死んだ婚約者が帰ってきました。明日は、私の結婚式です
ユリアは、ニコの手を離した。
名前を呼ぶ声が門の方から届き、振り向いた先に立っていた男の、片方だけ少し上がる眉を見た瞬間、見送りの日に言えなかった言葉が喉まで戻ってきた。
気をつけて。手紙をください。待っています。
それは全部、言った。その後にも何か言いたくて、馬が動き出してから口を開き、結局は声にならなかった。
三年前の続きを言おうとするように、一歩踏み出した。
「アラン」
男は笑おうとして、唇を結んだ。
髪が短くなっていた。頬は痩せ、左のこめかみに白い傷があった。けれど首を少し傾けてこちらを見る癖は同じで、ユリアはその顔へ手を伸ばしかけた。
抱きつけば、確かめられる。
そう思って初めて、さっきまで自分の手が別の人の手の中にあったことに気づいた。
ニコは玄関の段の上に立っていた。
二人で明日の式場へ行き、最後の打ち合わせをするはずだった。彼が持っている帽子も、ユリアの肩に掛けた薄い外套も、そのためのものだった。
「ユリア、この人が」
ニコが尋ねた。声は普段と変わらなかったが、続きを待つ間に帽子の縁が少し歪んだ。
「アラン。帰って……来たの」
自分が答えることではない気がした。
アランは門柱へ置いていた手を離し、荷物を持ち直した。片方の靴に乾いた泥がついていた。
「先に宿へ行くつもりだった。君の家の前を通ったら、姿が見えたから」
もっと早く知らせるつもりだったのだと彼は言った。ユリアは聞きながら、姿が見えた、というところばかりを頭の中で繰り返した。
幽霊なら、こちらの姿が見えたとは言わないだろうか。そんなことを考え、すぐに恥ずかしくなった。
「生きていたのね」
「うん」
アランが頷いた。
その返事だけで涙が出た。迎える時には何を聞こうと思っていたのか、三年も考えたはずなのに、名前のほかはうまく出てこなかった。
玄関の奥から母が来た。
ユリアの声を聞いたのだろう。アランを見るなり立ち止まり、戸口に飾りかけていた婚礼の白布を握った。彼の目がそこへ移った。
「誰か、結婚するのか」
ユリアは唇を開いた。
ニコが先に答えた。
「僕とユリアです。明日、式を挙げる予定でした」
アランはニコを見た。それからもう一度ユリアを見た。
何かを探すような目だったので、ユリアは首を振りそうになった。違うと言えば傷つけずに済む。けれど違うことは一つもなかった。
「明日」
アランは同じ言葉を低く繰り返した。
ニコが門まで下り、まず中へ入ろうと言った。手を貸そうとしたが、アランは大丈夫だと荷物を持ち上げた。
ユリアはどちらの後を歩けばよいか分からず、二人が玄関をくぐるのを待っていた。
アランは応接間で帰還を証明する書類を見せた。
捕虜になっていた、と聞いたところまでは覚えている。その後は母が尋ね、彼が答えていた。声が聞こえているのに、ユリアには、卓の上で彼の指が動いていることの方が気になった。
死んだと知らされた時には、手も、顔も、何も確かめられなかった。
今はその人が茶を飲んでいる。
近くの宿へ部屋を頼み、医師に診てもらう手配をして、アランが母と出ていった後も、ユリアは空いた椅子を見ていた。
ニコが彼女の前へ座った。
「明日は延期しよう」
ユリアは顔を上げた。言わなくてはいけないと思っていたのに、先に言わせてしまった。
「ごめんなさい」
「白紙に戻すと言ったわけじゃない。けれど、明日このまま誓いを言われても、僕は聞けないと思う」
頷くと、ニコは帽子を卓に置いた。
式場への連絡は自分がすると言った。遠方から来る人へ使いを出すこと、料理の仕込みは止められないこと、花は今日中に引き取ること。彼が順に挙げる用件を、ユリアは紙へ書いた。
「私の親戚には、私から知らせるわ。費用も、こちらの分を教えて」
「分かった」
ニコはすぐに答え、それから少し黙った。
