誤縁
本作品は軽度の性表現・虐待表現を含みます。ご注意ください。
こちらの作品はカクヨム、ソリスピアにも投稿しております。
人と人は繋がりを持つ。人は喋り、思いを交わす。
人と人とが分かり合うには、そうやって互いの思いを互いに知らせなければならぬ。そして、それを知らされた側もまた思いを咀嚼せねばならない。人はそうやって関わり合い、縁を結ぶ。
だが、時として人は結ぶべきでなかった―彼岸へと連れ去られる縁もまた、結んでしまうものである。
ある男が街を歩いていた。特に何かをしたいという訳でも無く、かと言って家でぐうたら過ごすのは憚れたので、何と無しに外を出歩いてみている。
男は今年でかれこれ二十二歳になる立派な成人男性である。彼は今商店街を歩いていた。適当に道を歩いているだけなので特に目的があってきたわけではないが、何か発見があればよいと思って歩を進めたのである。
商店街の入り口にはアーチ状の橋が架かっていて、それに沿って反対側まで半透明の天井が張られている。随分年季が入っているようで、天井の汚れがいくらか太陽光を遮っていた。商店街は住宅街と隣接していて、脇道に逸れると直ぐに一軒家やマンションが見える。
商店街の中の店舗はなかなか繁盛していて、商店街の大通りいっぱいに人がいる訳では無いが、それでもどの店も五、六人は客が入っているようである。それ以外に特別なにか語る点がある訳ではないが、男はふと大通りのど真ん中で立ち止まって見た。
何かに気付いたわけではない。何かをじっと見ようとしたわけもない。ただ人々の喧騒に身を任せてみようと思って立ち止まっただけである。
とはいえじっと立ち尽くすのは悪い事ではないが、交通の邪魔であるからさっさと退いてしまった。
※
しばらく歩くと喫茶店が見えた。一見したところ、寂れている印象を受ける。言ってしまえばぼろっちい様にも見受けられるが、男は何だが無性にこの店に入りたくなった。
特別何か惹かれるような要素があるわけでもないはずだが、喫茶店のドアベルは最終的に鳴った。
中は全体的に薄暗かった。店の中にはカウンター席が五つと、窓際にはテーブル席がいくつかあるくらいだった。
客と思しき人間は一人しかおらず、カウンター席で項垂れている。店主は見当たらなかった。
「横に失礼しても?」
「どうぞ」
受け答えはできるのだ。良かった、項垂れているものだから機嫌を損ねてしまわなかったようで、一安心だ。
「失礼なようですが、店主か給仕の人間を知りませんか? せっかく入ったものですから、何か注文したいんです」
「いる。いや、いたよ」
いた? どういうことだろう。そう思って思わず隣の客をのぞき込んでみて、男は思わず息を呑んだ。
隣に座っている客は女だった。それもとんでもなく美人で、大人気女優だと言われても信じるくらいの美人だった。
女は黒いロングコートに身を包んでいる。冬の寒さがまだまだ厳しい今の時期ではよく見る格好だ。
「いた? いたって、そりゃあどういう意味です」
「いたのは、いたんだよ」
さっぱり分からぬ。この女は何を言っているのだろうか。
先ほどは思わず見惚れてしまったが、今のちょっとした問答で正気に引き戻された気がする。
「そうですか―あのお、すいません! どなたかいらっしゃいませんか?」
喫茶店なのだから何か飲み物くらいは飲んでからでないと、心地よく店を出ることも敵わぬ。そう思ったからこそ男は大声を張り上げて店員を呼んだつもりだったが、やはりこの店の従業員は一向に来なかった。
「無駄だよ……誰も来やしないさ。それより君。ちょっと私の相手をしておくれよ」
「相手?」
「うん。私もここで一時間くらいぼうっとしてるんだけど、そこに客が現れたときちゃあ、ここで会ったのもの何かの縁だろうし。せっかくだから、私の話を聞いておくれよ」
「まぁ、構いませんが」
「ありがとう。それじゃあ、何から喋ろうかな。あぁ、煙草を吸っても?」
「どうぞ」
その返答に満足したのか、女は微笑みながらどうもと言ってから慣れた手つきで煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
すう。はあ。
二人しかいない薄暗い空間に煙草のにおいが充満していく。紫煙を吐き出した女は、煙草を咥えたまま喋り始めた。
「きみ、ここの商店街をどう思う?」
「どうって、そりゃあ商店街らしいと思いますよ。聞くところによれば、この商店街は戦前からあるらしいじゃないですか。店でモノを売る爺様婆様がいて、平日だというのに道行く人もちらほら見える。特別活気があるかと言われたら、そうとは言えないでしょうけど」
