第4話 百万円
アパートの夕方の廊下は照明が控えめで、白い壁が淡く浮いていた。
鍵を回す。
ドアの内側から、室内の匂いがわずかに漏れた。
甘い香水じゃない。
シャンプーと洗剤と、消毒みたいな匂いが混ざった匂いだ。
茂は靴を蹴って脱ぎ、足で押し込んで扉を閉めた。
部屋は散らかってはいない。
ただ生活の形がそのまま残っている。
流し台には洗ったコップが伏せてあり、スポンジは端に寄せられていた。
テーブルの隅に、小銭と店のポイントカードがまとめて置かれている。
きれいに片づけられているわけじゃない。それでも、崩れてはいない。
洗面台には、個包装のマスクが箱ごと置かれていた。
ボディソープは二種類。片方は普通の香りつき、もう片方は無香料の文字が大きい。
棚の隅に小さなマウスウォッシュ。
濡れたタオルは、乾くように掛け直されている。
彼女はいない。出勤日だ。
鏡台の前には、閉じかけの化粧ポーチ。
椅子の背に、薄手の上着が掛かっていた。
ドライヤーは戻されていて、コードだけが少しだけ伸びている。
茂は帰宅時間じゃなく、終わる時間の方を計算する。
帰ってくるまでの余白は十分にある。
ベランダのカーテンを指で持ち上げると、外は灰色の光に沈んでいた。
遠くの交差点が混んでいる。赤色灯が見えた。事故か、獣か。どちらでもいい。戻って来ないなら関係ない。
冷蔵庫を開けて半分残ったペットボトルのコーラを飲んだ。
喉を通る冷たさが、頭の熱を少しだけ落とした。
キャップを締め、ペットボトルを戻す。
音を立てないようにする癖が、いつの間にか身についている。
彼女を起こさないためじゃない。自分の段取りを乱さないためのやつだ。
茂は廊下の奥へ歩き出した。
廊下は二歩で終わる。アパートの間取りは薄く、扉一枚の向こうの生活が近い。
寝室のドアは半開きだった。いつものことだ。
茂は指先で押して通れる幅にする。
室内は薄暗い。ベッドの上には、寝癖みたいな皺が残っている。
枕元には使い捨ての目薬と、小さなリップ、個包装が二つ。
そこに充電ケーブルが一本、無造作に這っていた。
それぞれが片づけられていないだけだった。
その横に新品のストッキングが一足。袋の口だけがきれいに開けられていた。
椅子の背には薄い羽織りが掛かっていた。畳まれてはいないが、乱れてもいない。
茂はそれらを見ない。視線は最初から決まっている。
クローゼット前の収納が並ぶ。
手前に背の低いチェストが三段。上は下着、真ん中はTシャツ、下は雑多。生活だけが詰まっていて、触れてほしくない物は入っていない。
金はそこじゃない。
その横、壁との隙間に木製のタンス。角が少し欠けて、取っ手だけ一つ新しい。――前に折って替えた。
天板には小さな鏡と香水の瓶、アクセサリーケース。置き方が乱れている。急いだ朝の跡。
香水はアトマイザーが二本。片方は細長くて持ち歩き用のサイズだった。
茂はそれらを一つずつ、音を立てない順に床へ下ろした。
ガラス同士が触れないように間隔を取る。床に置く時も、滑らせる。
タンスに手を掛ける。押すと少しだけ動いた。壁にピタリと付いていないのは、後ろに隙間があるからだ。
一度耳を澄ませた。外の通路の足音。どれも遠い。
次に聞こえたのは、自分の呼吸だった。
タンスを少しだけ前に引き出す。床板が低く擦れる音が、短く鳴る。
茂はもう一度、体重の掛け方を変えた。音が一番小さくなる角度を選ぶ。慣れた手つきだった。
壁とタンスの間に細い空間が現れた。
膝をついてそこへ手を差し込んだ。
乾いた感触が触れた。壁とタンスの隙間は狭い。肘まで差し込むと骨が当たる。
茂は手首を捻り、奥のものを押し分けるように探る。
指先に、薄いビニールと硬い角が触れた。
茂はゆっくり引いた。
出てきたのはビニール袋に入った札束だった。
まとめた束がいくつも重なっている。新しい札が多い。角は揃っていて、彼女の几帳面さが透ける。
茂は束を取り出し、迷いなく一つほどいた。
数える速度が一定だった。途中で止まらない。指が覚えている。
十万の束が積み重なっていく。
百。
そこで初めて、息を吐いた。
必要な分だけ抜く。残りは戻す。
減ったのが目立たないように、角を揃え、束の反りを元の形に戻す。
折れ癖のついた札を表に出さないようにして、同じ向きで差し込んだ。
束を奥へ戻す時も、急がない。壁紙が擦れる音を出さない角度で押し込む。
指先で押して、最後に手の腹で軽くならす。元の場所へ戻しただけみたいに見える。
タンスを元に戻す。床板は鳴らない。上の小物の位置も触らない。必要がない。
百万円を袋に入れ、上着の内側へ差し込んだ。
重さが胸に貼り付く。体温で紙が柔らかくなる感覚。
その重さで、心は動かない。
茂は玄関の方へ歩いた。
玄関の前で立ち止まり、茂はスマホを取り出した。画面に沿って指を滑らせる。さっきもらった名刺の番号。
三和通商の坂口。
呼び出しを二回鳴らして切った。すぐ折り返しはない。相手も忙しいのか、出ない癖なのか。
茂はもう一度掛けない。追うと、主導権がそっちに寄る。
代わりにメッセージを打った。
「お金用意できました。今日動けます。」
送信。
既読が付くまでが妙に長い。
茂は靴を履いた。玄関の鍵を閉める。
外の空気は冷たく、遠くでサイレンが鳴っていた。
何でもいい。
スマホが震えた。
「店が入ってるビルの共有駐車場で」
画面を一度見て、ポケットに戻した。心臓は速くならない。段取りが進むだけだ。
階段を下りながら、胸の内側の紙の重さを確かめる。
百万円。
欲望の値段。
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