他人事なら蜜の味
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目が覚めると薬の効果か、熱で茹だりだるくて堪らなかった体は幾分か楽になっていた。
日が高い。
一瞬、時間感覚が分からなかった。アシュが部屋を去ったすぐなのかと思ったが、もうあれからすでに丸一日眠ってしまっていたようだ。
(………喉渇いたなぁ)
ベットサイドに手を伸ばし水差しを探る。しかし水はコップの半分も満たさぬうちに一滴もなくなってしまった。
寝汗をかいたため、体はかなり深刻に水を渇していた。これでは到底足りそうにない。
ルルーは台所に向かうため、もたもたとベッドを脱け出した。
革靴をつっかけて階段を降りると、窓の下の土壁に張り付くようにしてアシュが外の様子を窺っていた。
意地の悪さが滲み出たような、にやにやとその口許は弧を描いている。
「…………? 」
いったい彼は何をしているのだろう。
あの顔つきからして良からぬことであるのは間違いないのだが。
どうしたものかと立ち尽くしていると、青年の方もルルーに気がついたらしい。
立てた指を口にあて、手のひらを下に向けて上下させる。それから人差し指をちょいちょいと招くように曲げた。
……どうやら『静かに、伏せて、こっちへ来い』ということらしい。
言われた通りにして窓辺に近づくと、アシュはくいっと親指を立てた。
「カイル君とテナちゃん、なかなか面白いことになってるよ」
「面白いこと? 」
楽しげな囁きが耳をくすぐる。しかしその声音に不穏な気配を感じたルルーは怪訝そうに眉をひそめた。
すると、
「何よ、父さんは帰ってくるもの!! そう約束したんだから! あんたのそういうところが大ッ嫌いなのよ、バッカイル!!」
甲高い怒声とバッチーン! という―――おそらくテナがカイル青年の頬を張った――物凄い炸裂音が辺り一帯に残響を残す勢いで高々と鳴り響いた。
あまりのその迫力に、気づかれていないはずとはいえ、ルルーが思わず肩を竦めたほどだ。
だが、例によってこの青年はその限りではなかったらしい。
何がツボに嵌まったのかぶるぶると肩を震わせ、声もなく爆笑していた。
「来てみたらいきなり修羅場だろう? コレ見逃す手はな……じゃなくて、少し気掛かりで、思わず物陰に隠れてしまったんだ。いやー、テナ嬢があれほどの打撃を持ってるとは知らなかった」
ようやく笑いに一区切り着いたところで、アシュは涙を指で押し潰しながら答えた。時折時限式に込み上げる笑いを抑えているのか、たしたしと膝を叩いている。どうやらこういう泥沼をでばがめするのに、堪らなく愉悦を覚えるタイプらしい。
今さらながら、性格も趣味もとことん悪い。
窓の向こうではまだ言い争いが続いているようだが、先程と比べるとくぐもってよく聞こえない。けれどヒステリックなまでに甲高いテナの声は、すでに涙まじりの鼻声に変わっていた。
ルルーは声を殺して笑い転げる傍らの青年の袖を小さく引っ張った。
「ねえ、いったい何があったの? 」
「何がって? 」
「だってカイルさん、テナさんに泣かされることはありそうだけど、わざと泣かせるなんて絶対にしなさそうだもん」
ルルーは先日、呼ばれもしないのに突然やって来て睨み付けてきたちょっと失礼な垂れ目の青年を思い浮かべた。
カイルは無礼者ではあったが、そのもっと他にも言いようがありそうな暴言の数々は、根底ではテナ一家を気遣うものだった。
ぺらぺらと口はよく動くのに、基本的にはテナにやられっぱなし。ジーが相手とはいえ、その人一倍大きな体が攻撃的に使われることは一度もなかった。
その彼が、果たして優しいが気の強い彼女を、泣きだすまで追い詰めるようなことをするだろうか?
