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病弱令嬢、嫁ぎ先の毒見で初めて褒められる

作者: 星舟能空
掲載日:2026/09/03

 婚礼の祝膳から、ロザリアが嗅ぎ慣れた死の匂いがした。


 焼いた鹿肉に森苺のソース。黒胡椒と葡萄酒、焦がし蜂蜜。湯気の向こうには、今日から夫となった国境侯エノクがいる。

 彼が銀の小刀を肉へ入れようとした瞬間、ロザリアは卓布をつかんだ。


「お待ちください」


 祝いの楽師が一音を外した。

 百人近い客の視線が、白い花嫁衣装のロザリアへ集まる。長旅のせいで指先は震え、胸は浅い息しか吸えない。それでも、あの匂いを間違えるはずはなかった。


「そのソースには、黒鈴草が入っています」

「黒鈴草?」

「根を煮詰めたものです。冷えている間は森苺に似ていますが、温めると、最後に濡れた鉄のような匂いが残ります。どうか、召し上がらないで」


 ざわめきの中で、料理長が青ざめた。

「そのような物は厨房にございません!」


 エノクは肉ではなく、ロザリアを見た。濃灰色の瞳は鋭い。生家で父が向けた、また面倒を起こしたのかという目を思い出し、ロザリアの喉が縮む。

 きっと謝らなくてはならない。せっかくの婚礼を止めたことを。役立たずのうえ、場もわきまえない娘だと――。


「確かめる方法は?」


 叱責ではなかった。

 ロザリアは息を継ぎ、腰の小袋から銀匙を出した。幼いころに亡くなった母の形見で、旅先でも薬を量るため、これだけは手放さなかった。


「匙へ一滴載せ、蝋燭の火で温めます。黒い輪が出れば」

「君が口にする必要はないのだな」

「はい」

「では、やってみよう。料理長、全ての皿を下げろ。誰にも味見をさせるな」


 エノク自身が蝋燭を運んだ。ロザリアが匙へソースを落とすと、赤い雫の縁に、髪の毛ほど細い黒輪が浮いた。

 守備隊付きの薬師が別の試薬でも調べ、毒だと認めた。鹿肉を運んだ給仕はその場で保護され、厨房と貯蔵庫には兵が向かう。


「ロザリア」


 夫に名を呼ばれ、彼女は肩をすくめた。


「よく気づいた。止めてくれて、ありがとう」


 ありがとう。

 たった五文字が、どんな薬よりも強く胸へ染みた。


 誰かの具合が悪くなる前に気づいたことを、褒められたのは初めてだった。


     ◇


 ロザリアは幼いころから、季節の変わり目ごとに熱を出した。

 七歳の冬に高熱で倒れて以来、生家の侍医が調合した褐色の滴薬を朝昼晩と飲んできた。飲めば手足から力が抜け、頭に霧がかかる。訴えても、父は「薬が効いて眠くなるのは当然だ」と言い、継母は「静かでいてくれる方があなたのため」と微笑んだ。