「そうかあ」
女はそう言うと、もう一度紫煙を吐き出した。
「あんなのみんな、紛い物だよ。君の言う爺様も婆様も、店に行けばニコニコと笑っているだろうけれど、腹の内には何を抱えているか分かったもんじゃない。例えばこの喫茶店のマスターはね―私の父親なんだが―客と接するときはそれはもう穏やかで、それでいて寡黙な人だったよ。だけどね、ふたを開けてみればとんでもない男だった」
女はふう、と一息をついて、店の奥―キッチンでもあるのだろうか―へ細めた目をやった。
奥には何があるのだろう。それに、女の言うとんでもない男というのは、どのようにとんでもないのだろう。
「あんなやつはね、死んで当然なんだ。死んでから地獄に落ちて、無間地獄で永遠に苦しみ続ければいいんだよ」
そう言った女の顔はなんだか酷くやつれているように見えた。
「話を戻そうか。人間なんて所詮みんな紛い物なんだ。皆他人には優しくするんだ。何でだと思う? それはね、自分と関係ないからなんだ。相手はどうでもいいからどうなったっていいし、どうしたっていい。ただそうやって傍若無人の極みみたいな立ち振る舞いをしていると、社会で生きていく上で問題が生まれてしまう。だから取り合えず上辺だけは良いように取り繕う。そうやって人はコミュニケーションをとるんだ」
「それは―なんというか、偏見がひどいのでは? その理論でいくと、僕も紛い物になってしまう」
「違うの?」
そう言って女はこちらを見た。煙草を咥えたままの女はどこか蠱惑的で気を抜けばあちらに引っ張られそうだ。僕はカウンター席のこの此岸で、彼女と目線を交わした。
今気づいたが、彼女の眼には生気が宿っていない。瞳の奥の闇は黒々としていて、一片の光すらない。
「ち、違いますよ。僕は少なくとも他人に対しては可能な限り本心でいることにしているんです。貴女だって例外じゃない」
「そう。まあ話半分に聞き入れておくよ」
女は再び紫煙を吐き出した。
「人は皆紛い物だと話したね。それに間違いはない。いつだって人は嘘ばかり。けれど時折本当に心の中にちっとも澱みがない人もいる。それも事実だ。私はそこまで否定する気はない―ただその澱みなき人間の割合が非常に少ない、というだけなんだ」
僕はなんだかこの女に気を惹かれ始めていた。女の語る話は全てが荒唐無稽な話という訳ではあるまい。人間社会にそういった人間がいるのは事実であるし、そういった人間はどうしてもどっちつかずの発言を発しがちだ。
僕は、この短時間の会話で彼女に心を掴まれ始めていた。
「さ、今度は君の番だ。君のお話を聞かせてくれたまえよ」
「―僕が、ですか」
そんなに面白い話はしてやれない。いや、そもそも語る話題を持ち合わせないのだ。だが何故か、彼女の台詞はすとんと胸に落ちた。
「そう、君の半生でも聞かせてくれ」
「そんなに、面白い話でもありません―」
僕は、口を開いた。
※
僕は後神うしろがみであった。幼少よりそう言われてきた。
最初に言い出したのが誰なのかは思い出せぬが、確か小学校の頃の同級生であった気がする。今にして思えばその行動の理由は、新たに得た他者の知らない知識を見せびらかしたかっただけなのだろうが、当時の自分の気質と相まってそのあだ名は瞬く間に広がった。
「後神と言うのは妖怪なのだそうです。臆病者や優柔不断な人間に取り憑く疫病神。やれと唆す癖に、いざ行動に出ようとすれば後ろ髪を引く―それが僕に貼られたレッテルで、求められた役割だった」
同級の子供らはともかく、彼らの両親のみならず実の両親すらそう言い始めるのに、それほど時間はかからなかった。
あの頃の自分はとにかく話す言葉が碌に出てこず、また感情の起伏もほとんどなかったからそう思われても仕方がなかったのだろう。
けれどそれを経て自分が形成されたのは事実だった。言葉を喋らず、能面のような表情をしている不気味な子供を、周囲は可能な限り遠ざけようと彼らのコミュニティから排斥した。
親もその例外ではなかった。しかり飛ばしたりする訳でもなく、自分に向けられたのは無関心の眼差し。
愛されることを知らずに今日の今日まで生きてこれたのは、まさしくそれ自体が奇跡と言っても差し支えない。
けれど今に至るまで生きてきて、何も思わなかったわけではない。心の内で他者を憎く思った事もあるし、殺意を覚えたこともある。特に両親に対して向けられるそれは顕著だった。
