嵐の窓
鉛色の雲が立ち込める、月のない夜。
鉄の桟の向こうではびゅうびゅうと風が唸りを上げている。
小さな窓の中で吹き荒れる嵐を一人の少女じっと見つめていた。
日の光とは一切無縁に見える白い肌に、長い睫毛に縁取られたライトブルーの大きな瞳。そして華奢な背を腰まで覆うその髪は、星の光を集めたような美しい白銀だった。
空に浮かぶ島アークの西端、粗末な煉瓦の壁に覆われた、通称“梟の塔”。
粗末な外見に似つかわしい小さな部屋には、必要最小限の家具が置かれている。
しかしその実、この塔には王宮のそれよりも遥かに厳重な警護が敷かれている。もっとも生まれてこの方、塔を出たことのない少女には知りようもない事実だが。
ごうごうと小さな部屋に風の音だけが響く。
半刻以上も前にドアの向こうから差し出されてきた夕食を、もそもそ食べながら少女は窓を見つめる。外的刺激の極端に少ない、言い換えれば娯楽のないこの部屋では、鍵の掛かったドアと格子の嵌まった窓だけが刺激を運んでくる“外界”だった。
読むものも、聴くものも、話す相手もいない。こんな曇天の日には時間の概念すらない。
普通の者ならまず気が狂うだろう。
しかし独房にも等しいこの空間だけが、少女にとっては“世界”のすべてだった。――――その夜までは。
もう寝よう。そうベッドに腰かけた瞬間だった。
「? 」
一瞬、窓の向こうを黒々とした何かがよぎったような気がした。
ごうごうと吹き荒ぶ風の音を聞きながら見つめていると、またひらりと影がよぎる。
鳥だろうか。
しかし、この嵐の夜に?
「……………」
しばしの逡巡ののち、結局娯楽皆無の退屈が年相応の恐怖心を圧倒した。
少女は革靴を脱ぐと、そっとベッドの上に立ち上がった。
塔に据えられた窓はひとつ。それも高すぎて少女には空しか見えない。ベッドに乗りながら、少女はなんとか窓枠に手を伸ばして外の様子を窺う。
随分と変わった鳥らしい。ひらり、ひらりと黒い影は次第に間隔を狭めながら窓の向こうを交錯する。
やがてぴたりと停止し、少女が訝しげに鈍く曇った窓を覗き込もうとした瞬間、
「おりゃぁあああああああ!! 」
「?!! 」
凄まじい衝撃と共に、小さな嵌め殺しの窓は枠ごと吹き飛んだ。
突然の出来事に白黒させる少女の目前を、それは暴風を纏いながら部屋に転がり込み、
「ぐきゃ!! 」
勢いを殺すことなく見事に壁に激突した。
ずるずる、べちゃり。床に崩れ落ちた“それ”に、少女は悲鳴を上げることすら出来ない。
突然の侵入者に恐怖を感じるどころか、まず生きてるのかどうかを心配したほどだ。
しかしこの奇妙な侵入者、案外丈夫で図太く出来ていたらしく、すぐにむくりと起き上がると頭を押さえた。
「ててて………あ、待って。叫ばないで。見るからに怪しい者だけど君に被害は加えるつもりないから叫ぶのはやめて」
ひとまず無事らしい侵入者の様子に、次は自分の無事を確保するべくぱっくりと口を開いた少女に彼は慌てたように両手を挙げた。それからあせあせと顔を覆う覆面をむしり取る。
嵐に濡れ、張り付いた黒い髪の下から覗く顔は意外なほど若かった。人懐っこそうな澄んだ黒い目がランプの灯りに不思議なほど煌めく。
一瞬、状況さえ忘れて見入ってしまいそうになり、少女は慌てて目を逸らした。
そんな少女を遠慮配慮の欠片もなくじろじろ観察していた青年はふと満足そうに呟いた。
「その銀の髪…………君が“フクロウ”か。まさかいきなりビンゴとはね」
悪戯な光に満ちた澄んだ黒い瞳が、少女を捉えるなりにっこりと微笑む。
「こんにちは、囚われのお姫様。――――ときにこの稀代の大泥棒に盗まれてみませんか」
「は、え…………………………盗む……?」
強張る少女に青年はのんびりと、芝居がかった仕草で考え込むように顎を撫でる。