「君が生きていてほしいと思っていた人が帰ってきた。それは、分かる」
続きはなかった。
ユリアはペンを持つ手を止めた。彼の言葉に甘えて、ありがとうと言ってしまいそうだった。
けれど門の前で離した手を、どう戻せばいいのかは分からなかった。
◇
翌朝、父が役所から戻り、アランとの婚約は戦死の公示を受けて終了したままだと伝えた。
生還の記録は訂正されるが、婚約まで元に戻るわけではない。改めて結ぶなら、二人の申し出が要るという。
ユリアはその説明を聞きながら、引き出しに残っている古い手紙の束を思った。紙の上では終わっていた。そのことは昨日までも知っていた。
午後、アランが泊まっている宿へ行った。
客間に入ると、彼は立ち上がって椅子を引いた。左手を使う時だけ少し動きが遅い。医師には、傷は塞がっているが無理をしないよう言われたそうだった。
「君は座る前に、必ず窓を見るんだったな」
ユリアは窓から目を戻した。
部屋に入ると光の向きを確かめる。今は布の色を見る時にもそうしているが、その癖は織物の仕事を始めるずっと前からあった。
「覚えていたの」
「ほかにも覚えてる」
彼が笑った。昨日うまく作れなかった笑顔だった。
ユリアも少し笑い、椅子へ座った。顔を見ているだけで、言わずに済むことがたくさんある気がした。何を飲むか聞かれ、熱すぎないお茶を、と言おうとすると、アランはもう給仕へそのように頼んでいた。
彼は戦場から戻るまでのことを話した。
部隊から切り離されて捕らわれたこと。負傷して名を答えられない間に持ち物が別の兵のものとまとめられ、死者として処理されたらしいこと。捕虜の移送が続き、手紙を託せるようになった時には、戦っていた領主も変わっていたこと。
書いた手紙のうち、どれが途中で捨てられ、どれが届かなかったのかは分からない。
「最後は捕虜の交換だった。港まで戻って、帰還の登録を直してもらった。家にはそこから使いを出してある」
ユリアは頷いた。
待っている間に、彼が自分から帰らない道を選んだのではと考えたことがあった。そんなはずがないと思い直しても、眠れない夜には同じ疑いが戻った。
彼が帰れなかった間の話を聞くと、その疑いまで口にして許してもらいたくなった。けれど今、彼に聞かせることではないと思った。
「どこかで、また倒れたのではないかと思っていたわ」
「倒れたことはある。働けなくなって、飯を分けてもらえなくなったことも」
アランは湯気を見た。
「一緒にいた男に、故郷で何をするつもりだと聞かれた。宿をやると言ったら、客室はいくつだって。それで、端から説明していた」
彼は卓の上へ指を置き、見えない廊下を引いた。
玄関を入って右が食堂。奥が厨房。階段を上がると八つの客室があって、西の端は風が強いから窓枠を直す。
ユリアにはその建物が見えた。婚約した夏に泊まり、アランと古い床を歩きながら、どの部屋をどう使うか話した宿だった。
「海が見える角の部屋は、客には貸さないんだと言った」
アランの指が止まった。
ユリアが、朝起きて海を見たいと言った部屋だ。二人の寝室にして、窓際には彼女の小さな机を置くつもりだった。
「そこは俺と君の部屋だから」
返事をしようとして、お茶を一口飲んだ。
温度はちょうどよかった。そのことまで覚えていてくれた人の前で、ユリアは、自分が最後にその窓を思い出した日を探していた。
戦死の知らせが来た年は、何度も思い出した。
次の年には、窓際へ置くはずだった机で織りの図案を描き始めた。工房へ持っていった最初の布は端が歪み、売る品にはできないと言われた。それでも通い、織機の使い方を教わり、持っていた金を出して共同経営に加わった。
今は工房の二階に自分の机がある。
「私、織物を作っているの」
アランは顔を上げた。
