狐と罠
12/24 一部訂正。
人が動くとき、そこには必ず“道”が必要となる。
義父にして、ロードが師と仰ぐジエン=ギスタフの教えのひとつだ。
歩くにも大地がいるし、水面をゆくならば船が、空をゆくならば翼がいる。人は人である限り、どこかでこれらの“道”に行動を狭められる。そして罠は狭められた要所に張るものだ。
―――戦術はそのための手段だ。忘れてはいけないよ。
ゆらゆらと紫煙を燻らせながら、師はじっと壁に掛けられた一枚の肖像画を眺めていた。
―――時に人の心の闇にさえ、“道”は出来る。進み方を定め狭める道が、な。
家々の柔らかな灯りがその一角を暗い海から切り取ったように、港を煌々と縁取っている。
ふらふらと頼りなく海面を飛んでいた蟲がふいに、がくんと高度を落とした。
ロードは舌打ちするときつく手綱を引いた。
アークの優れた飛空蟲と異なり、ろくに訓練されていない民間の蟲の乗り心地は、思ったよりも最悪だった。
そもそも地上では手間ばかり掛かるクモオイムシなどアークとの交易のためか、早駈けの便りのためぐらいにしか使わない。需要が少なければ品質の向上も見込めないのが、人の常というものだ。
(連続飛空限界は島のものの約半分。安定性、速度、共に劣悪………か)
イワン、そして上官たちの渋面が目に浮かんだ。
(こういう隙を“道”に、見事すり抜けたって訳か)
蟲を使えなくすることで交通手段を奪ったばかりか、こうして隊内の士気にまで影響を与えている。
その後を追うごとに見え隠れする狡猾な思惑に、ロードはますますその人物への像を鮮烈にしていった。
ロード隊はマノンの港に帰着した。
流石に途中、潰れてしまった蟲を乗り換えたのだが、これでは遅々として進まない。夜に紛れて逃げられてしまっては、もう探しようがなくなる。
時間との勝負だ。
ロードが“道”を押さえるのが早いか、狐がすり抜けるのが早いか。
長の館に着くと、ロードらはもはや流れ作業で封鎖を命じていった。
「私はこの件に関し全権を預けられている。よってこれはアークの決定だ」
自分の半分も生きていないだろう若造からの頭ごなしの宣言に、マノンの長はまだもごもごと何か口の中で文句を呟いている。
「………しかし理由もなく港を閉鎖ってのは、いささか横暴じゃあないですかい。マノンは海の恵みで生きる街。それを禁じられちゃあ、こっちは干上がっちまう」
「貴殿らの言い分はもっとも。それはこちらも了承の上だ」
しかし事態が事態なのだ、とイワンはきっぱりと首を振った。
「この街はアークと父子の杯を交わした街と聞く。これは宗主の決定と受け取って頂きたい」
「はっ、宗主だと? ふざけんな。お前ェらはいつも奪ってくばっかじゃねぇかよ! 」
「おい、やめねぇか」
長の傍らに控えていた男がかっと眦を吊り上げた。怒りを孕んだ声が響き、立ち塞がるように長が慌てて腕を伸ばした。
突然噛みついてきた若者にロードはゆっくりと目を向けた。
「彼は? 」
「………わしの息子でさぁ」
ぐっと長の目が鋭く光った。
その眼光の鋭さに一瞬だけ、イワンでさえ目を泳がせた。
「どうにも馬鹿正直なやつで駆け引きには向かねぇが、仲間の信は厚い。どうしても理由をお聞かせ願えないってんなら、せめてこいつを納得させるような言い分くらい寄越してやっておくんなせぇ」
長い間潮風と太陽に焼かれた屈強な体が、ぐっと一回り大きくなったような気がした。なるほど、街ひとつとはいえ、荒くれの海の男たちを束ねるだけの貫禄がある。
(要はこれが街の者の本心で、いつでも抗う心積もりはあるって訳だ)
世界は、広い。
アークこそ、唯一絶対と教えられてきたロードは少しだけ感心していた。
アークは、決して絶対ではない。
それはロードの中に巻き付いた鎖を壊すに、十分すぎる威力を持っていた。
けれど青年はその得たいの知れぬ浮遊感が恐ろしくて、ぐっと殊更に背筋を伸ばした。
「………上の立場の者が下の者を統率し、治めるのは当然のことだ」
毅然とした態度を崩さず、ロードは冷ややかに言い放った。
「アークが導かねばパンゲアは幾度戦禍に見舞われていたことか、歴史が証明している」
「はっ、馬鹿馬鹿しい」
男が吐き捨てた。
「なら、あんたらが引きずり下ろされたとき、その逆が証明されるんじゃねぇか」
「何だと? 」
若者の挑発にイワンが目を剥き、そのまま掴み掛かった。若者もそれに応じて太い腕を振り上げたそのとき、
「いい加減にしやがれ!」
どん、と机が震え、長が吼えた。
思わず剣の柄に手をかけたロードを制するように、長は真っ直ぐ睨み据えた。
「旦那の言う通り、しばらく港は封鎖しやしょう。俺たちはあんたらに喧嘩を売るつもりはねぇ。………だが、忘れないでおくんなせぇ。戦う覚悟がない訳でも、アークとの交易がなくなって不自由する訳でもねぇんだ。そしてそれは他の街も同じだぜ」
「………心しておこう」
