、ふと思ったんだ。奴は何で虚無を埋めるだろうか、と。俺ならば何で埋めるだろうかと」
アシュもバロットも、シグも。この眺めに立つものは、どこかしらが欠けている。
悪の街スエンニではほんの一刻足らずの商談で、あるいはたった一枚のカードをめくる間に、一人の人生狂わすだけの大金が動く。そんな究極の緊張の中、決して満たされることのない飢えを抱え続ける餓狼のような者たちだけが伸し上がる。ましてや執政官に居座り続けるような自分たちならば、並大抵のことでは満たされない。
彼らにあるのは、手に負えない獰猛なまでの自尊心。
自分以外の全てを見下す、才覚という免罪符を振りかざすことの出来る“人でなし”だ。
「一介の蟲商に過ぎなかった男が一夜のうちに富みも権力も手に入れ、後に残るのは怠惰で退屈な日常。俺なら気が狂いそうになるね。シグも、おそらく同じ事を思っただろう。―――――だから、そう、極上の刺激を欲した」
じっと見定めるように据えられたバロットの視線に、アシュは口の端だけ吊り上げて笑った。
「きっと今も、恐怖すら感じていないよ。俺をどう捕らえるのか、俺がどう追い落としに来るのか………きっとただそれだけに血を躍らせてる」
そういうところをたぶん互いに本能的に嗅ぎ分け、気に入っていたのだ。
炎に舞う蛾と同じだ。
たとえ身を滅ぼそうと、彼は享楽を追い求める。アシュが数多の屍の上に立ち、なお復讐に魅せられるように。
ふと杯を置いたバロットがゆらりと肢体を傾けた。
もたれ掛かった一瞬、視線が交錯する。赤い唇がゆっくりと落ちてきた。
「……んっ………」
音が消える。獣のように情もなく貪り合う沈黙の中、時折息継ぎの音だけが、落日の部屋に響いた。
やがて口内に蛇酒の匂いの甘い息を残して、彼女は唇を離した。
「怖い人…………私たちの中では一番馬があってただろうに、本当に………怖い人」
「もう手は回した。後釜も用意してある。奴も、その方が幸せな余生を送れるだろうさ」
アシュは気だるげに緩慢な動作で彼女の生白く絡みついてくる腕を外した。
「嘘」
「何が? 」
「今、私とのキスの最中に、全く別の事を考えていたでしょう? 」
ソファに沈みながら肩にもたれ掛かり、彼女は甘い吐息と共に、囁いた。
「当てて見せましょうか。お姫様のことでしょう? 」
「………………」
アシュは答えなかった。けれど微かに顔をしかめた男に、バロットは目を細めた。
「貴方がそんなに焦がれるなんて…………さぞかし無知で綺麗な女の子なんでしょうね。そして貴方はそんなお姫様を傷つけるのを………ううん、毒の通った手で触れることで汚していくのを、恐れてる」
「今夜は、その話はやめにしよう」
蝶の羽を折るように、新雪を踏み分けるように。
あの子の眩さに、今だけは。
アシュは今度は自ら唇を重ねると、荒々しく貪った。容赦なく赤く熟れた下唇を嬲る。荒い息に胸を上下させる女に、自分の中の熱が冷えていく。
けれどバロットは罪人の苦悶を楽しむ女悪魔のように、舌舐めずりをして艶然と微笑んだ。
そのまま筆でなぞるように、アシュの頬を撫でる。むず痒さに背筋を震わせる間もない。甘く甘く、蕩けそうなほど甘美な声音で彼女は囁いた。
「一度触れればもう二度と元の形には戻せない。貴方はそれをよく知っているわ。………だってもう私で、このバロット=リンハルトで確認してるもの」
「……………バロット」
「んっ…は、………駄目よ、女の話はちゃんと最後まで聞くものよ? 」
「聞かなくても分かる」