昨日は話せなかった工房のことを、ユリアは少しずつ話した。縞を織るだけでも糸の張り方で歪むこと。染めた時には同じ色に見えた糸が、乾くと違って見えること。冬用の外套地を、仲間と相談して初めてまとまった数で受注したこと。
話しながら指で布の厚みを示すと、アランはその手を見て笑った。
「そんなふうに話すようになったんだな」
「どんなふう?」
「止まらない。前は、人に聞かれた分だけ答えてた」
ユリアは口を閉じ、彼も笑うのをやめた。
「悪い意味じゃない。楽しそうだと思った」
「ええ。楽しいわ。うまくいかない日は、ずっとそのことを考えてしまうけれど」
窓の外を荷車が通った。工房で使う糸を積んだ車と似ていて、ユリアは反射的にそちらへ目をやった。
アランも見た。
「宿でも、布は使う。君の作ったものを掛けられたらと思うんだが」
褒めてもらえたことは嬉しかった。
けれどその続きを想像すると、自分の机は海辺の部屋へ戻り、冬に納める布を確かめるのは別の誰かになった。
「今は、この町を離れられない。冬の注文を引き受けたばかりなの」
「冬が終わってからでもいい」
ユリアは膝の上で指を重ねた。
冬の後には春の品を作る。まだ注文はなくても、次に試したい織り方は決めていた。それを説明したら、彼は春の後を尋ねるだろうか。
「約束は、覚えているわ」
「うん」
「忘れていたわけではないの」
アランは黙って待った。待たれるほど、続きが出てこなかった。
机の上に、彼が指で描いた廊下がまだ残っているようだった。
「父と妹で宿は続けている。帰ったら俺が代わるつもりだったけど、話してみることはできる」
彼はゆっくり言った。
「君がここにいたいなら、俺がこの町に残ることも考える。ほかの仕事を探してもいい」
ユリアは彼の顔を見た。
宿から離れられないと言ってくれた方が、答えやすかった。今は、その簡単な理由を彼の方から取り除こうとしていた。
「そこまで決める前に、少し時間をください」
アランの目が伏せられた。
ユリアは、待っていますと言った日の彼が、自分にこんな返事をされるとは思わなかっただろうと考えた。
彼はやがて頷き、茶を注ぎ足そうとした。ユリアがもう十分だと告げると、急須を置いた。
まだ帰りたくなかった。けれどここにいれば、彼が次に持ち出す未来の話にも、同じように頷きかけてしまう。
ユリアは椅子を引いた。戸口へ向かう時、アランは手を差し出さなかった。
◇
翌日は、ニコと一緒に延期の後始末をした。
花屋にはもう飾りがなく、式場へ運ぶはずだった花の残りが水桶に浸けてあった。料理人からは使った材料と人手の分の請求を受け取り、親戚へ出した使いのうち、誰が戻ったかを確かめた。
ニコは費用の控えをユリアへ渡した。頼んだ通り、自分の家が払う分と彼の家が払う分が分けてある。
いつもの彼なら、見せる前に必ず一言、何かを言った。高い料理ほど皿が小さいとか、花にも港の相場を教えてやりたいとか。今は二人とも必要なことしか話さなかった。
北側の通りに借りた家にも立ち寄った。
結婚したら住むはずの家だ。鍵を開けると、ニコが先に入り、運び込まれた長椅子に掛けてあった布を直した。
港の商会までは馬車で半日かかる。跡取りである彼が毎日ここから通うことはできず、月の半分ほどは港に泊まるという話になっていた。
ユリアは工房へ歩いて行ける。この家を選んだ時、そのことを二人で喜んだ。
「窓掛けは、まだいいね」
ニコが言った。
ユリアは頷いた。採寸をして、部屋ごとに布を選ぶはずだった。間取りはもう決まっているのに、今日は、どこにも自分の荷物を置けなかった。
工房へ着くと、仲間から糸の見本を渡された。
冬の注文に使う灰色だった。同じ染め場から届いた束でも色に差があるので、見本と照らして分けなくてはいけない。
今日までに返事をしなければ、次の染めに回せなくなる。
ユリアは窓際へ束を運び、端をほどいた。ニコは入口の壁に寄りかかって待った。
「急がなくても、私たちでやれるよ」
