第6話 ユイ
男のセダンが出口へ消えると、駐車場の端だけが急に広くなった。
茂はケースを持ち替え、ビルの出入り口へ向かった。
走らず、歩く。視線も落ちない。
ドアが開き、店内の白い光が肌に当たる。レジの奥で店長が顔を上げた。
「いらっしゃ――……茂か」
茂は軽く手を上げる。
「すぐ出ます」
店長の視線が茂の手元に落ちた。ケースの形状を見ただけで眉がわずかに動く。
「――それ、買ったのか」
「はい」
声が少しだけ速い。自分では抑えているつもりでも興奮が漏れる。
店長はそれ以上追求せず、鼻で短く息を吐いた。
「ロッカー入れとけ。もう閉めるぞ」
茂はバックヤードへ入り、自分のロッカーを開けた。中は空に近い。予備のエプロンと潰れた紙袋。
ケースを斜めに差し込み、角が当たらない位置を探して押し込む。乾いた接触が一度だけ鳴り、止まった。
鍵を回す。
茂は何も変わらない顔で店を出た。
鍵を開けると灯りが溢れた。
「おかえり」
ソファにいた女――柊ユイが言った。
部屋着姿なのに、だらしなさはない。
細い。けれど弱そうじゃない。長い脚がソファの端から伸びて、腰のくびれが布越しにも分かる。胸の線だけは、細さの中でちゃんと丸い。
ダークブラウンの髪。ゆるく巻いたロングが肩に落ちている。
濡れたように、艶がある。
化粧は薄いのに、目だけが強い。
二重の黒い目が、眠そうなまま茂を射抜く。
仕事帰りの顔だ。
それと、匂い。
柔らかいのに、安っぽくない。男を引き付けるそれ。
茂は上着を脱ぎながら、視線を合わせない。
「…ただいま」
ユイは茂を見たまま動かない。声の温度が少しだけ落ちる。
「今日、なんかあった?」
「別に」
茂はそれ以上言わせないように、ユイに寄ってその肩を抱いた。
早すぎる強引な抱き方。
ユイは一瞬だけ固まり、それから深い溜息をついた。
「……急」
呆れた声だが、拒否ではない。彼女は茂の首に腕を回し、布越しに爪を立てた。
「ねえ。また、そういう日?」
茂は短く頷く。
ユイは目を細めて、勝ち誇ったように笑った。
「変な男の子」
「……なにが聞きたいの」
茂の喉が鳴った。
「今日の客」
「ほんと歪んでる」
ユイは腕を解かないまま、茂の目を覗き込む。
「聞くと興奮するの?」
茂は頷く。
ユイは彼の頬を指で押し、軽く、刺すように言った。
「きも。―――今日は皆、普通。優しいやつ」
茂の腹の底が熱くなる。
優しいという言葉が、この上なく嫌いで、好きだった。
「空気を読むタイプ。こっちの顔見て、勝手に合わせてくるの。恋人プレイって感じかな」
嫌悪と欲が同時に跳ねる。茂は答えない。
ユイは残酷に笑う。
「ねえ、茂。それ聞いて私を抱くの楽だよね。罪悪感が薄まるもんね」
茂は言葉を封じるように、ユイをベッドへ連れて行った。
シーツが擦れる音。
ユイの髪が頬に当たり、茂は反射的に目を閉じる。
呼吸の癖まで分かる距離。
「……顔、こわい」
ユイの軽い声が、茂の喉元に触れる。指の腹で脈を探すように。
「ねえ。今日さ。ほんとに《《それ》》だけ?」
茂の眉が動く。ユイは逃がさない。
彼女はするりと体勢を変え、茂の上に跨った。膝でシーツが沈み、眠そうな、だが鋭い視線が茂を見下ろす。
「焦りすぎ。………黙って」
主導権は完全に、ユイの手にあった。
彼女は逃げ道を塞ぐように体重を預け、仕事用ではない、掠れた声で囁く。
「ラストの人ね。終わっても優しかったよ」
茂の中の何かが切り替わった。屈辱と興奮が、同じ場所で熱を持ちはじめた。
ユイはそれを見逃さず、指先で茂の頬を撫でた。
「……ほら。そういうとこ、ほんと好き」
ユイは茂の腹の上に座ったまま、髪を耳にかけた。
彼女の呼吸はすでに整っている。茂だけが、まだ遅れて息を探していた。
「………はやっ」
短く刺すような一言。茂は顔を背けた。言い訳を飲み込む。
「こっち見て。……それで落ち着いた?」
茂は頷きかけて、止まった。落ち着いてなどいない。むしろ、中身がむき出しになっただけだ。
「……黙ってると反省してるみたいに見えるからやめて」
「……してる」
「じゃあ言いなよ」
逃げ道はない。
「……ごめん」
ユイは《《何が》》とは聞かない。ただ、茂の顔を見て、「うん」とだけ答えた。
茂はシーツを掴み、まだ冷めない腹の底を抑え込む。
ユイはその手首を押さえ、上から体重をかけた。
「次。次は我慢して。一分は無し」
茂は息を吐いた。笑いそうになって、笑えなかった。
頭の隅で、ユイのタンス裏から奪った札束の重さが蘇る。
ユイの指が、茂の喉元をなぞる。
「…また、なんか買った?」
茂の背中が一瞬、冷えた。
ユイはすぐに手を離す。深追いはしない。
「ま、いいや。どうせ言わないでしょ」
ユイは小さく息を吐き、茂の額に合図のようなキスを落とした。
「ご飯たべよ」
茂は頷いた。
ユイの背中に腕を回す。細い体躯には、この世界を生き抜くための「現実の重さ」が確かにあった。
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