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本の部屋








扉を開けると、微かにカビ臭い紙の香りがぎゅっと毛穴を引き締めるような感じがした。

「一応、掃除はしてあるけど、大分古いからね」

ミリーはギシギシと軋む窓としばらく格闘していたが、やがて勢いよく開いた。さっと差し込んだ日の光は西に傾きかけた橙で粗末な木の床を焼いた。

「すごい蔵書ですね」

ノイから下ろした荷を床に置きながら、青年は感心したように溜め息を漏らした。


それは、壮観と言ってもよかった。

ミリーに案内された二階の一室、テナの言からすると彼女の父の部屋はこの地域に多い、粗目の木の床と白い土壁のごくごく普通の部屋だった。

しかしルルーは一歩足を踏み入れた途端、驚きに息を飲んだ。


壁を多い尽くすように、そこにはただひたすら大量の本が並んでいた。


パンゲアでの識字率は、そう高くない。

生活の必要性から蟲操りの歌こそ普及はしているが、文字を扱い読むことが出来る者は貴族や知識階層、商人や裕福な家の子息に限られる。

ルルーも双子と共にコダエで三婆から簡単な読み書きくらいは教わっている。旅の途中でもアシュに簡単な単語から習っている。

だからこそ、何書いてあるのかさっぱり分からない背表紙から『やたらと難しげな何か』ということだけは分かった。


「すごいな………」

青年は吸い寄せられるように壁際に歩み寄った。

がっしりと重そうな書架には分厚い革の本がところ狭しと並んでいる。

「メローの『西方蟲論』、カテナルの『煬海神話論』、うわ、こっちはロジェの『歌論と原種』じゃないか………! 」

アシュは珍しく興奮したように、背表紙をなぞりながらぶつぶつと何か呟いている。

持ち主は几帳面な性格だったのか背表紙にはいくらかの規則性があり、ルルーの目にも十分それが見てとれた。


「まったく、よくまあこんな溜め込んだもんだと感心しちまうよねえ。このままいけばいつか床が抜けるんじゃないかって、本気で思ってるくらいだもの」

「いや、でも個人でここまで集めるなんてすごいことですよ。この辺のなんか、今じゃ絶版になってる相当貴重な資料だ」

「へえ。あたしらからすりゃたいした道楽だと思ってたけど」

夫の意外な一面に目を丸くするミリーに、青年は苦笑した。

「ま、こういうのは人によりけりです。でも、そうですね………」

アシュは視線を書架にやると、少し考えるようにこめかみを押さえた。それからにっこりと、世の辛酸を舐め尽くした商人の顔で微笑んだ。

「これは出来るなら、あまり人目に晒されない方がいいですよ。こういうのは狭い世界だ。きっと噂を聞きつけた奴らがすぐ買い占めに押し寄せて、それこそ根こそぎ持ってかれてしまいますから」

「あはは、そりゃあ気をつけなくちゃね」

「ええ。だからもし処分したいと思うようになったら相談してください。こういうの(・・・・・)を扱う専門の奴がいるから、紹介しますよ」



「アシュはこの本を、ミリーさんに売らせたくないの? 」

ミリーが部屋から去るとルルーは青年に訊ねた。

「………何故そう思うの? 」 書棚を撫でながら、青年が促すように視線を向けた。うーんと首を傾げつつ、ルルーは考えていたことをポツポツとまとめながら口を開き始めた。

「この部屋ね、本の縁は日で焼けてるでしょ。旦那さん以外あんまりこういうの読む人、居なかったんじゃないかな、それも随分長い間」

日に焼けた縁からも分かる通り、この部屋はおそらくかなり長い間使われていない。

「でもミリーさんたちはこの部屋をすごく綺麗にしていた。この本だって価値は知らなくても、とっても大切にしてるんだと思うの。――――それなのにアシュは、さらにそれを大事にしろって言った。コダエで呪い用の組紐を持ってきちゃうくらい商売人なアシュが、貴重なはずのものを勝手に売らないように(・・・・・・・)説得していた」