「あー、まぁ、正確には盗むってより契約ね。君と俺との、取引ってわけだ。無住む俺はもちろん、君にもメリットがある」
「わ、わたしが、“フクロウ”と分かって…………? 」
「んー? もちろん。わざわざここまで忍んで来て“天涯の月”以外に目標なんかないでしょ」
“天涯の月”
それはかつて女神により恋人に贈られた望みの地へと導くといわれる、伝説の宝。
そして“フクロウ”と呼ばれる銀の髪を持つ女たちの体を媒介に代々受け継がれる、この浮遊の島アークが空に浮かぶ由縁たる秘宝である。
「むりだ、もの」
「無理じゃないさ。入ってこれたんだから帰りはもっと簡単だね」
にこにこと微笑む不審者に、困惑を隠せぬ少女。けれど当の青年はどこか楽しげに両手を広げた。
「この世界は広い。こんな小さな部屋と比べ物にならないくらい、広い。どこまでも続く砂の海に、七色の湖、巨大な獣の骨を抱えた洞窟、真っ白な塩の丘やら………………ともかく馬鹿みたいに広いんだ。ここから君をそんな“世界”へ、連れ出してあげるよ」
不思議な声音だった。
決して大きなものでも主張されたものでもない。けれど豊かで独特の抑揚と共につい足を止めて耳を傾けてしまうような、ぱちりと胸の奥で宝石箱が開いてゆくような、そんな不思議な魅力があった。
「せかい」
己れの置かれた状況も忘れ、ぽつりと繰り返した少女に青年は嬉しそうに頷いた。「そう、世界だ」
少女の中でもまた、長い間閉ざされていた何かがゆっくりと開き始めていた。
もしも、と思ったことはいくどもある。
もしもこの壁の向こうに広がる空を見ることが出来たなら。
鳥のようにこの小さな部屋から飛び立つことが出来たなら。
だが、
「………むり、……で、きない………」
少女は首を振った。
「ここから、出る、ダメ。できない」
この塔を出ること。それは秘宝の器“フクロウ”として、物心つかないうちから少女に植え付けられたある種の禁忌である。
見知らぬ世界への憧れはもちろん、痛いほどあった。だが思考を越えた根底に刻み込まれた意識は、そこに「何故」や「どうして」といった疑問を少女に許さない。どれほど自由に焦がれても、その願いは絶えず罪の意識に苛まれる。
束の間、窓から吹き込む荒々しく湿った風が銀の髪を吹き上げた。
もしかしたら、これきりなのかもしれない。少女は唇を噛んだ。きっと自分の生きている間にはもう二度とないだろう。外の“世界”へ行くチャンスは。
それでも、冷たく重い鎖は少女を確かにこの小さな部屋に縛り付けていた。
悲しげに俯く少女に、しかし青年はあっけらかんと言った。
「ま、その辺はあまり気にしないでもいいよ。あー……ほら、人は誰しも自由だからね。願うことなら誰も咎めやしないよ? 」
湿った、冷たい指がそっと頬を触れた。
誰かにこんな触れ方をされたのは初めてだったが、不思議と不快感はなかった。
その辺を、青年も敏感に感じ取ったらしい。切れ長の目が途端隙のない狐のようにくっと弧を描く。
「だから俺も、自由意思で君を拐う気満々な訳だし? というか初めからイエスの回答しか受け付けないつもりだったし」
危害を加えないという先刻の言を早速翻すような発言。
「――――何より君はこの大泥棒で大悪党の俺に“抵抗もむなしく盗まれる”んだからね」
驚いて顔を上げると、青年は茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「約束してもいい。世間をあっと言わせて見事、君をここから連れ出してあげる。その代わりひとつだけ、君の中にある“天涯の月”で俺をある場所に連れていって欲しいんだ」
「ある、ばしょ………? 」
少女が問い返したとき、階段をを駆け上ってくる鋭い足音が響いてきた。窓の破壊の音に勘づいて様子を見に来たのだろう。
「おっと、思ったよりも早かったな」