「僕には分かりません。親を殺したいほど憎んでいたはずなのに、一人になった時にいざ包丁なんかを手に取ってみると、途端に殺意が薄まっていくのです。それが何故なのか、分からない。殺意なき憎悪は成立するでしょう。けれど、僕の場合は違う。殺したいほど憎んでいて、けれど殺意が薄れていくことがある。オシロスコープの映し出す振幅のように僕の殺意は乱高下するのです」
「―その気持ちには共感できる。私もそうだったんだよ……」
どうやら一本目の煙草は吸い終えているらしかった彼女は、追加の一本を取り出して火を付けた。
「私はね、さっき言った父親――この店のマスターから虐待を受けていたんだ」
「え―」
「性的虐待というのかな。まぁ酷いもんだったよ。身ぐるみを剝がされたかと思えば、今度は腹を殴られ蹴られ―挙句、奴の粗末なものを咥えさせられる始末だ。肉体の純潔には手を出されなかったが―精神の純潔は守れなかった。いや、守る術が無かったと言ってもいい」
女は一度ため息をついて、煙草を咥えた。
「恨みは生まれる。憎しみも。だからね、君。殺してみたんだよ」
「えっ」
僕は間抜けな声を上げた。
「私の心を犯した父親も、見て見ぬふりを決め込んだ母親も、二人とも殺してみたんだ。見るかい? 来てみなよ」
女はそう言うと席を立って、僕の手を引いた。向かう先はカウンターの向こう側だ。僕は煙草を吸う彼女に連れられて、彼岸を覗きに行った。
そこは血の海であった。白髪の老いた男性と、同じ髪の色をした老齢の女性が血の海に倒れこんでいる。
―血が靴にへばりついて、酷くべちゃべちゃしている。
この凄惨な光景を見て受けた印象はそれだった。悶え苦しんだこの老人たちに何かを共感することはなく、この現場を見て吐き気を催すこともなかった。
―僕はどこか壊れているのだろうか。
「私もねえ、何度もこいつらを殺してやりたかった。死なせる前に腕も足も切り落としてばらばらにして―とにかく極限まで苦しませてやってもよかった。けれど何でかな、その考えを奔らせる脳裏に浮かぶのはね、まだどこも可笑しくない幼少の頃の記憶だったんだよ。両親に手を引かれて、ピクニックに出かけていたころの記憶が浮かぶと不思議とね、殺意が薄まって消えていくんだ」
―似ていると思わないかい?
彼女は笑ってそう言いながら、彼女の父親を踏みにじった。
「そういった記憶があるのは事実だ。だが私が背負った傷跡がこいつらに背負わされたのも事実。だから妥協して普通に殺してやったんだ」
「妥協して―いや、僕には分かりません。妥協するのがじゃない。なぜ殺意が薄れるのかが分からないんだ」
「それはね、私達もまた私たち自身を騙しているからなんだよ。上辺を取り繕いすぎると、自分に対してもそうしてしまう。あるいは、社会を生きるにつれてそれに相反する生き方ができなくなったと言ってもいい」
だから―
「だから殺したのですか。自己への偽りを壊すために?」
「そうとも」
「でも―それは、分からないはずだ。殺意が真意なのか、それとも幸せな記憶の追憶が自分の本当にしたい事なのか」
「そうだね。君もそれで悩んでいるんじゃないのか? だからね、良いことを教えてあげよう。どちらが真意なのか―それは君が決めることだ。どちらの自分に従うのか、それは君が決めていいんだよ」
はっとした。
僕はようやっと真実にたどり着いた気がした。この女は―僕を啓蒙してくれているのだ。僕の選択を助言し、見守ってくれるつもりでいるのか。
「決めたとして―僕がどうするかを決めて、貴女はどうするのです?」
「私は上辺を取り繕って責任を取らない連中とは違う。君と共に在ろう」
ああ!
この女は、この女こそは。この女こそ僕が求めてやまなかった共感者なのだ! 僕の孤独を打ち消してくれる女だったんだ!
私に欠如していたのは共にいてくれる共感者で、ともに隣を歩んでくれる女ひとであって、私と共に罪を犯してくれる共犯者なのだ。
そして僕はもうとっくに此岸から彼岸へと、片足を突っ込んでいたのだ。
此岸に留まるのなら、彼女と出会うべきではなかったろう。決して彼女と関わってはいけなかったのだ。けれど、これもまた何かの縁だったのだろう。
そう気が付くと、僕の脳にかかっていた霞はすっかり消えて、僕の前には二つの選択肢が現れた。
この先もまた孤独に生きるか、それともこの女と共に彼岸に渡るか。
もう迷いはない。選ぶときは来たのだ。
僕は運命の人の手を取り、その人の共犯者となった。