夫の大切な品。彼女からすれば言われるまでもないだろうに、アシュは本を引き取りたいと言い出すどころか、殊更それを煽るように言っていた。

――――まるでこの家から本の存在が流出することを恐れるように。


「………なるほどね」

アシュは頷いた。

「君が俺をどんな守銭奴だと思ってるんだかはさておき、あながち外してはいないよ」

と、ここで彼はルルーに向かい手招きをした。

よく分からぬも条件反射的に駆け寄ると、彼は芝居がかった仕草でルルーの鼻先にぴっと人差し指を突きつけた。

「ルルー、よく覚えておいで」

するりと一冊の本を抜き出し、彼は言った。

「吟遊詩人にせよ、蟲師にせよ、俺たちみたいに流れる者は特に知を(とうと)ぶ。知識は重荷にならず、生きる力になるからね」

微笑みを浮かべたその横顔はどこか硬く、青白く強張って見えた。

ざわりと、ルルーの背筋が不安にざわめく。

「知識はね、鉄に似ている。鉄は鋤にも剣にもなるだろう。豊かさと火種の二面(ふたおもて)。またタチの悪いことに人は一度見聞きしたものを、考えずにはいられない生き物だ。………知識は必ずしも人を幸せにするだけのものじゃない」

「…………それは、ヤハルとヤガナ、婆様方のこと? 」

平穏な、けれど閉ざされた里で“フィロの外史”という“知識”を守り続けるよう、宿命づけられた守り人たち。


漏れ出た言葉は、ほぼ無意識だった。

書架に本を戻そうとする腕が、一瞬止まった。

いつの間にか長くなった夕暮れの影が、青年の足元から黒く床に延びている。おもむろに振り向いたその顔は、逆光で暗くなってどんな表情をしているのかはよく分からなかった。

「ルルー」

ゆっくりと歩み寄ると、彼は幼子に言い聞かせるように背を屈めた。

黒い、夜闇の瞳が真っ直ぐ覗き込む。

「――――誰でも、さ」

青年は言った。

「ルルー、君は聡い。だからよく覚えておいで。知識は力だが、それでも所詮それだけでしかない。だからそれを使いこなすために重ねる時を、人は“歴史”と呼ぶんだ」


青い、火の目だ。

“フィロの外史”の洞窟で見た、静かな戦慄。

あまりに彼の本質を(あら)わにしているようで、ルルーはぞっとした。

青年の腕がもたげられる。

思わず後ずさるも、瞬く間に腰をさらわれ捕らえられた。

「ルルー」

「………っ! 」

名を呼ばれるそれだけで、体が震えた。

漆黒の瞳に、骨まで焼き尽くされそうで。

その指がゆっくりとルルーの頬をなぞり――――――「んが!? 」

鼻を摘まんだ。


「あははは、油断したね」

次の瞬間には、アシュはいつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべて佇んでいた。

彼はぽんと手をひとつ叩くと身を起こした。

「さ、もうこの話はこれでおしまいにしよう」

「………何か、誤魔化された気分…………」

「えー? 俺はルルーには到って誠実を心掛けてるつもりだけどなあ」

むうっと半眼で睨む少女を、くつくつと青年は楽しげに喉の奥で笑っている。

「そうだね、じゃあ少しだけ」

アシュはそっと内緒話でもするようにルルーの耳元に口を寄せた。

「今回はホントにただの親切心。世の中にはね、思想的、政治的、宗教的理由で出版を止められてしまう文書があるんだよ」

ハッと顔をあげたルルーの唇をすっと伸びた人差し指が塞いだ。

「この場合無知もまた、生きるためのひとつの賢さだ」

「………それじゃミリーさんたちがあんまりにも………」

報われない。

「時と場合によりけり。色々理由があるんじゃないかな。俺たちは旅の流れ者だ。わざわざ事を荒立てていく必要はないよ」

「アシュが言ってもあんまり説得力がない気がする」

「言うようになったなあ………」

苦笑したアシュががしがしと頭を撫でた。それ自体はいつものことだが、ただ、今日はいつにも増してしつこかった気がする。

「あ、アシュ、目が、目が回る………! 」

「んー? 世の中には色んな愛情表現があるんだよ」

ぐらぐらする視界にいい加減気持ちが悪くなってきたところで、階下からミリーが夕食の支度ができたと呼び掛けてきた。

ふらふら覚束ない足取りで部屋を出たルルーを柔らかく見守りながら、青年も部屋の扉を閉めた。




夕食はアカ豆とじゃがいものスープだった。

この地方では気候の厳しさから、ライ麦による酸味の強い濃い褐色パンを食べる。慣れた手つきでザクザクとナイフを入れるミリーに手渡された薄切りのパンを、小さくちぎってスープに浸す。

