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名前












 しゅわしゅわと太陽に暖められて乾いてゆく服を見つめていた少女は「陸が見えてきた」という青年の声に、ぴょこんと勢いよく飛び起きた。

 急なバランスの変化に船底のハコビウオムシが不満げに目玉をギョロリと剥くと、赤紫の縞の派手な尾びれで水面を叩いた。


 びくりと肩を竦めた少女にアシュは微笑んだ。

「気にしなくていいよ。取って食いやしないし、何より蟲とはいえ料金分はきっちり働いてもらわなきゃね」

 空に浮かぶ島アークの塔から飛び降り大脱出を果たしてから、かれこれ半日。

 自由落下の途中で気を失った連れを抱えたまま着水。目を覚ました少女が突然顔を覗き込むハコビウオムシに驚いて一騒動あったのを除けば、蟲船屋にあらかじめ待機させておいた船に乗り込み、とほぼ当初の計画通りだった。

 問題はこれからだな、と青年は眉根を押さえた。


 蟲は空を飛ぶもの、水辺を泳ぐもの、地を走るものと多岐にわたりパンゲアの交通を支える半家畜的な生き物である。

 中でも船を背に乗せて移動するハコビウオムシは多くの島々によりなるパンゲアでは安価で安全な、それこそ小さな子がお使いに使うくらい、ごくごく一般的な交通手段である。

 しかし訊けば少女はそんな蟲の存在すら知らなかったという。

 会話をすること自体に慣れていないたどしい言葉といい、それは想像以上の塔での閉鎖的生活の一端を垣間見せていた。

 思わず強張った顔はどうやら相当ひどいものだったらしく、怯える少女を笑って宥めながらもアシュの心にはやり場のない憤りが満ちていた。


 無知は罪ではないが、生きていく上では重石となる。

 この小さな少女は理不尽を感じることも出来ない物心つく前から、そんな重石を背負わされてきたのだ。



 日はすでに真昼の高さにまで昇りきり、ぎらぎらと凪いだ海面を照りつけている。

 眼下に広がるすべてを、物珍しげに眺める少女に「そういえば」とアシュは努めて明るい声音で訊ねた。

 「名前をまだ訊いてなかったね。俺は君をなんて呼べばいいのかな? 」

「な、まえ………? 」

 こてん、と不思議そうに首を傾ける少女。「塔では、フクロウて、よばれた。わたし、フクロウ」

「あーいや、“フクロウ”は“天涯の月”の器だから、名前ではなくて………うーん、まずはそこからかぁ」

 頭を抱えるアシュに少女も面白そうにくすくすと笑いながら真似して頭を抱える。

「名前ってのはその人自身のことを表す言葉で………あーもうややこしいなぁ。例えばね、俺だったらアシュって名前がある。俺を知ってる人にこの名前を出せば俺のことだってすぐに分かるし、俺に向かって呼ばれれば振り向く。まぁ他にも色々あるけど、取り敢えずはそういう便利な言葉だよ」

 ちゃんと説明になっているかはいささか不安だが、自分なりの最善は尽くしたと思う。アシュは思案顔の少女を覗き込んだ。「えー、分かった? 」

「………じゃあ、フクロウ名前、ない」

 かくんと少女は首を折るようにして俯く。それから申し訳なさそうにぼそぼそと言った。

「フクロウ、ずっとフクロウ、だったから」

「………………」

 黙り込んでしまった青年に、少女は小さな体をますます小さくする。その様子にハッとしたアシュは慌てて手を振った。

「いや、君のことを責めてる訳じゃないよ。ただこのままじゃちょっと不便だからね」

 と、ここで言葉を切ると、アシュはおもむろに顔を上げた。「俺でよければ何か考えるけど、俺に名付けられるのは嫌? 」

「いやく、ない! 」

 ぷるぷると少女は紅潮した顔を激しく左右に振った。「わたしもう、フクロウ、ない。わたし、の名前、つける! 」

 満面の笑顔で答える少女に、青年もつられるようにして相好を崩す。

 「よし、じゃあどんな名前にするか、港に着くまでに一緒に考えようか。そうだな………何か好きなものとかあるかい? 」

「アシュ! 」

 即答だった。にこにこと無邪気に微笑む美少女にこれだけ言われればある意味男冥利に尽きると言えようが、流石にそれを採用するわけにはいかない。

「うん、ありがとう。でもそうじゃなくてね…………そうだなぁ、じゃあ塔ではいつも何をしてた? 」

  何か関連のあるものから引用しようと、アシュ思いついたものから言うように少女を促した。

  塔、と言われた少女はしばし逡巡したのち、ぽつりと呟いた。

「そら…………みてた」


 嵌め殺しの、風すら通ることのない高く小さな窓から。

  小柄な彼女の体ではきっと空しか見えなかったのだろう。それでもその言葉には不思議と卑屈な陰りはなく、むしろ透き通っていくような純粋さがあった。

「………空は、好きかい? 」

 アシュは優しく訊ねた。

「ん、すき! アシュも、そらからきた」

 …………どうも大悪党のはずの自分は、正義の味方か何かのように捉えられているらしい。

  多感な年頃には自分を救い出してくれたという事実だけで、過剰に美化されるのだろう。

  迂闊な一面は見せられないなと、きらきら憧れで目を輝かせる少女に青年は苦笑した。

「そうだなぁ。じゃあ“ルルー”はどうかな? 」

「るるー? 」

「ああ。古い言葉で“空”を意味するんだ」


 自由の空。

 それはきっと、彼女が解き放たれるべき場所。

  あの(ひと)が突然奪われたもの。


  るるーるるーと少女は可憐なの唇を突きだし、歌うように繰り返す。

  それから青年の視線に気づくと、にっと白い歯を覗かせた。

「わたし、ルルー! ルルーわたし、のなまえ!」

 明るい声にバシャッ、とハコビウオムシが呼応するように尾で水を叩いた。

「よし、それなら今日から君の名前はルルーだ。よろしく、ルルー」

「んと、よろしく。アシュ」

 エヘヘ、とルルーはちょっと恥ずかしそうにスカートの裾を握りしめた。




 るるーるるるーるーるー。楽しげな歌が波間を渡る。

 港に近づくにつれ、みゃあみゃあと鳴きながら海鳥たちが青空の中を煌めくように白い翼を翻してゆく。


 初めてこの港に来たとき、俺はどんな顔してたかな。

  少女の歌に耳を傾けながら、ふとアシュは思った。

 初めてこの港に流れ着いたとき―――罪人としてアーク島から地上に堕とされたとき。


 その自分が今、島の秘宝と連れ立ち、始まりの港を目指している。この運命の皮肉を笑うべきなのか、それともむしろ大悪党の名を誇るべきなのか。

「―――君の旅路の幸せを、祈るべきなんだろうなぁ」

「? 」

「あーいやいや、こっちのはなし」

 不思議そうに首を傾げるルルーに、青年は「あぁ! 」と大袈裟に目を見開いた。ちょっとわざとらしかったかもしれないが、つられたように振り向いた少女のライトブルーの瞳もみるみる大きくなる。

 海の向こうに何百もの閃く白い海鳥を纏い、山の裾から海に沿って赤い煉瓦屋根と壁が建ち並ぶ。

「アシュ! あれ、みなと? 」

「そう。ほら、ちゃんと座ってないと海に落ちるよ」

  頬を紅潮させ、船縁から乗り出さんばかりにして陸を指差す少女に、アシュは微笑みながら言った。

「旅はこれからなんだから」













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