「そうね。貴方の手は復讐の疫病に憑かれた手。それでも貴方はその手を伸ばして、必ずお姫様をこの場所まで引きずり下ろす。きっと貴方が一番よく分かってるわね。ようやく手に入れたお姫様の、変わり果てたボロボロの姿に落胆する、未来の自分を」
「もう、黙れ」
バロットは応えなかった。
いつの間にかアシュの腕をすり抜けソファの後ろに回り込むと、白い腕を淫らに絡みつかせた。
「―――可哀想な人。愛してもいない私を抱いて、慰める? 無理だわ。貴方は今だって、本当は昏い悦びにうち震えているのに」
「黙れ」
「貴方も私たちと同じ。お姫様には可哀想だけど、貴方にとっての麻薬なんでしょう。止められるわけがないわね。シグを追い出すのも罪悪感と自己嫌悪の裏表ではなくて? 」
「………黙れ」
「―――ねえアシュ。世界で一等綺麗だと思ったものを汚すのは、さぞや快感でしょうね」
「黙れと言ってるだろう! 」
「ふ、ははは、あはははは!!」
グラスの割れる音が響いた途端、彼女は声をあげて笑いだした。
「ふふふ、理想家でロマンチストな革命家さん。どんな毒酒にも満たされぬ、可哀想なアシュ。次はどんな悲劇を飲み下すのかしら。きっと貴方ならどんな非業も美酒にしてしまうんでしょうね」
「ッ……………!! 」
たおやかな白磁の腕を乱暴に腕を振り払うと、アシュはそのまま腕を引き、その細い体を強引に床に押し倒した。
炎と血で染め上げたような赤髪が、絨毯を毒々しく塗り潰す。
「…………ねえ、アシュ。私は今でも貴方を愛してるわ」
「そう………君はきっと恨んでるものだと思ってたよ」
「ええ。でも、それ以上に私が貴方を忘れることはない。―――――この先貴方が誰を愛し、失望しようとも、ね」
◇◇◇◇◇
その日、メイドたちは朝からぱたぱたと忙しかった。
パーティーがあるのだというが…………
「ううぅ、なんでこんなことをしなきゃいけないの? 」
ルルーはうっすらと涙の滲んだ上目遣いで睨みながら、紅を塗られて春の蕾のように淡く色付いた唇を、不満げに尖らせた。
そう、それは文字通り朝っぱらから始まった。
同じような目にあったテナ曰く、「クーデターかと思った」とのこと。
もちろんルルーはクーデターなど知らない。だが遠い目をするテナの言わんとしていることは何となく理解できた。
朝、起きるなり笑顔で手をわきわきさせてベッドを取り囲むメイドたちを見たときは、本気で背筋が凍りついたのだ。
猫のようにうなじの毛を逆立てたルルーを、彼女たちは抵抗の間もなく担ぎ上げ、浴室に放り込んだ。頭の天辺から爪先まで磨きに磨かれ、あちこち揉まれたり香油をすり込まれたりと、ルルーの記憶はその辺りから途切れている。
それから。
気がついたときにはぷりぷりの肌で茫然自失なテナと並び、お針子たちに囲まれながらドレスの採寸をされていた。
フェムトを始め、この屋敷の使用人一同多分只者ではない。主従は似るというがこの強引さには何となく覚えがある。息つく暇もなくとはまさにこの事、訳も分からないまま引っ張り回され何事かと、訊く間もなかった。
「やぁ、似合うじゃないか」
「アシュ! 」
心身共にへろへろの状態でようやく昼食にありついた所で、にこやかに現れた青年にルルーはぱっと顔を上げた。
戸口に寄り掛かるように背を預けるアシュに、メイドたちに着せられたひらひらと床に引きずりそうになるスカート摘まみ、駆け寄る。何とか転ばずに辿り着くと、少女は僅か午前中の間に溜まった憤懣を勢いよくぶちまけた。
「ねぇアシュ、これは一体何なの? あちこっち揉まれたりずーっと立ちっぱなしだったり、もう嫌! 」
「おやおや。俺が珍しく本気で見惚れたってのにね。ルルーはやっぱりこういうのは苦手だった? 」
