第35話 排熱
ジェルはもうない。
カートリッジの重さが消えた槍は、ケースの中でただの長い刃物になっている。
茂はケースを持ったまま、町を歩いた。
意味がないのは分かっている。
分かっていても、足は止まらなかった。
小型なら。
条件が揃えば、倒せるかもしれない。
かもしれない、で歩く距離じゃないことも分かっている。
だが今日は、他にやることがなかった。
角を曲がる。
住宅と店舗が混じる通り。
通知は来ていない。
来ていないのに、空気だけが落ち着かない。
先に処理された痕跡は、すぐに見つかった。
道路脇に残る黒い染み。
散ったガラス。
タイヤ痕。
雑に踏み消された足跡。
回収は終わっている。
照合班もいない。
残っているのは、「終わった後」だけだ。
別の交差点。
ここも同じ。
店のシャッターに浅い傷。
電柱の根元に、何かを引きずった跡。
血の匂いはもう薄い。
誰かが先にやった。
早いか、近かったか、運が良かったか。
理由はどうでもいい。
獲物はいない。歩き続ける。
探す。
だが、見つからない。
小型は数が多い。
そのはずなのに、今日は一匹も引っかからない。
茂は足を止め、空を見上げた。
曇り空に低く垂れ込めた雲、街の音が、どこか鈍い。
世界は動いている。
自分の外側で、勝手に処理が進んでいる。
——今日は、自分の番じゃない。
そう理解した瞬間、肩の力が抜けた。
悔しさも焦りもない。
ただ、空白が残る。
ケースは軽い。
中身の問題じゃない。
選択肢が減っている、その事実が軽い。
この状態で無理をする理由はない。
判断は早かった。
引き返す。
来た道を戻る。
足取りはさっきより遅い。
帰宅。
鍵を開ける前に、茂は一度だけ振り返った。
通りは何事もなかったように、普通の顔をしている。
獲物は、世界にいくらでもいる。
ただし、いつも手の届く場所にいるわけじゃない。
午後は、何も取れなかった。
それだけだ。
ドアを開け、ケースを持ったまま中に入った。
ドアを閉めた衝撃で、室内の淀んだ空気がわずかに揺れた。
ユイはキッチンの前に立っていた。
妙に露出の多い部屋着。
薄い生地が身体の線を隠す気もなく張り付いている。
均衡の取れた曲線、細い腰。
布地の奥で、女の形だけが浮き上がっていた。
それを見た瞬間、思考が消える。
理性ではない。
もっと手前の何かが、理性を塗り潰した。
「おかえ——」
言葉は口づけに遮られる。
数歩で距離を潰し、抱き寄せる。
ユイの背がキッチンカウンターに当たり、冷たい音が響いた。
茂の体はまだ異様な熱を帯びている。
汗と、かすかな甘さが混ざる。
腕は強すぎるほどに腰を抱え込んでいた。
逃がさないという意志ではない。
内側に溢れた圧を、どこかへ逃がすための衝動。
「……あ、茂」
最初の強張りは、やがて熱へ変わる。
ユイの指が背中を掴む。
服を脱ぐ手順さえ、もどかしい。
肌が触れ合った瞬間、体温がぶつかる。
茂は彼女を抱え上げ、カウンターへ座らせる。
食器が落ち、乾いた音が部屋に散る。
目の前の体温。
触れられる現実。
ユイの身体だけが、自分がまだこちら側にいると証明していた。
互いの鼓動が荒く重なり、
呼吸が濃く絡み合う。
茂は衝動のまま、彼女に縋る。
今日、失いかけた何かを、
その熱で埋め戻すように。
薄暗いキッチンで、
二人の輪郭は溶け、
重い呼吸だけが夕方の空気を震わせていた。
呼吸が落ち着き、部屋に静けさが戻ったころ。
ユイは横になったまま、茂のほうを見た。
喉の奥で小さく笑い、視線だけを寄越す。
表情は軽い。探るでも、責めるでもない。
「ねえ」
間を置いて、続ける。
「そんなに、あたしが魅力的だった?」
茂は短く、頷いた。
言葉はいらなかった。
ユイはそれを見て、声を立てずに笑う。
「そりゃそうか。だてに、三十八週連続ナンバーワンしてないよ」
冗談みたいな言い方。
自慢でも、試しでもない。
その数字が、茂の中に引っかかる。
三十八週。
その間、ユイは何度、
どれだけの男に抱かれてきたのか。
考えるつもりはなかった。
それでも、頭の中で回数が勝手に並び始める。
仕事として、
慣れた動きで、
何度も、何度も。
想像は、すぐに形を持った。
胸の奥が、別の熱を帯びる。
さっきの衝動とは違う。
もっと歪んだ、ざらついた興奮。
ユイが何か言おうとした、その前に、
茂の気配が近づく。
「……また?」
ユイはそう言いながら、
本気で止めようとはしなかった。
空気が、再び張りつめる。
さっきよりも、息苦しい向きに。
しばらくして、ユイは小さく息を吐いた。
そのまま、茂のほうを向く。
「……そんな顔して」
声は、からかうみたいに軽い。
でも、嫌がってはいない。
ユイは口元を緩めて、笑った。
「ほんと、単純」
そう言いながら、
どこか嬉しそうだった。
求められたことを、ちゃんと受け取っている笑い方だ。
茂は答えない。
衝動は一度、静まっていた。
一度目のそれは、
身体に流れ込んだ何かが引き起こした反応だった。
制御できない熱。
排出されるべきもの。
だが今は違う。
静まったはずの内側で、
別の反応が、ドロリと形を変えて生まれた。
嫌悪と見分けのつかない、濁った興奮。
自分で、
想像で、
選び取ってしまった興奮。
ぬるかったそれが、急速を超えて硬さと熱を取り戻し始めていた。




