信頼
「固定するものもない宙を渡るには、二つの方法がある」
青年は芝居がかった仕草でぴっと指を二本立てた。
「ひとつは飛行手段を使うこと。ま、これは蟲の入れないこの里じゃ無理だね」
中指が畳まれ、残った人差し指に注視が集まったことを確認すると、アシュはにんまり微笑んだ。
「もうひとつは周囲を囲い込んで別の物質で満たすことだ。そう、例えば―――――――あの滝を流れる水とか」
アシュの採った手段は至って単純だった。
沢の橋げたを外して板を作り、それを滝の水が洞窟内に流れ込むように固定しただけである。
だが効果は抜群だった。
二刻(一時間)も経たぬ間に濠はなみなみと水で溢れていた。
アシュは水面に指を突っ込み「おー、冬場だったら泣いてたな」など暢気に呟いている。
ルルーは傍らで楽しげに水鉄砲をしているこの青年が誇らしくて堪らなかった。
(やっぱりすごいなぁ………)
どんなときも笑っていて、余裕があって、こんな暗闇の中にも道を作り出してしまう。
ヤハルが嬉しそうに胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「良かった…………これでヤガナを止められますわね」
広がりかけていた諦観に一筋の光が差したようで、嬉しくなったルルーはそんなヤハルの手を包み込んだ。
「そうだね。早く行こう」
「ええ。ありがとうございます。流石はアシュ様! 」
目に清らかな感激の涙を浮かべる少女たち。
そんな純粋な感動に、しかしアシュはあっさりと水を差した。
「いや、ここから先は俺一人で行くよ? お子さま立ち入り禁止」
「え………………えぇ!? 」
アシュが理解し難い言い回しで煙に巻くのはいつものことだが、流石に今回は唐突過ぎた。
口を開きかけたルルーの目の前で、躊躇いもなくベルトを外しだしたのだ。
異性の肌の意味をよく分かっていないルルーはさておき、ヤハルが真っ赤になって悲鳴を上げた。ただし顔を覆った指の隙間から好奇の目が覗いている。
「あああアシュ様っ! ここには乙女が二人もいますのよ! もう少し気を使ってくださいませ!! 」
しかしそんなことにはお構いなしに、アシュは手際よく少女たちの目の前で上衣を脱ぎ捨て、もうすでにズボン一枚になっていた。
細身だが引き締まった裸体が、揺らめくカンテラの灯りにしなやかに浮かび上がる。
壕を渡るため水を吸って重く衣類を脱ぐのは当然なのだが、橙色に照らし出された肌の色が無駄に色っぽい。
ポカンと口を開けてその様子を見つめていると、視線に気づいた青年とバッチリ目があった。
無言のまま意味ありげに微笑まれ、ルルーは何となく居心地の悪さに目を逸らした。
「………さ、三人で行くのじゃダメなの? 」
アシュはひらひらと手を振った。
「いやー、戻って来たときもう水が抜けてました、なんてことになってたら困るだろう? こういっちゃあれだけど、間抜け以外の何者でもないじゃないか。君たちも二人なら壕に水を溜められるし、そうしてくれると有り難いんだけどなぁ」
「でもそれなら、私たちが行った方が良いんじゃないかな? 水はアシュ一人でも溜められるんじゃない? 」
唇を尖らせながら反撃してみたが、青年はきっぱりと首を振った。
「ダメだね。俺の経験から言うと、意固地になった女同士なんて顔を会わせてもろくなことないよ。話し合いが出来るのは最初のうちだけで、そのうち『そりゃいつの話だ?』っていうようなうん十年前の恨み話まで持ち出して、最後は掴み合い、取っ組み合いの大喧嘩。そりゃあもう悲惨な、阿鼻叫喚の地獄絵図だよ」
「そ、そうなの? 」
思わず怯んだその隙を、アシュが見逃すはずもなく、
「そうとも。俺は君たちがそんな関係になったら悲しいからこそ、言ってるんだ。ここは第三者の俺が間に立った方が上手く丸め込………説得できる」
言い切った。
もちろん、実際にはかなり男の主観に基づいた予測である。
マノンの女亭主あたりならば即座に牙を剥こうものだが、いかんせん、まだ十代の世間知らずで典型的な箱入り少女たちには荷が勝ちすぎた。
「それにほら、こんな暗いと泳いでる途中方向を見失う可能性もあるし。俺なら夜目が利くから良いけど、灯りは持ってけないから二人には危ないよ。だから、ね。大人しくここで待っててよ」
すっかり黙り込んてしまったルルーにアシュは苦笑しながらくしゃっと頭を撫でた。
「大丈夫。もう少し俺を信じてくれないかな」
真っ直ぐ覗く、澄んだ黒い瞳。
離れてゆこうとするその手をルルーは咄嗟に握り締めた。
青年は一瞬、驚いたような顔をし、それから楽しそうに笑った。
悪戯っぽい光をたたえて、ときにちょっと強引に導いて、その先でいつもルルーの知らない景色を与えてくれる。
(ずるい)
信じろと言われれば、ルルーはこの青年を信じるきるしかない。
そこにどんな理由や思惑があろうと、塔の外へと連れ出したのは彼で、ルルーの見る世界は彼の向こうに広がっている。
たとえ騙されると分かっていても、自分は信じるのだろう。
それしか、出来ないから。
「…………分かった」
俯きそうになる顔を、何とか上げてルルーは漆黒の瞳を見つめ返した。
「別に、喧嘩が怖い訳じゃないんだよ」
「うん」
「アシュなら大丈夫だって、思ってるから」
「うん」
「ちゃんとヤガナと、帰ってきてね」
「うん」
あとね。
続けようとした言葉はじりじりと熱を持ちすぎて、息苦しいほど喉を焦がす。
顔に熱が集まっている。
ぎゅっと、温かな指を強く握り締めた。
「あー……何か責任重大な感じ? 」
すっかり俯いてしまった少女に、何かただならぬ様子を察したのか青年は困ったようにぽりぽりと頬を掻く。
ルルーは思い切って大きく息を吸い込んだ。
「……て……から」
掠れたか細い、小さな声。
口にして、ルルーは泣きたくなった。
情けない。
思い切ったつもりでこんな声しか出ないなんて。
しかしアシュの表情はびしりと彫像のように固まっていた。
「アシュ? 」
もしかして、聞こえなかったのかもしれない。
「あのね、」
やはり言い直そうとした次の瞬間、はっとした青年は慌てて手を振った。
「あ、いや、うん。大丈夫、聞いてたから、分かったから」
どこか焦ったようなその頬は、心なしか赤い。
いつも微笑みを浮かべて飄々としているこの青年にしては珍しいことだ。
「えっと、あー、水が抜ける前にもう行くね」
アシュは何か誤魔化すようにくるりと後ろを向くと、素早く水の中に飛び込んでしまった。
「私、何か困らせること言ったのかな…………」
微かな水跳ねの音が闇の奥へ、逃げるように遠ざかってゆく。
浮きつ沈みつを繰り返しながら去ってゆくその後ろ姿を見送りながら、ルルーはぽつりと呟いた。
訝しげな顔でヤハルがカンテラを掲げた。
「何て仰ったんです? 」
「うー………すごく子供っぽいこと? 」
「だから何と? 」
「………笑わない? 」
頷いて先を促す少女に、ルルーは温もりが消え妙に閑散とした手のひらをもて余すように、ぎゅっと青年の大きな上衣を握り締めた。
「『信じてるから』って、それだけ」