悪党の惑い
アシュ視点です。
「ぷはぁッ! 」
苔生し滑りやすい岩壁に手探りで慎重に指を掛け、アシュは水中から顔を上げた。肺に流れ込んでくる冷気が痛い。
(っと………これは急がないとなぁ)
対岸からまだそう泳いでいないのだが、すでに水位は大分下がっているらしい。垂れ下がった吊り橋の残骸を手繰り、水面から飛び上がるようにして岸辺へと上がった。
濡れた体はぐったりと鉛のように重い。
水位の下がった岸は水面からほぼ直角にそり立っている上、かなりの落差がある。
ある程度予想はしていたが、流石にこの高さはお子さま二人には難しかっただろう。連れてこなかったのは“正解”だった。
いつも通りの己れの合理的な思考に安堵しつつ、腰に結わえ付けた革靴を履き直しながら青年は呼吸を整える。
しかし紐を閉めながら、その指先がいつになく騰がっているのに気づき、小さく舌打ちをした。
(………まったく、何を焦ったんだか)
優しく手を差し伸べて、なんて見える男ほどろくなもんじゃない。
女は情に縛られる生き物だ。だからどんなにどうしようもない男でも、優しくされればそこを居場所に出来てしまう。
それがレミィの“悪い男”の定義だった。
橙色の焚き火を挟み、カーヒルは弦の調律をしながら弟子を褒めた。よく見てますねぇ、レミィは。
あれはいつのことだったろう。
いかにも詩人らしい、男にしてはたおやかな師の指が炎の底へとつまみ上げた枯れ枝をくべる。火は僅かに揺らめくだけで、時折パシッという火の粉のはぜる音が耳を掠めた。
静かな夜だった。
そういう情に縛られた女を、アシュは一人だけ知っている。だからレミィがぽつりとそんなことを言い出しても、すとんと胸に落ちた。
その夜が、彼女を思わせる静けさだったからかもしれない。
アシュは膝を縮めてレミィの言葉に押し黙るしかなかった。
ルルーを拐ったあの日。
初めてその澄んだライトブルーの瞳を見たとき、アシュはレミィの言葉を思い出した。
―――この哀れな少女を慈しんでやろう。
何年も前から準備を進め、師にも姉にも漏らさなかった綿密な計画の中での、唯一の気まぐれだった。
離れられないくらい、優しくしてやろう。
十五年間ものあいだ閉じ込められていたという不幸。その不幸を不幸とも思えなかった哀れな少女との出会い。
それはもはや肌に染み付いた謀略と駆け引きの中で、自分にしては珍しく直感的なものだった。
不幸な女ならば、優しくしてやればいい。
あの女のための“復讐”にこれほど相応しい役回りはない。
優しさが、彼女を縛る。
(外道だな)
自分自身でもそういうところは下手な女衒よりもたちが悪いと自覚している。
自由は与えても、幸せにするとは約束しない。
ただ優しさで、彼女を縛る。
だからルルーにはあの時告げたのだ。自分は、悪党であると。
(それなのにそんなこと言ってたら………利用するよ、ルルー)
―――信じてるから。
暗闇でもそうと分かるほど頬を染めて告げられた言葉は、誰も信じず生きなければならなかったアシュからすれば驚くほど陳腐で子供じみた、はっきり言って考えなしとしか思えない間抜けた言葉だった。
けれど、僅かに潤んだ上目遣いに、荒んだ自分の世界にはあまりに真っ直ぐで得難いただ一途な言葉に、アシュの胸は間違いなく動揺した。
(柄でもない)
自分でもそう思う。
ルルーも、今頃対岸で首を傾げているだろう。
無垢な信頼すら利用する、今さらそんな薄汚れた自分を痛烈に突きつけられた気がした。
そして同時に、気がついたのだ。
あの部屋を飛び出したルルーの世界は、これからどんどん広がってゆく。
広がるあらゆる可能性の中から、彼女は選ぶことができるようになるだろう。………アシュ以外も。
(―――まぁ、あの子からの初めての“お願い”だからね)
苦笑と共にこぼされた、言い訳めいた理由。
もう良心なんか残ってもいないくせに、ざらりとした甘さが首裏を撫でる。
双子の話のように、自分は無条件で手を差し伸べる王子様じゃない。
“復讐”に侵された、自分勝手な男。
ただ早くこのくだらない舞台を終わらせたくて、世間知らずの憎らしいほど真っ白で綺麗なままの少女に、汚れた手を差し伸べた。
(……いいよ、助けてあげる)
それでも。
少なくとも今は、他の誰でもないこの手に助けを求めたから。
だから今は、このざわめきに名を付せることもないまま、己れの心すら気づかないふりをしたまま、この幕間だけ手を貸してやろう。
(可哀想に)
青年は自嘲気味に薄く唇を上げると、まだ滴を落とす黒髪を掻き上げた。
悪党はいつだって優しく紳士的だ。―――己れの望みを叶えるためならば。
………だから、こんな可愛らしいお願いの一つくらい、サービスで叶えてやってもいい。
青年はがらんどうの洞内を軽く見渡した。
「さて、と。それにはまずこっちのお嬢さんをどうにかしないとね」
とんとん、と地面に軽く爪先を打ち付けると、アシュは明かりもない洞窟をゆっくりと進み始めた。
大人になるほどいろんなものに理由が必要になるんですよね。
理屈っぽい野郎は書くのが大変。