 刺繍も舞踏も満足にできない娘に、教師をつけるのは金の無駄。

 社交に出せば倒れて恥をかく。

 妹の婚約に差し障る前に、辺境へ嫁がせてしまおう。


 そうしてロザリアは、二十二歳で北の国境侯へ送られた。

 父が持たせた紹介状には、病弱ゆえ世継ぎは望めないかもしれない、静かな部屋さえあれば迷惑はかけない、と書いてあった。荷物の底には半年分の滴薬が詰められていた。


 婚礼の翌朝、ロザリアは客室の寝台で目を覚ました。

 夫婦の寝室ではない。宴の騒ぎのあと、エノクが「今夜は休むべきだ」と客室まで送り、侍女を一人だけ残して出ていったのだ。


 窓辺の机に朝食が並ぶ。白パン、薄い鶏のスープ、林檎の煮物。どれも蓋つきの器に入り、横には料理長の署名札が置かれていた。

 安心させるための工夫だと分かるのに、匙を持つ手が動かない。


「無理に食べなくていい」


 扉の外からエノクの声がした。入室の許しを待っているらしい。

 ロザリアが返事をすると、彼は女医を伴って入ってきた。女医はマイアと名乗り、まず薬箱ではなく椅子を寝台から少し離して置いた。


「奥方様。診察してよい箇所と、今日は触れられたくない箇所を教えてください」


 そんなことを尋ねる医師も初めてだった。

 ロザリアは胸の音を聞くこと、手首へ触れることを許した。マイアは何度も確認しながら診察し、最後に褐色の滴薬を光へ透かした。


「これはいつから?」

「七歳からです」

「量は変わらず?」

「いいえ。体が大きくなるたび、効きにくくなるからと増やされました」


 マイアの眉間に深い溝ができた。

「鎮花滴に似ています。高熱時の痙攣を抑える薬ですが、連用するものではありません。しかも、この沈殿は――断定には検査が要ります」


 エノクが薬瓶へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

「調べてもよいか、ロザリア」


 父なら、とっくに取り上げていただろう。

 夫は許可を待っている。


「一本だけ、お渡しします。残りは私が持っていても?」

「もちろんだ」

「急にやめる危険もあります」とマイアが続けた。「少しずつ減らし、身体の反応を見ましょう。決めるのは奥方様です。私は利点と危険を説明します」


 決めるのは、あなた。

 その言葉も、ロザリアには聞き慣れなかった。


「では、減らしたいです」


 声はかすれたが、自分で口にすると、窓が一枚開いたような気がした。


     ◇


 婚礼膳の毒は、ソースの壺へ後から混ぜられていた。

 狙われたのはエノク一人。北方諸侯と隣国との休戦交渉を嫌う何者かが、婚礼の混乱を利用したらしい。


 守備隊は給仕を拘束しようとしたが、ロザリアは彼の袖に残った匂いから、壺を運んだだけだと気づいた。黒鈴草を扱えば、樹脂の匂いが二日は指へ残る。給仕の手からしたのは玉葱と石鹸だけだった。