仲間はそう言ってくれたが、ユリアは首を振った。
自分が受け持つと決めた仕事だった。何もかも人に頼んだまま、二人の男の顔だけを考えていたくもなかった。
窓際の台に糸を並べる。最初の束を選びかけ、下に置く布の色が違うことに気づいた。同じ白布に載せ直すと、さっきまで気にならなかった青みが見えた。
すぐ隣で、ニコが息を吐いた。
「糸屋への返事は、今日できるんだね」
ユリアの手が止まった。
仲間が奥へ去り、織機の音だけが残った。
「こちらは、答えが出せることだから」
「僕には、いつ出る?」
ニコは言ってから唇を押さえた。けれど取り消さなかった。
ユリアは糸束を置いた。
「昨日、会ってきたわ」
「知っている」
「海辺の宿のことを話したの。昔、そこで暮らすと約束していて――」
「それを、僕にどう聞いてほしい?」
言葉が止まった。
ユリアは彼のところへ持っていけば、まだまとまらない考えも話せると思っていた。これまでは、悩むと何でも彼に話していたから。
ニコは壁から背を離した。
「別れ話の相談なら聞けない。彼とやり直すかどうかの相談も、僕はうまく答えられない」
「そんなつもりでは」
「君が泣いたら慰めたいとは思う。でも、その後で彼の所へ送り出す役を、何度もできるとは約束できない」
ユリアは頷けなかった。頷くと、もう今までのようには彼を頼れないことが決まってしまう。
彼はその沈黙を見て、先に目を逸らした。
「僕が全部払えば、しばらく仕事も休めるんじゃないか。注文をほかへ回した分は商会で――」
「仕事をなくせば答えられるわけじゃない」
思わず声が強くなった。
「私がここに来たいの。織るのも、返事をするのも、人に任せておきたいわけではないわ」
ニコの眉が動いた。
ユリアは、彼が困るたびにそうしてきたことを思い出した。運びきれない荷を見れば荷車を呼び、人手がなければ雇う。それで間に合うなら、彼は迷わず金を使う。
今日はそのやり方で、彼自身の待つ時間を短くしようとしていた。
「……そうだね」
ニコは糸の台へ手を置きかけ、触れずに下ろした。
「いつまでも待つと言えば、君は楽になる?」
ユリアは彼を見た。
言ってもらいたかった。何度考え直してもここにいてくれるなら、アランの前で答えられなかった続きを、もっとゆっくり探せる。
その間、この人が何をして過ごすかを考えていなかった。
「十日、時間をください」
ニコは黙っていた。
「十日後に、二人に返事をする。今夜すぐには決められない。でも、決めるのを先へ延ばしたくて、その日を変えることはしない」
「分かった。十日後だね」
彼は日付を口にした。ユリアも同じ日を繰り返した。
ニコは明日から港へ戻り、商会の仕事をするという。手紙はいつもの帳場へ届けてほしい。ただ、答えが出る前に新しい式の準備はしない。
ユリアはそれにも頷いた。
彼を見送って窓際へ戻ると、糸がほどいたまま残っていた。
仲間が、これとこれは色が揃うと思う、と束を寄せた。ユリアは見本を取り、違うと思う方を戻した。
今日の注文を引き受けたからといって、十日後に何と言うかが勝手に決まるわけではない。
それでも、この色で織ってみたいという気持ちは確かだった。ユリアは自分の担当する分の札に名を書き、染め場へ返す束を選んだ。
◇
アランにも同じ期限を伝えた。
十日間は、思っていたより短かった。工房へ行き、家へ戻り、夜になると古い手紙を開いた。海辺の宿について書かれた一通には、ユリアの字で部屋の寸法が書き足してあった。
窓際の机はここに置く。寝台は朝日の当たらない壁へ。食堂の窓掛けには、洗いやすい布を使う。
昔の自分が欲しかったものは、曖昧な夢ではなかった。
そこに暮らすための支度を、本当にしていた。
けれど今、同じ手紙に書き足そうとしても、何も浮かばなかった。