「いや、カイル君も一応男の端くれなんだし、あの年頃ならむしろ女の子の一人や二人啼かせたいのが本音なんじゃ………」
ルルーの問いに青年は難しい顔をしてぶつぶつと何事か呟いている。ただしこの場合パンゲア公語という統一言語ですら、もちろん彼女には通じていない。
「アシュ? 」
「あーいやいや、こっちの話」
頭に疑問符を浮かべて首を傾げる少女に、青年はひらひらと手を振って誤魔化した。
「っと、それより何だってこんなことになってるのか、だよね」
頷くと、アシュは一瞬視線を逸らせ、真っ直ぐルルーのそれに戻したときには綺麗な笑顔を張り付けていた。
「ま、ありきたりな痴話喧嘩だよ。初めは、そう―――――そんな大した話じゃなかったんだよ。でも、まあすでに爆破寸前だったとこもあるみたいだけど、とうとうカイル君が禁断の一言を口にしてしまったわけだ。―――『おじさんはもう帰ってこない』ってね」
それはテナにとっては絶対の禁句だった。
もう帰れない人なのだと心のどこかで思いながらも、信じ続ける母を否定する訳にもいかない。
信じ続ける“フリ”をしながら送る凡庸な生活の中での、焼けつくような焦燥と己れの薄情さ自己嫌悪。
父の帰還を否定しては、辛うじて守っている危うい均衡が崩れてしまう。
カイルの一言は、そんなテナが最も恐れていた柔らかい部分を貫くものだった。
「酷い…………」
ルルーはぎゅっときつく眉を寄せた。
寝藁の匂いに包まれながら垣間見たテナの寂しげな横顔をルルーは知っている。信じられないということへの罪悪感を背負い続ける苦しみ。幼馴染みのカイルならばなおのこと、知らない訳がないだろう。
にも関わらず、そんなことを言う青年がルルーには理解できなかった。
アシュは困ったように笑いながら頬を掻いた。
「カイル君はねえ、どうもテナちゃんはとっととこの村を出て、もっと大きな町の学院へ行くべきだって思ってるみたいだね」
「学院へ? 」
少女は思わず訊ね返した。
そもそも文字の普及率パンゲアでの教育水準とは、個人資産により家庭教師を雇える家か一部の商人、吟遊詩人や蟲師のような独自の知識階層によりなる。
そんな中での学院《アカデミー》は教育機関、というより知識や技術の集約を試みた為政者たちにより用意された研究機関だ。
設立の大部分の目的は知識集約、頭さえ動かしてくれりゃ寝食は保証するというくらいに貴族たちの補助も手厚い。
そのため補助を目当てに石に齧り付くどころかしゃぶり尽くす勢いで学問を修める平民もいる。覚悟と気概さえあれば貴賤を問わず、基本的には誰でも入学できるのだ。
だが前述の通りそもそもの基礎教育すら得られにくい平民にとっては学院何それ美味しいの? であり、家畜の飼い葉を入れたかどうかの方が余程重要事項であり、ともかく普通はまず意識的な段階からして関わりになるような場所ではなかった。
「今のテナちゃんはこの家に縛られている。リデルさんは学者だったから、その立場でしか見えない事実もあるだろう。学問の中でなら何かしら繋がりは感じていられる。ただ待つよりテナちゃんならその方がいいと思ったんだろうね」
「でも、………でもそれならもっと他にも言い様があるんじゃないかな」
ルルーは肩を落としながら呟いた。
カイルがテナのために動いていることはわかった。学院でリデルの研究を継ぐことで、その足跡を追う。成る程、今の彼女よりよほど建設的でプラスになるだろう。
だがルルー自身、元々争い事には向かない質だし、アシュのように喜び勇んで修羅場見学するような趣味もない。知り合い同士が諍うのはあまり気分の良いものではなかった。
「うーん、こればっかりは当人同士の問題だからねえ。二人とももう大きいんだし、カイル君も相討ち覚悟で発言してるわけだし」
大切に思いながら、逆の行為をしなければならない。大人とはなんてまだるっこしいのだろう。
しばらく俯いていたルルーは、突然ぱっと思い付いたように顔を上げた。
「そうだ! ヤガナとヤハルに貰った“仲良しの薬”を」「盛っちゃ駄目だよ? それはそれで間違ってないし面白いことになるかもしれないけど」
効能を大いに誤解と楽観している媚薬一服宣言に、青年がすかさず釘を刺す。
折角の良案のすげない却下に頬を膨らませて納得がいかなそうなルルーに、アシュは分かったような顔で肩を竦めた。
「男女の駆け引きは耳障りのいい言葉を選べばいいって訳じゃないよ。相手の気を引くためにわざと怒らせるのも手練手管の定石だし、案外互いに弱いところも脆いところも理解し合えるからこそ、喧嘩して連れ立つ夫婦もいる」
「じゃあ、これもカイルのテレンテクダなの? 」
「…………………あー、互いの距離感を確認するには必要なんじゃない? ………多分」
微妙に視線を逸らされた。
ごほん、と取り繕うように咳払いをするとアシュは床から立ち上がった。
「ま、結論から言うと馬に蹴られる前に退散すべきだね。こういうのは黙って見守るのが粋なんだから、ルルーも変に引っ掻き回しちゃ駄目だよ? そもそも他人の色恋に関わるとろくなことがないのは古今東西共通の倣いだからね。―――ってなワケで俺は今回は“逃げ”の一手に走ります。君相手だとまた余計なこと口走っちゃいそうだしね」
「え? 」
「ルルーも熱がぶり返す前にベッドに戻るんだよ」
青年はじゃっ、と妙に爽やかな笑顔で指を振るとそのまますたすたとどこかへ立ち去っていってしまった。実に速やかな退却だった。ルルーが引き留める間もない。
ぽかんとその背を見送っているといつの間に目を覚ましたのか、細く煙を上げるばかりの暖炉の前で寝そべっていたジーがほたほたと戸口へ出ていくのが視界を掠めた。
「…………あ、そういや水飲みに来たんだっけ」
アシュの忠告はよく分からないが、ようやく本来の目的を思い出したルルーものたのたと腰を上げる。
数拍おいて、人気の消えた窓辺にカイルの悲鳴が高らかに響き渡った。
現実なら、旦那にするのに実は一番まともな人だと思うんです、カイル青年。
アシュだと面倒臭すぎますからね……。