楽しげに白い歯を剥き出すと、青年は黒いマントの下に背負っていたはいのうからごそごそと何か取り出し始めた。
そしてここに来て初めて真剣な表情になると、腰を屈めてその澄んだ漆黒の瞳を真っ直ぐライトブルーの瞳に合わせた。
「君は自由を手に入れるために俺を利用すればいい。俺は自分の望みのために勝手に尽力する。これが君に提示できる取引だ。どうだい? 悪い話じゃないだろう。……まぁ嫌だって言っても俺は勝手に尽力するんだけどね。聞き入れるつもりはさらさら無いけど、意向ぐらいは一応聞いておくよ」
ふいに青年はその場に跪くと、にやりと悪辣に笑った。芝居がかった仕草で少女に向かい、手のひらが差し出される。
「さあ、迷ってる暇なんてないですよ? 囚われのお姫様。もし、貴女がほんの僅かでも俺の言葉に心動かされ、自由を願うなら、どうかこの手をお取りください」
足音がドアのすぐそこまで近づいてくる。
少女は部屋を見渡した。
簡素なベッド、粗末な椅子と机。
ただ息をしているためだけに与えられた、自分の“世界”。
感傷を与えるものもない代わりに、それらにはもはや自分を引き留めるだけの力もない。
「いい、の…………? 」
少女はくしゃりと顔を歪めた。枯れた喉を熱い塊が競り上がる。
長い間人と対することのない塔での生活によりたどたどしく、今にも泣きそうに掠れた声。
願うことが自由なら。
もしも、この手が届くなら。
伸ばしてみても、いいだろうか。
初めて目線を合わせてくれたこの青年に。
「もちろん」
青年の温かく大きな手が少女の手を素早く浚い、しっかりと包み込んだ。
「英断だと思うよ。さぁ、濡れるからこれ着て、しっかり捕まっててね」
青年は黒いマントで肩に掛けてやると小さな体を抱き上げ、窓枠に手を掛けた。
その時、ぱっとドアが開け放たれた。
「“フクロウ”何かございまし………あッ! 」
扉を開けた兵士がノブに手を掛けたまま、眼前の光景に驚いて目と口をぱっくりと阿呆のように開く。
「どうも、曲者ですよー。“天涯の月”は確かに頂戴しました。あ、なんなら領収書切りましょうか? 」
侵入者の人を食ったような態度にか、その腕に収まる秘宝のためか、口をパクパクする兵士の顔がみるみる怒りで赤く染まる。
「―――貴ッ……様ァあああ!! 」
剣を抜いた兵士ににやりと笑いながら、青年が何かを床に叩きつけた。
半瞬、
「なっ!」 「きゃッ」「うわっゲホッ、発煙量失敗したか」
濃密なイカスミのごとき真っ黒な煙が爆発的に室内に立ち込めた。
嵐の暴風吹き込む窓辺にいるはずの二人でさえ、もうもうと室内から溢れ出てくる黒煙で自分の鼻の先すら見えない。
慌ててしがみつくと、思ったよりすぐ耳許で笑みを含んだ青年の声が囁いた。
「大丈夫、怖かったら気絶しときな」
何を、と聞き返そうとした瞬間、青年の腕に包まれたままぐらりと重心が傾いた。
「…………え? 」
視界はいつの間にかクリアになり、面白いほど黒煙を噴き出す小窓が恐ろしい速度で遠ざかってゆく。耳許で雨だか風だかも分からぬうねりがマントを翻し、ごうごうばたばたと響きわたる。
確かに長い間塔に幽閉されていた少女は、世上に当たり前とある機微には疎い。
しかしだからといって感情がないわけではない。
自由落下イン暴風雨。
血の気が引いていく代わりに腹の底からむくむくと恐怖が沸き上がってくる。
カッ、とすぐ真横を並走するように稲光が走った。
「イイィエエエエエエエエ―――――イ!!」
「いやあああああああああああああああ!!」
朗らかな青年の歓声と半狂乱な少女の絶叫のデュエットは、雲を抜けて見え始めた地上に恐怖で少女が気を失うまで続いた。
手を差し出すまではいい。
ええ、差し出すまでは。
でもそこから相手が手を乗せようが乗せまいが、意向関係なしに引っ張っちゃうのがアシュ流。