アランに会うと、顔を見ていたくなる。頬が少しふっくらしたことに安心し、話の途中で笑うと嬉しかった。その気持ちは消えなかった。
一方で、工房で新しい布を織り上げた日の帰りには、ニコへ何と話そうか考えていた。
売りにくいと言われた色が、窓辺ではこんなに綺麗に見える。今度こそ買いたくなるかしら。
彼ならすぐ褒めることも、遠慮して頷くこともしない。客が着るところを想像し、もう少し薄くできないかと聞き、ユリアはまた、あなたはすぐ簡単に言う、と言い返すだろう。
その続きを、会えない間も考えていた。
十日後の朝、ユリアはアランの宿を訪ねた。
客間には、以前と同じ席が空けてあった。アランは家から来た手紙を持っていた。妹がひどく怒っている、戻ったならまず顔を見せろと書いてある、と言って笑った。
「俺も、そうすべきだったと思う。けれど君に会ったら、ここから動けなくなった」
ユリアは椅子の背へ手を置いた。
アランが続きを言いかけたので、遮る形になってしまった。
「アラン。今日は返事をしに来たの」
彼は手紙を伏せた。
ユリアは座った。外套を膝へ置くと、指がその端をつまんだ。布を整えている間だけでも黙っていたかったが、彼はもう何も話さなかった。
「あなたとは、結婚しません」
アランの目が動かなかった。
ユリアは外套から手を離した。
「帰ってきてくれて、本当に嬉しい。あの日、門で顔を見た時、抱きつきたかった。今でも、生きていると分かって嬉しいの」
「でも、結婚はしない」
ユリアは頷いた。
アランは視線を卓へ落とし、手紙の角を指で押さえた。
「宿のことなら、父に話した。この町で働くつもりなら、それも考えろと言ってくれた」
彼女の仕事を邪魔しない。今すぐ海辺へ来なくていい。父と妹の手助けは、ほかのやり方でもできる。
アランは急がずに話した。ユリアが以前言ったことを、一つずつ覚えていた。
「それでも、同じ返事か」
「ええ」
彼の手が紙から離れた。
「そうか」
短い返事の後に、椅子を引くような音がした。けれどアランは座ったままだった。立ちたいのか、話を続けたいのか、彼自身も決められないように見えた。
「工房のせいにしたわ」
ユリアは言った。
「この町を離れられないからと。それも本当だけれど、あなたが残ってくれるなら解決する話ではなかった」
「俺が変わったからか」
ユリアは彼を見た。傷の方を見ないようにしたのではない。顔全体を見たかった。
「あなたの傷や、帰ってくるまでのことが理由ではないわ。私が、あなたと暮らすつもりでいたところから、別の暮らしを始めてしまったの」
説明すればするほど、彼がいなかったことを責める言葉に聞こえそうだった。
アランもそう聞いたのか、眉を寄せた。
「戻りたくて、戻れなかったんだ」
「分かっている。あなたに、もっと早く帰ってきてほしかったと言いたいのではないの」
声が細くなった。
アランは俯き、しばらくして額に手を当てた。
「俺には、毎日続いていた」
ユリアは動けなかった。
「宿へ戻って、君を連れていく。窓枠を直して、机を入れる。そんなことを考えてた。何もできない日には、どの部屋から片づけるか考えた。君の返事を想像して、違うと言われそうな所まで直して」
アランは一度口を閉じた。
「帰ってきたら、話せると思っていた」
ユリアの目に涙がたまった。
今からでも聞ける、と言いそうになった。彼が望むならいくらでも聞き、昔のように窓掛けを選び、机の位置を言い直すことはできる。
それを始めれば、次にはいつ来るかを尋ねられる。
隣で目を覚ます人の顔を思い浮かべた時、ユリアの心に浮かぶのはニコだった。
「待っていると言ったのに、ごめんなさい」
アランが顔を上げた。
「俺が死んだと聞いたんだろう。責められないことくらい、分かってる」
声は強かった。
「分かっているから、余計に……どこへ言えばいいのか分からない」