「歩けないし転ぶし、このクリノリンって、鳥籠みたいですっごく邪魔」
ルルーはふんわりとシフォンの広がる淡い黄色のスカートの裾を嫌そうに爪先で蹴り上げる。カシャン、と小さな金属の擦れる音が響いた。
「鳥籠、か。上手いことをいうね」
アシュは苦笑した。
クリノリンとはスカートの下に着ける補正具のことだ。裾に向かい径を広げる針金の輪を幾つも細紐で段に重ねた構造をして、スカート嵩を増し、外観のボリュームを出すために用いる。
「女性の腰周りを強調するためにできたっていうけど、君からすれば確かに鳥籠だろうね」
「動きにくいし、すぐ引っ掻けそうになるの。それなのにフェムトは姿勢を保てーって言うんだよ」
怒り心頭といった様子で頬を膨らませる少女に、アシュは笑いながら首を振った。
「まだまだそんなの序の口さ。本当にキツいのはこっからだよ? フェムトの地獄のマナーレッスン、ダンス課程まで終えた頃には地面の感覚がなくなって天国が見える」
「ふぇぇえ!? 」
ルルーは眉を下げて情けない悲鳴を上げた。
生来の天の邪鬼な性格のためかアシュはこういう、とりわけ不吉なことに関しては嘘をつかない。そしてその彼にさえ本気でキツいと言わせる、フェムトのレッスン。
恐る恐る辺りを見回すと、目があったメイドの一人がぐっととても良い笑顔で拳を握った。
………嫌な予感しかしない。先刻から今すぐこの場を逃れろと本能が警鐘を鳴らしている。
「ああ、ちなみに逃げようなんてゆめゆめ思うんじゃないよ? 」
思考を先回りしたアシュがにっこり笑いながら釘を刺した。
「俺と違ってフェムトは厳しいからね。下手すると夕食抜きで夜までレッスンになるかも? 」
「そんな! 」
ルルーは泣きたくなった。
学ぶことに関しては特に異論はない。むしろこの小さな少女は自分の無知を埋めていく感覚に対して、貪欲といっても良かった。
旅の間、そんなルルーに青年は様々なことを教えてくれた。星の連なりやその逸話、毒草と薬草の見分け方、いくつかの簡単な異国語から高等数式を用いた計算法まで、その内容は多岐に及ぶ。
「鳥籠はね、閉じ込めるものではあるけど、外界から君の身を守る壁でもある。マナーも同じだよ。この先、良い立ち位置を得たり交渉を有利にするのに役立つ。覚えておいて損はないから」
「それは“パーティー”の役に立つの? 」
パーティーを開く。ふとフェムトに告げられた言葉を思い出した、ルルーは率直に訊ねた。
「まぁ、ね。フェムトに聞いてたのか。そうだよ、君が思ってる以上に彼のレッスンは君を守ってくれるだろう」
それにね、とアシュは身を屈めフードに指を潜らせ、横髪を一瞬だけ梳いた。こそばゆい感覚に思わず首を竦めると、彼は追い討ちをかけるように指をペンダントまで滑らせ、わざと吐息を吹き込む低い声で耳元に囁いた。
「この綺麗な髪も、明日は誰に隠す必要もない。折角の機会だ、着飾って見せつけてやればいい。―――――主役は君なんだから」
もしも。このときルルーが顔を上げていれば、彼女はこの若者の瞳に薄いガラスのような危うい光を見ることが出来たかもしれない。
淡い恋情と昏い執着が滅茶苦茶にもつれ合い、ぐらぐらと針の上に置かれたような精神の均衡を揺らす。その下で糸を引くほど煮詰められた激情を滾らせ、完成された理性が破壊の衝動を覆う薄いかさぶたを掻き毟る。
「…………………アシュ?」
「うん。きっととても綺麗なんだろうね」
“名”を呼ばれた青年はにこ、と微笑むと指に絡み付けていた細い銀のチェーンを解放した。
「――――誰もが見惚れ、心動かさずにはおれぬほどに」