「では、誰が触れた?」とエノクが尋ねた。

「分かりません。でも、貯蔵壺の封蝋に付いた布くずを見せてください。根を砕くときは、粉が飛ばないよう濡れ布で包むはずです」


 調べると、厨房裏の井戸から黒く染まった麻布が見つかった。麻糸の撚り方は、軍の薬品倉庫で使う袋と同じだった。

 そこまで告げたところで、ロザリアの視界が暗くなった。


 気づけば長椅子に寝かされ、会議は止まっていた。


「申し訳ございません」

「何について?」

「途中で倒れました」

「倒れる前に休ませなかったのは私の失敗だ」


 エノクは卓上の書類を閉じた。

「捜査は兵の仕事だ。君が知っていることを話すのも、今日は話さないのも、君が決めていい。毒を見抜いたからといって、今後ずっと危険な皿の前へ座らせるつもりはない」


「ですが、私にできることは、それくらいです」

「違う。君が今すべきことは、生き延びることだ」


 強い口調だった。けれど命令の最後に、彼は不器用に付け足した。


「できれば、ここで。私と」


 ロザリアは返事をできなかった。

 ただ、頬が熱くなった。熱が出たのではないと、自分でも分かった。


 その日から、彼女の生活には「休む予定」が入った。

 午前に一時間書物を読めば、昼までは横になる。診察のある日は来客を断る。体調が悪ければ食事は部屋へ運び、良ければ食堂まで歩く。


 エノクは南向きの小部屋を空け、棚と流し台を入れた。

「研究室だ」と彼は言った。

「私に?」

「薬草帳を見た。余白まで小さな字で埋まっている。十五年分の観察を、寝台の下へしまわせておく方が損失だ」


 生家では、薬草帳は「病人の暇つぶし」と笑われた。

 ロザリアは花の香り、乾かした根の色、煎じたときの泡立ちを記録してきた。薬を飲んだあと、自分の身体に何が起きたかも。


 研究室の鍵を手渡され、彼女は泣いた。

 エノクは理由を問い詰めず、棚の高さが合わなければ直す、とだけ言って退出した。翌朝、踏み台を使わなくても届く位置へ、全ての棚板が下げられていた。


     ◇


 滴薬を減らす日々は、まっすぐな回復ではなかった。

 眠れない夜があり、指が震える朝があり、三日も起き上がれず、元へ戻したくなることもあった。


 それでも一月すると、食堂まで歩いても息が切れなくなった。

 二月すると、朝に読んだ本の内容を夕方まで覚えていられた。

 三月目には、城壁の上から春の谷を見下ろした。


 エノクは歩幅を合わせたが、腕を貸すのはロザリアが頼んだときだけだった。彼は会議の合間に研究室へ顔を出し、薬草について無知な質問をした。


「この紫の花は毒か?」

「量によっては薬です」

「では、こちらは?」

「食べられます」

「昨日、兵が腹を壊した」

「葉ではなく根を食べたのでは?」


 翌日、根を焼いた兵士三人が反省文を書いた。

 ロザリアが笑うと、エノクは目を見開いた。珍しい生き物を見つけたような顔をされ、彼女は口元を隠す。


「笑ってください」と彼は言った。「その方がいい」

「侯爵閣下は、お命を狙われているわりに、研究室ではずいぶん呑気でいらっしゃいます」

「ここでは、私の無知が主な危険らしいからな」


 そのころ、マイアの検査結果が出た。

 滴薬には、本来の鎮花草のほか、眠り苔と鈍根の抽出液が通常の四倍入っていた。意識と筋力を長く抑える配合だった。


 故意か誤りかを確かめるため、エノクは生家へ照会状を送った。返ってきたのは父の署名入りの手紙だった。


『娘は神経質で、薬がないと騒ぎ立てる。辺境の医師が余計な希望を持たせぬよう、従来どおり服用させられたい』


 同封された侍医の記録には、十二歳の時点で「痙攣は五年間再発なし、減薬可能」とあった。その横に、父の筆跡で「社交に出す予定なし。現状を維持」と追記されていた。


 ロザリアは手紙を二度読んだ。

 悲しみより先に、静かな怒りが来た。

 治らなかったのではない。治るかもしれない娘より、眠っている娘の方が都合よかったのだ。


「この件を公にすることもできる」とエノクは言った。「君の父と侍医には、少なくとも説明する責任がある。だが、私が決めることではない」


「お任せします、と言えば楽なのでしょうね」

「楽でも構わない」

「いいえ」


 ロザリアは薬草帳の新しい頁を開いた。


「私が証言します。私の身体に起きたことですから、私の言葉で記録してください。ただし、すぐ裁判にするのではなく、まず領内の患者を調べたいです。同じ処方をされている人がいるかもしれません」


 エノクはうなずいた。

「分かった」


「それから、お願いがあります」

「いくつでも」

「薬品を、届いたあとだけ調べても遅いと思うのです。仕入れ、保管、調理の三か所で記録を残す制度を作らせてください」


 エノクの口元が、ほんの少し上がった。

「それは願いではなく、提案だな」

「駄目でしょうか」

「採用する。責任者の名は?」


 答えるまでに、少し勇気が要った。


「ロザリア・ヴァルケン。国境侯夫人としてではなく、薬品検査官として」

「では検査官殿。報酬の交渉をしよう」


 夫だから妻の知識を当然に使う、とは言わなかった。

 そのことが、どんな愛の言葉よりロザリアをときめかせた。


     ◇


 秋までに、城の毒物検査は三段階になった。

 薬品商は産地と採取日を記す。倉庫番は出し入れを二人で確認する。厨房では銀匙だけに頼らず、ロザリアが作った三色の試験紙を使う。


 すべての毒を見つけられる魔法の紙ではない。

 だからこそ、記録を重ね、異常があれば食卓へ出さない。

 試食係が命を賭ける古いやり方をやめると告げたとき、最初は兵たちも料理人も戸惑った。


「では誰が毒見を?」と若い従卒が尋ねた。

「人ではなく、手順がします」とロザリアは答えた。


 いつしか兵たちは、親しみを込めて彼女を「毒見の奥方」と呼ぶようになった。本人が口へ入れるのではないと知ったうえでの呼び名だった。


 婚礼膳へ毒を入れた者も分かった。

 軍の薬品倉庫を管理していた副官が、休戦で密輸の利益を失う商人と通じていたのだ。濡れた麻布と出庫記録、彼の部屋に残った黒鈴草の樹脂が証拠になった。


 だが、共犯の商人はまだ捕まっていなかった。


 初雪の夜、隣国との休戦協定を結ぶ晩餐会が開かれた。

 ロザリアは淡い青のドレスで、エノクの隣に座った。半年で頬には色が戻ったが、大広間に長くいる日は今も途中で休む。今夜の予定表にも、食後の休憩が太い字で書かれていた。