彼は拳を握り、ほどいた。ユリアは卓を回って隣へ行きたくなった。背に触れて、もう一人ではないと言いたかった。
立ち上がりかけて、膝の外套を抱え直した。
「今、結婚したいのは、ニコです」
アランの息が止まったように見えた。
ユリアは彼から目を逸らさなかった。工房や町の話だけを続けていれば、この一文を言わずに済んだ。その間、彼は自分に変えられることを探し続ける。
「あなたと過ごした時間を、間違いだったとは思っていない。あの頃は、一緒に宿をやりたかった。あなたの妻になりたかった」
「今は、違うんだな」
「ええ」
アランは窓へ顔を向けた。
道を通る人の声が聞こえた。部屋の外では給仕が食器を下げている。音が一つするたび、彼がこちらへ向き直るのではないかと、ユリアは待った。
許したと言ってほしかったのだと思う。
彼は何も言わなかった。
「今日、荷物をまとめる」
しばらくしてアランが言った。
「明朝、家へ帰る。妹に叱られてくる」
冗談めかそうとした声だったが、笑いにはならなかった。
ユリアは頷いた。
「式には呼ばないでくれ」
「分かったわ」
「幸せになれと、今は言えない」
ユリアはもう一度頷いた。
それに、いつかは、と続けることはできなかった。
彼は立ち上がり、戸口まで歩いた。扉を開けて待つ姿は、昔と同じだった。
ユリアは外套を腕に掛け、卓の脇を通った。片づけられないままの茶器と、彼の家から来た手紙があった。初めてこの客間へ来た時には、海辺の家族が待つ先まで二人で歩くような気がしたのに、ユリアはひとりで扉をくぐった。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
振り返って言うと、アランは唇を噛んだ。
「生きて帰ったことまで、後悔はしていないよ」
ユリアは彼を見た。
まだ何か言いたかった。けれどアランが扉に手を掛けたので、廊下へ下がった。
静かに閉まる音を聞いてから、ユリアは外套の襟へ顔を寄せた。泣きやむのを待ち、ひとりで階段を下りた。
◇
ニコとは、夕方に借家で会う約束だった。
ユリアが着くと、彼はもう来ていた。港から戻ったばかりらしく、旅行鞄を床へ置き、卓の上には封を切っていない商会の手紙を積んでいた。
戸口でユリアを見て、手紙から手を離した。
「座る?」
長椅子にはまだ覆いが掛かっていた。彼が外そうとしたので、ユリアは端を一緒に持った。畳もうとして互いに違う方へ折り、布が斜めになった。
ニコは先に手を離した。
ユリアが畳み終えるのを待ってから、向かいの椅子へ座った。
「ニコと結婚したい」
用意した言葉はあったのに、それしか言えなかった。
ニコは目を伏せた。すぐには返事をしなかったので、ユリアは膝の上の布を置き、両手を空けた。
「その返事を、ずっと待っていた」
彼は静かに言った。
「なのに今、喜んで君の所へ行けばいいのか、もう少し聞けばいいのか分からない」
「聞いてほしい」
ニコは頷いた。
ユリアは午前中にアランへ返事をしたことを伝えた。何を言われ、どんな顔をされたかは話さなかった。彼が家へ帰ることと、結婚しないという返事を変えなかったことだけ話した。
「宿へ行けないからではないの。あの人がこの町に残ると言ってくれても、同じ返事だった」
ニコが少し身を起こした。
「それを、僕に聞かせるために言っていない?」
ユリアは息を止めた。
彼はすぐ顔を上げた。
「ごめん。今の聞き方は嫌だったね。けれど、君が負い目でここへ戻ってくるのも怖かった」
「費用を払ってもらったからでも、待ってくれたからでもないわ」
ユリアは卓に置かれた手紙を見た。港の帳場から届く、いつもの封筒だった。
以前は彼が実家へ訪ねてくるたび、新しい荷や、商談で腹を立てた相手の話が増えた。ユリアも今日の布を見せ、どちらが先に話すか決まらないまま、夕食の時間になった。