強い眼光に飲まれぬよう、ロードは一瞬だけ二人を鋭く睨み付け、長靴の踵を反した。
「なんて無礼な」
アーク本島に戻り合流したイワンは、普段の冷静な彼に似つかずまさしく怒り心頭といった様子だった。
「どこの街の長も似たようなものばかり。やれ交通を止めるなの一点張りで、事態の深刻さをまるで分かっていない」
イワン隊もすでにいくつかの港を回ってきている。しかしどこも似たり寄ったりの、イワンに言わせるところの無礼千万な返答だったらしい。
アークにとっては緊急事態とはいえ、地上の島々には日々の生活の方が優先されるのはある意味当然だ。かといって事態が事態だけに、理由を明かす訳にもいかず、結果どうしても不尽な要求の形になってしまうのだ。
「だが、それが民意というなら………厄介だな」
ゆるゆると顎を撫でながら漏らされた呟きに、イワンが眉をひそめた。
「どういうことでしょう? 」
「生きるために戦うものは、恐れを知らない。上もそれが分かってる分、余計な火種を蒔いてしまう前になんとかこの件を切り上げようとするだろう。………だがもしそれを狐は見込んでいるとしたら、という話だ」
「それは―――」
イワンが口を開いたそのとき、
ドタドタと長靴が廊下を駈ける音がしたかと思うと、頬を上気させた部下が飛び込んできた。
「―――隊長、今、伝令が! レコ隊が帰島中、銀髪の女が乗船した不審船を発見、先程捕獲したそうです! 」
「それは本当か」
「司令」
突然現れた老人に、ロードらは慌てて敬礼した。
しかし彼は答礼する間すら惜しいといったように、戸口に歩み寄ると伝令に来た青年の肩をぐっと掴んだ。
「ならばその船に乗っていた者すべてを縛り首に、それからすぐに全隊を飛ばし港の封鎖を解け」
「司令! 」
新たな命令を下す上官に、ロードは椅子を蹴倒して立ち上がった。
「今ここで封鎖を解くべきではありません。せめて“フクロウ”の確認が取れてからにしてください! 」
折角狐を追い込むために奪った“道”だ。今、下手に封鎖を解いては万一誤認であった場合、狐に逃げ道を与えてしまうことになる。
「ロード=ギスタフ」
廊下を駈けてゆく足音を見送った司令は、ゆっくりと振り向いた。
「ギスタフ卿の教えを受けた君ともあろうものが、大局を見失っているのでは困るよ」
「大局………? 」
険しい顔で眉間にシワを寄せるロードに、老人は髭を撫でながら鷹揚に頷いた。
「今、アークの事態を地上の民どもにしられれば、彼らは愚かにも一斉蜂起しかねない。我々に必要なのは『事態は速やかに収束した』という事実だ。犯人はそのあとゆるりと狩ればいい」
ふざけるな、と怒鳴りつけそうになった。
民の不満は実際に封鎖のために港を回ってきたロード自身が一番よく知っている。
それでも苦労して取りつけた包囲網を、まさか味方から破られようとは。彼らはこんなことでアークの威信が守られると、本気で思っているのだろうか。
怒りで頭が真っ白になる中、ロードは必死に震える唇を開いた。
「…………そのために無辜の民を殺せと? そんなことをしては民の不信を煽るばかりで、奴に逃亡のチャンスを与えるだけです。封鎖している今のうちに、ローラー式に奴を炙り出すべきです」
ふいにシワだらけの手が目の前に伸ばされた。
「もういい」
ふっ、と老人は微かに憫笑を浮かべると、冷ややかに言った。
「明日、君は指定された席に座って、必要な書類にサインするだけでいい。まだ軍に身を置くつもりなら、君は求められていることだけこなしたまえ」
「ッ………司令! 私は―――」
ロードが言い募る間もなく、老人は踵を反すとその目前に叩きつけるように、音を立ててドアを閉めた。
翌日。
裁きの間に引き出された“フクロウ”は痩せこけた手足を必死にばたつかせる、猿のような老婆だった。
もはやすることもないロードは傍聴席からぼんやりと、この哀れな老婆の金切り声を聞いていた。
“フクロウ”は表向き、今まで通り塔に送られるということになった。恐らく真相を知る間もなくこの裁判という“役目”を終えれば、始末されるだろう。
もう一人の乗員であった男は弁明の間もなく、その日のうちに処刑された。
“事件”の終息と共に各港からは一斉に、ともすれば封鎖の間留められていた分いつも以上に通商が始まった。
こうなってはもう、狐の足取りを掴むことは出来ない。
確信に近かった。
司令をはじめとした上層部がどんな大局を読んでいるのかは知らないが、あの“天涯の月”さえ盗み去った狐だ。そうそう捕まえさせてはくれまい。
―――時に人の心の闇にさえ、“道”は出来る。進み方を定め狭める道が、な。
(追い詰めたつもりが、“道”を狭められていたのはこっちだったって訳か)
揺らめく紫煙。
いつも脳裏に浮かぶその景色の向こうに閃く影は、ロード嘲笑うように見え隠れし、やがて消えていった。
たったひとりの狐が、アーク島守衛軍全部隊を完全に出し抜いた瞬間だった。