 一皿ずつ検査札が添えられ、料理は滞りなく進んだ。

 最後に、小さな蜂蜜梨のタルトが運ばれた。


 甘い香りを吸い込み、ロザリアは微笑みかけた。

 その奥に、季節外れの青葉の匂いがある。


「下げてください」


 今度は声が震えなかった。

 給仕が足を止める。客たちが一斉に黙った。


 厨房の検査札は三つとも正常。銀にも反応しない。それでもロザリアは、飾りに載った砂糖漬けの葉を指した。


「梨の葉ではありません。眠り柊です。少量なら眠るだけですが、酒と合わせれば呼吸が止まります」


 隣国の使節が眉をひそめた。

「検査を通った物を、匂いだけで疑うのですか」


 以前なら、その一言で引き下がっていたかもしれない。

 ロザリアは皿を見つめ、そしてエノクを見た。

 彼は食べず、彼女の判断を待っている。


「はい。制度は、人が考えることをやめるために作ったのではありません」


 ロザリアは飾り葉を布で包み、携帯用の試薬を落とした。透明な液が鮮やかな橙へ変わる。


 給仕が逃げ出した。

 だが扉はすでに閉じられ、守備兵が取り押さえた。男の袖口から、密輸商人の印章が出てきた。


 晩餐会は一度中断された。

 安全が確認された料理だけが温め直され、二時間後、休戦の署名は無事に終わった。


 最後の客を見送ったあと、ロザリアは力が抜け、廊下の椅子へ座り込んだ。


「休憩予定を過ぎてしまった」とエノクが言った。

「検査官の勤務超過です。追加報酬を請求します」

「何がいい?」


 冗談で返すつもりだったのに、彼の目は真剣だった。

 ロザリアは考えた。

 宝石でも領地でもなく、ずっと欲しかったもの。自分で欲しいと言うのが、まだ怖いもの。


「明日の朝食を、一緒に食べてください」

「それだけ?」

「明後日も。その次の日も」


 エノクは彼女の前へ片膝をついた。触れる前に手のひらを差し出す。ロザリアは自分から、その手へ指を重ねた。


「ロザリア。君は父君に送られたから、ここにいるのか」

「いいえ」


 答えは、驚くほど簡単に出た。


「今は、私が選んでいます。この城も、仕事も……あなたも」


 エノクの指が、わずかに震えた。

「では私も言わせてほしい。政略だから君を妻とした。だが今、君にここにいてほしいのは、私が君を愛しているからだ」


「守ったから、ですか」

「最初は命を救われた。だが好きになったのは、棚の高さへ遠慮なく文句を言い、兵に毒草の根を食べるなと叱り、倒れた翌日にも自分の仕事を選び直す君だ。救われた恩と、愛は別だ」


 ロザリアは笑いながら泣いた。

 今度は彼の胸へ自分から寄り、抱きしめてほしいと頼んだ。


     ◇


 翌朝、二人の食卓には新しい蜂蜜梨のタルトが置かれた。

 材料の記録も検査札もそろっている。けれどロザリアはすぐには匙を入れず、立ちのぼる香りをゆっくり味わった。


 焼けた小麦。蜂蜜。熟した梨。ほんの少しの肉桂。

 怖い匂いはない。


 エノクは先に食べて安全を示そうとはしなかった。それでは結局、誰かが誰かの毒見になる。彼はただ向かいに座り、ロザリアが選ぶのを待った。


 彼女は銀匙でタルトを一口すくった。

 甘さのあとに梨の酸味が広がり、さくりと焼けた生地がほどける。


「おいしい」


 その言葉を口にした途端、食べることが生きる喜びだったのだと、初めて知った。


「エノク様」

「うん?」

「半分、召し上がりますか」

「君の朝食だろう」

「分けたいのです。私が決めて」


 彼は笑って皿を寄せた。

 ロザリアは自分の銀匙で、タルトをきれいに二つへ分ける。


 毒を見つけた同じ匙が、今は幸福を分けていた。

お読みいただきありがとうございます。

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