「あなたが帰ってきた時に、一日の話をしたい。聞いてもらうだけでなくて、あなたが今日どこへ行ったのかも知りたい」
ニコは黙って聞いた。
「この十日も、工房から帰る道で、あなたなら何と言うか考えていた。売れないと言われた色を、やっぱり織ってみたの」
「あの灰色?」
「ええ。見たら、意見を変えるかもしれないわ」
彼の口元がわずかに動いた。
「見ないうちには変えないよ」
ユリアは頷いた。
その返事を聞くと笑いたくなり、同時に泣きたくなった。アランの前で泣いた涙がまだ残っているようで、笑うことまでためらった。
ニコが卓から手を離し、背を椅子へ預けた。
「僕は彼に嫉妬している。君が戻ってきたら消えると思っていたけど、そんなに早くは無理らしい」
「門の前で、手を離してごめんなさい」
ニコはユリアの手を見た。
「引き戻したかった。僕と一緒にいたのに、どうして、と思った」
その時の気持ちを言ってくれたことに、ほっとしてはいけないような気がした。ユリアは何も挟まず聞いた。
「生きて帰った人にまで腹を立てていたよ。君には言えなかったけれど」
ニコは髪をかき上げた。
いつも手早く結論を出す人が、今日は同じところで何度も言葉を探していた。
「工房の注文を金でどうにかすると言ったのも悪かった。君の手を空ければ、早く僕を選んでくれるかもしれないと思った」
ユリアは彼を見た。
「そういう言い方は、これからも嫌だと思う」
「うん」
「でも、いつまでも待ってくれると、私も思っていた。あなたに話せば、私が決めるまで困った顔をしながら付き合ってくれると」
ニコは息を吐いた。
「付き合いたくなってしまうから困るんだ」
少しだけ、いつもの口調だった。
ユリアが笑うと、彼も口元を緩めた。二人ともまだ目は笑いきれなかった。
「この家で暮らしたい」
ユリアは部屋を見回した。
窓掛けのない窓と、覆いを外した長椅子。奥には、買ったばかりの食器が箱のまま積んである。
「冬の布は最後まで担当する。あなたの仕事も、港からこちらへ移してほしいとは思っていないわ。ただ、会えない日を何となく決めたまま、式だけ先に挙げようとしていたかもしれない」
ニコが頷いた。
「月の半分は港だと言ったけど、続けて留守にする週もある。船が重なれば、戻る日が変わることも」
「分かっている。でも変わった時は、短くても知らせてほしい。大丈夫だろうと勝手に決めて待っているのは、苦手だから」
「使いは出す。予定が分かった時点で」
ユリアは卓の端へ指を置いた。
「私も港へ行く。冬の納品までは長く休めないけれど、ひと月に二晩くらいなら、工房のみんなと相談できる」
「無理に来ることはない」
「あなたのいる所にも行きたいからよ。市場も見たいし、知らない糸もあるでしょう」
ニコは今度こそ笑った。
「僕に会うのと、糸を見に来るのは、どっちが先?」
「着くのは、あなたの所よ」
答えてから、ユリアも笑った。
ニコが隣の席へ移ってきた。長椅子の端が沈み、二人の肩の間にあった空間が狭くなった。
港から戻った日の彼の髪には、たいてい潮の匂いが残っていた。今もわずかにそれがして、ユリアは彼の肩へ頬を寄せたくなった。以前、実家の玄関で帰ろうとする彼を呼び止め、話すことはもうないのに、しばらく袖をつかんでいたことがある。彼は馬車を待たせたまま、離したくなるまでそこにいてくれた。
「僕も、こっちにいる夜は帳場の仕事を持ち帰りすぎないようにする。いつもできるとは言えないけど、夕食まで商談にしない」
「私も、食事の途中で布を取りに立たない」
「それは一度くらいならいい」
ユリアが顔を向けると、彼は少し困ったように続けた。
「君が何かを思いついた顔は、好きだから」
ユリアは彼の袖に触れた。
離してしまった手へ、すぐ戻る勇気はまだなかった。ニコはその指を見て、上から軽く押さえた。
「もう一度、日を決めようか」
今度はユリアが尋ねた。
