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理想郷の掟














「そもそもコダエの祖があんな厄介な掟を作ってまで守り伝えさせたもの………この里にだけあるモノって、何だと思う? 」

アシュはルルーにしたのと同じ問いを、ヤガナに投げかけた。

戸惑うように、琥珀の瞳が揺れる。

ジッ、とカンテラから蒸気を焼く音がした。

煌めく竜蟲の翼の下から、高低を変えて延々と壁に連なる奇妙な円の紋様。麗しい美女の手でも取るように、青年の長い指が背後に延びる壁画をするりと撫ぜた。

「この蟲操(むしぐ)りの歌の、楽譜(・・)さ」



「現存する蟲操りの歌は(いにしえ)の蟲師たちによって伝えられたと言われている」

蟲師とは吟遊詩人に近い、独自の戒律を守り、蟲琴を用いて技を伝えてきた一族である。

「蟲操りの歌は、元々その多くが古語でね。君も知ってるように古語には文字がない(・・・・・・・・・)。彼らは七種の母音と百を超えるとも言われる音階の組み合わせによって言葉をなしたと言われている」

古語が難解とされる理由のひとつに、解読にある絶対的な音の違いを聞き分ける“耳”を必要とする点が挙げられる。

一度聴いた音を忘れず、それを正確に再現できる。そして通常、“聴こえない”音を聴き分けることができる。


「第四音ノ十五」

ふいにトントン、とアシュは背後に並ぶ円のひとつを叩いた。

「超低音域、というか実際俺も聞いたことないんだけど、これはもう古いタイプの蟲師でなければ発することもできない特殊な音階なんだ。音もないのに唇が震えて見える。だからこの音を含む楽譜は通称“唇”って呼ばれてるんだ」

唇、という言葉にぴくんと少女に動揺が走る。

「掟にあったのは確か、『唇の漏れ出づることを禁ず』だったよね」

「………じゃぁ、これは……」

ふらふらと揺れる火影に、「そ」とアシュは頷いた。

「多分、どこかで解釈を間違ったんだろうね。掟では人の流出自体は、もともと咎ではないんだ。………これが俺の言った“抜け道”」

ヤガナはしばらく呆然と目を見開いていたが、やがてずるずると床にへたりこんだ。



カーヒルは、しばしば縁だと言っていた。

詩人たちは皆、己れが聴き歌うことができる間に次の後継を探す。

古語の中にはある一定年齢の間でないと聞き分けられない音もある。ゆえに歌を繋ぐことが出来るかどうかは本当に運のようなものなのだ。


現在パンゲアで普及している歌は、近い音を持つパンゲア公語になるよう、子音を当てはめたものだ。船の上で名付けた“空”を意味する「ルルー」も、このパターンに当てはまる。

多少いい加減でも蟲の操縦に困らなかったためか、むしろ歌いやすいよう語呂を合わせるために元の韻を変えてしまったり、正確な音階そのものが伝えられなかったりして本来の意味は失われる場合が多い。


「ま、そんな訳で古語は文字を持たない語なんて言われるんだけど、唯一例外と言えるのが“楽譜”だ。元々古語は蟲の鳴き声と習性から編まれたものだとも言われているし、文字になんかしようもなかったんだろうねぇ」

道の丁度中央にカンテラを置き、アシュとヤガナは狭い洞窟をそれぞれ向かい合わせにもたれている。

二つの長い影がゆらゆらと巨大な化け物のように壁を覆っていた。

座り込んだヤガナに、アシュはとりとめもなく古語と楽譜について話していた。ぼんやりと竜蟲の煌めく金の羽を眺めるばかりで相槌もなかったが、アシュは構わず知識のみを垂れ流し続けた。


やたらと長い説明を一通り終えると、流石に喉が乾いた。アシュは口を閉ざすと、そっとヤガナの様子を窺い見た。

ふらふらと視線をさ迷わせながら何か言おうと口を開いては閉じる。さっきからその繰り返しだ。

(まぁ、無理もないか)

そもそもムシヤライに守られたこの里では、蟲師や蟲操りの歌もよくてその存在を知っている程度だ。疑うことはおろか、今まで考えることもなかったのだろう。幼い頃に刷り込まれた掟とはそういうものだ。

それでも思考を放棄せず、流し込むようにして与えた知識を吟味するだけまだましだ。


「待って………じゃあ、そんなことの為に掟は作られたって言うの? 」

「そんなこと? 」

ややあって戸惑うようにこぼされた少女の問いに、「心外だな」とアシュは器用に片眉を上げた。

「蟲操りの歌、より正確な古語はそのまま蟲の機動力に直結する。騎乗帯をぐいぐい引っ張るより的確な指示が出来ることが歌の強みなら、歌による精度はそのまんま蟲による軍の精度(・・・・)だよ? ましてやこの楽譜は恐らく、蟲師により最も多くの歌が編み出された“女神の祝福”の時代のもの。見たところ子音の編纂もないし、純古語なら最古の分類に属するものだろうね」