夏とはいえ日が落ちると一気に冷え込み、皿の上には仄かな湯気が漂っていた。

「んん! 美味しい! 」

スプーンで一口含み、ルルーはぱっと花を散らしたように頬を上気させた。

とろりと煮詰められた厚切りベーコンとほっくりしたアカ豆は、素朴な味付けであるがゆえにじんわりと、体の芯から温まる優しい味だった。

あとで聞いた話だが、貧血を防ぐアカ豆は“徴”のついた女性に食べさせるこの地方の伝統料理らしい。椀によそわれた具材を見て、テナは「ああ」と納得顔を、アシュは「………」となんともいえない渋面を浮かべていた。

スープも美味しかったのだが、しかしルルーが一番気に入ったのはバイラント牛のチーズだった。


「バイラント牛てのは、昼間牧場にいたでかい茶色の毛玉みたいなヤツらね。もー、これ食べちゃうと余所へなんかお嫁にいけなくなっちゃうくらいだから。マジで美味しいから」

食べてみ食べてみ。母娘はにやにやしながらそれを切り出してきた。

牧場の娘に断言された白い塊を、ルルーは指示された通りパンに載せてかぶりついた。

途端、

「――――ッ!? 」

旅人二人は思わず口を押さえた。


ふわりとした、クリームのような上質な口どけ。けれど自然な甘みと香りよい微かな酸味は、驚くほどどっしりとしたコクがあった。

なるほど。これを食べなれてしまったのなら、母娘のどや顔にも納得がいく。

「美味しいでしょう」

ミリーが自慢気に厚い胸を反らした。

「なんちゃら調査とやらでこの村に来たリデルも、あたしのチーズを一口食べた途端惚れ込んで求婚してきたのさ」

「あー、出た出た。父さんと母さんの馴れ初め」テナは聞き飽きたというように両手をあげた。「昔はスレンダー超絶美人で村を通りかかる旅人を惑わしその数十指に余る、でしょ」

「ホントの話よー。昔はあたしだって身を焦がす恋の一つや二つしたものさ」

たっぷりとした腹を揺すり、ミリーは誇らしげに笑った。

「調査、というと旦那さんは学者かなんかだったんですか? 」

もぐもぐと手と口を動かしていたアシュが、ふとスプーンを運ぶ手を止めて訊ねた。

ミリーが驚いた、と目を見張った。

「そうだよ。よく分かったねぇ」

「部屋にあった蔵書、かなり専門的な学術書が多かったので………専攻は“始四原種論”でしょうか」

「さぁ、あたしらは詳しいことは知らないけど、確かにそんなようなことを言ってたね」

「………ねえ、アシュ」

ルルーは傍らの青年の袖を引いた。

「“始四原種論”って何? 」

「あたしも何の話かさっぱり分かんない。アシュさん、よかったら教えてよ」

はいはい、とすかさず手をあげるテナ。

青年が焦ったように耳元に囁いた。

(あのねぇ………さっきの話聞いてなかったの? )

(聞いてたよ。だから禁書のことは話さずに説明すれば良いんだよ)

(他人事だと思ってこの子は………)

呆れた目で見下ろす青年に、ルルーは縋りついた。

(お願い、ちょっとでいいの。だって、そんなの寂しすぎるよ。大切な人の事を知らないままなんて)


虚を衝かれたような青年に、ルルーはすかさずにっこり微笑んだ。

(大丈夫、アシュなら出来るもん)

(………あー、女の子の成長って早いよな。ホント、他人事だと思って………)


じっと上目遣いで見上げるルルーに、青年はしばし迷うように視線をさ迷わせた。

が、やがて諦めたように溜め息をひとつ吐くとスプーンを置いた。

「分かったよ。でも俺も専門的なことはよく分からないから、あくまで一般論の、さらにその一面として聞いてよ」


そう前置きをすると青年は薄い唇に舌を這わせて湿らせ、ゆっくりと“始四原種論”について語り始めた。









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