ニコは頷き、港へ出す船の予定を鞄から取り出した。彼の空く日と工房の納品日を照らし、一か月後の午後を選んだ。
前と同じ人数を呼ぶのは難しかった。遠くの親戚へもう一度旅を頼まず、両家と親しい仲間だけに声をかける。式場にも空きを確かめなくてはいけない。
ユリアは紙へ日付を書き、その下に二人分の名前を書き添えた。
ニコが肩越しに覗いている。インクが乾くまで、ユリアはそのままでいた。
◇
一か月後、式の日の朝も、ユリアはいつもの時刻に目を覚ました。
窓の外を荷車が通り、実家の台所から椅子を引く音がした。寝台の横には、今日着る服が掛けてある。裾の折り返しを昨日まで気にしていた母は、もう朝食の支度を始めているらしかった。
起き上がって戸棚を開けると、畳んだ服の脇に、小さな箱が見えた。
アランからの手紙は、そこにしまってあった。
故郷に着いたという知らせが届いたのは、彼が町を出てから七日後だった。
父親に会ったこと、妹が食事中まで怒っていたこと。長く閉めていた宿の部屋を開けるので、翌日は窓を洗うつもりだと書いてあった。北側の窓枠が思っていたより傷んでいて、まずそこから直す、と。
海の見える角部屋については、何もなかった。
ユリアは何度か読み返し、父親たちに会えたことを喜ぶ短い返事を書いた。こちらの式の日は記さず、返事も求めなかった。
手紙の末尾を埋めようとして、どうぞ元気で、と書くまでに長くかかった。
箱の下には、まだ婚約していた頃の手紙もある。宿で使う卓布の色を尋ねるものも、今年は海鳥がうるさいと書いただけのものもあった。
今日はそれを取り出さず、ユリアは箱の隣から肌着を取った。
箱はしばらく実家に置いておく。母には、そう頼んでいた。
式は午後からだった。
前に頼んだ会場の、小さい方の広間が空いていた。昼を少し過ぎた頃から、家族と友人が集まってきた。
控えの部屋にいても、工房の仲間の声はすぐ分かった。いつも一番大きな声で笑う人が、今日は静かにしようとして、かえって妙な声を出している。
ユリアは戸口へ寄り、少しだけ顔を出した。
「何を笑っているの?」
「あなたの旦那さん。廊下の端まで行っては戻ってくるから、こっちまで落ち着かなくて」
仲間の肩越しに、ニコが見えた。
いつもより襟の高い上着を着て、母親に何か言われている。ユリアと目が合うと、話の途中でこちらへ来ようとした。袖をつかまれ、残りの話を聞いてから、ようやく歩いてきた。
「待たせた?」
「まだ時間前よ」
「それは知っている」
言いながら、彼は廊下の時計を見た。
ユリアはその襟元へ手を伸ばした。中の布が折れて、首に当たっていた。指で直してやると、ニコは顎を少し上げて待った。
「朝からそこばかり触っていたでしょう」
「よく見ているね」
「皺になっているもの」
直し終えても、ニコはすぐに動かなかった。
彼の息が頬にかかる近さで見上げていると、ユリアの方まで緊張してきた。この人と二人で、皆の前へ出ていく。何度も思い描いたはずなのに、今になって足元が頼りなくなった。
「今夜は、あの家へ帰るんだね」
ニコが言った。
ユリアは頷いた。昨日、母と運んだ服を戸棚に収めてきた。ニコの荷物も届いていて、玄関には、大きな靴と彼女の普段履きが並んでいた。
「食器は、全部出したわ。あなたの鞄は階段の途中に置かないでね」
「あれは一度だろう」
「あの段だけ、暗いのよ」
ニコは上着の襟に触りかけ、途中で手を下ろした。
「灯りを置く場所も、帰ったら決めよう」
広間の扉が開き、父が二人を呼んだ。
中には見慣れた顔が揃っていた。ユリアの母とニコの両親が席を譲り合い、奥から椅子を寄せる音が聞こえた。
ここに来ない人の顔を、ユリアは一度、思い浮かべた。胸の奥が痛んだが、扉の外を振り返らなかった。
隣へ手を伸ばし、ニコの手を取った。
彼が握り返すのを待って、ユリアは広間へ足を踏み入れた。