しかし実際に蟲を見たことのないヤガナには「蟲の軍」と言われてもいまいち実感が湧かないのか、眉を寄せて顔をしかめている。

青年は苦笑した。

「んーそうだなぁ。じゃ、どうせなら君たちの憧れる“外の世界”についての話をしようか」

青年はいつもと変わらぬ飄々とした、けれど温度を感じさせない冷ややかな声音で続けた。

「俺が以前この里に来たのは………一年半、いや、二年前くらいかな? その間に五回、人が生きながら焼かれるところを見たよ」


無数の島により成り立つパンゲアは各島に貴族を島主として置き、それをアークの島主、いわゆる王族が治めている。

しかし厳しい税や粗雑な統治に、自治街村での不満は根強い。中には荒れに荒れ、クーデター紛いの事件まで起きたところもある。

アシュが見たのは内乱を企てた首謀者が炎に撒かれながら呪いの言葉を吐き散らす、そんな公開処刑の場だった。

「それでも現在の体制が辛うじて維持されているのは、どうしてだと思う? 」

アシュはあくまで笑顔のままだった。今まで双子に向けてきた、人懐こい笑顔のまま。

けれどその言葉はいっそえげつないほど的確に、蒼褪めた少女に追い討ちをかけていく。

「一重に貴族たちが歌を専権して、蟲による軍(・・・・・)を持つがためだ。知識はね、力なんだ。そんな微妙なパワーバランスの中、平和しか知らない君たちがこの楽譜の存在をのこのこ持ち込んだら、どうなるか分かる? 」

世間知らずな少女が、生活していけるかなんて問題ではない。

彼女たちが抱えるのは、裁量ひとつでは国を戦禍に巻き込む劇薬にもなりかねない、均衡を崩す不確定要素だ。

為政者たちはこぞってそれを手にいれようと、あるいは始末しようと躍起になるだろう。複雑に絡み合う思惑に翻弄され、いづれ己れの意思すらなく激動に身を投じることになる。

彼女たちの言うところの“広い世界”を脆弱な獣のように生涯息をひそめて、口をつぐんで、ただひたすらその手から逃れ続けるしかない。


「たとえ今ここで楽譜を破壊しても、君たちは自由になんかなれない。外の世界では君たちは、何の盾も持ち合わせていないんだ。どんなに否定しても、この楽譜の秘密は君たちの生き方を縛ることになるだろうね」

沈黙が落ちた。

ぎゅっと小さな手が服の裾を握り締める。

その様子を見つめながら、

(我ながらえげつない)

とアシュは内心肩を竦めた。

自由を仄めかせておいてもっと重い鎖に繋ぎ、完全に希望を摘み取る。

だが掟にさえ抗うようになり始めたヤガナの逃げる意思を奪うのには、残酷なようだがもうこれしかないのだ。

俯いたまま、か細い背にのし掛かる何かに耐えるようにじっと背を丸める少女の答えを、アシュも静かに待ち続けた。


ひどい、とややあって小さな呟きが漏れた。

「………酷い。そんなの……うま、生まれたときから、変えられない、じゃない………」

嗚咽と共に、薄い肩が小さく震える。ぼたぼたと阻むものもない大粒の涙がこぼれ落ちて床を打つ。

アシュはどこか切ない憧れを混ぜた瞳で、ゆるゆると首を振った。

「人は誰だって生まれる場所を選べないよ。………でもだから、自分に与えられたものについて、考えなくちゃいけない」

カンテラの灯りを小さく宿す瞳は静かな、深い夜の色だった。

「外の世界は、確かに美しいかもしれないね。俺が穿ちすぎなだけで、里を出たコスイさんも幸せになれたのかもしれない。―――だけどね、誰も手を差し伸べなかったのは、君たちを守る意思(・・・・・・・・)でもあったんだよ」


箱庭の平和。

それは彼女たちからすれば、偽善でしかないのかもしれない。

だが初めてこの里を訪れたとき、アシュには信じられなかった。各国を巡るほどに痛感する、吐き気のするような醜さや絶望が、ここにはまったくない。

「そう、まるで―――奇跡のような里なんだ」

穏やかで、争いを知らない。エゴにより守られた美しい理想郷。


掟は彼女たちを縛るものではないという歪みを敢えて教えずに。彼女たちの優しさにつけこむ、どうしようもなく“悪い男”たちに騙されてきた、どこよりも清らかで美しい里。



うわぁあ、と嗚咽が明確な泣き声に変わった。

うわんうわんと洞内に反響して耳鳴りのように鼓膜を揺さぶる。

次から次へとこぼれ落ちる涙は、ひどく澄んでいた。

きっとこの涙を拭っていいのは、コスイと逃げた青年のように、すべてを破壊しても彼女を選べる強さを持つ人間だけ。


触れることも、慰めることもなく、アシュはただ頬を伝っていく涙を見つめていた。



















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