第28話 十五万二千百六十円
茂は見本台に戻されたライトを見たまま、少しだけ黙った。
一秒の視界。
一分の猶予。
それに十万。
買える。
買えるが――
「……どうします?」
店員が聞いた。
押し売りの声じゃない。確認の声だ。
茂は答えず、視線だけを横に流した。
次。
殴る道具じゃない、止める道具。
スプレー。
棚が一列、丸ごとそれだった。
赤。黄。黒。
派手なパッケージ。
「害獣対策」「即効」「最大射程」「風に強い」
言葉だけが強い。
茂は一本、手に取る。
軽い。
缶の中身が、命を守るとは思えないほど軽い。
噴射方式。
ジェット。
ミスト。
フォーム。
粘着。
裏面の注意書きが長く、読ませる文章じゃない。
責任逃れの文章だ。
茂は指先で缶を転がした。
射程。
拡散角。
持続秒数。
――結局、何に効く?
茂は一本を戻し、もう一本を掴んだ。
「催涙」「辛味成分」「獣避け」分類が違う。
人間向けの延長で作ったものと、最初から害獣用で作ったものが混ざっている。
茂の目は、そこで止まった。
「対害獣・行動阻害」
「粘膜刺激+呼吸妨害」
「至近距離用」
至近距離。
それだけで危険だ。
だが、槍が届かない距離よりは安全なはずだ。
さっきのより、全然でかい。
意外に重い。
小さい消火器みたいだ。
―― 一本じゃ足りない。
風と距離、角度、相手の顔の向き。
噴射の拡散と、反応までの時間差。
効く保証のない刺激物。
そして、運。
条件が一つでも噛み合わなければ終わる。
外した瞬間、距離は消える。
茂は棚を見上げたまま、口を開いた。
「……おすすめ、どれですか」
自分で言って、少しだけ可笑しかった。
誰かに聞くのは、合理的じゃない。
だが今は、時間を節約したい。
店員が一歩、寄る。
缶じゃなく、茂の目を見た。
「止めたいですか」
「それとも、逃げたいですか」
質問が短い。
売り文句じゃない。現場の確認だった。
茂は迷わず言った。
「止めたいです」
「動きだけ」
店員が小さく頷く。
「なら、ミスト系はやめた方がいいです」
「風で戻ってきます」
「ジェットも、当たらない時があります」
棚の一段下から、一本抜く。
グリップが付いた黒い缶
「これ」
「フォームです。泡」
「当たると、視界と呼吸が一瞬止まります」
茂はそれを受け取った。
掌に伝わる質量を確かめる。
見た目より、わずかに重い。
指先が無意識に形をなぞる。
ノズルの向き。
噴射口の径。
安全ピンの位置。
親指で軽く押す。
動かない。安全ピンは生きている。
視線だけが静かに細部を拾っていく。
「射程はどのくらいです?」
茂が言う。
店員は即答した。
「四メートルくらいです」
「カタログだと六って書いてますけど」
「近づかれる前提で持つやつです」
四メートル。
槍の先より、少しだけ遠い。
茂は缶を握ったまま、聞いた。
「効かない個体もいます?」
店員は笑わない。
薄い声で、ただ言う。
「います」
「皮膚が厚いやつ、鼻潰れてるやつ、興奮してるやつ」
「でも効かないじゃなく、止まらないです」
「それでも、一拍は取れるんで何もないよりましです」
茂は缶を棚に戻さず、もう一本同じものを探した。
二本。
最低二本。
店員がそれを見て、言葉を足す。
「あと」
「買うなら、携行用のホルスターも」
「意外と重いんで、ポケットだと邪魔になります」
茂は小さく頷いた。
頭の中で、装備が並び始める。
槍と雷光、フォームと予備、それと逃げる角度。
武器じゃない。
道具だ。
生きるための順番だ。
茂はそれを二本持ったまま、店員を見た。
「……これと、さっきのライトを」
店員が静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「雷光、レジに回します」
茂は返事をしない。
商品の重量だけが、掌に残る。
軽い槍。
重い数字。
それでも――
これで、次に近づく理由ができる。
レジの前で、茂はスプレー缶をもう一度だけ持ち直した。
手に馴染む重さだった。
――二本。
さっきまで、それが最低ラインのつもりだった。
一本では足りない。
失敗する。
風。距離。角度。運。
だから二本。
その前提は、値札一枚で崩れた。
「……これ、一本で」
茂が言った。
妙にはずかしい。
店員は頷き、缶を棚に戻す。
戻された瞬間、手札が減った感じがした。
茂は箱を抱えたまま、レジへ向かった。
雷光。
フォームのスプレー。
それから、汎用のホルスター。
ホルスターは安かった。
六千二百円。
逆に怖いくらい、現実の値段だ。
スプレーは違う。
四万八千五百六十円。
数字を聞いた瞬間、茂の頭のどこかで、何かが一拍遅れた。
もっとずっと安いと思っていた。
千円とか。せいぜい数千円。
防犯用品の延長みたいな――そんな感覚だった。
五万。
缶だ。
中身は泡だ。
泡に五万。
「……」
茂は何も言わなかった。
言う言葉がない。
高い、と言ったところで値段は下がらない。
店員が会計端末を操作しながら、淡々と告げる。
「身分証、お願いします」
茂は一瞬だけ手を止めた。
何でだ、とは思わない。
こういう店になった時点で、そうなる。
財布からマイナンバーカードを差し出す。
店員は受け取り、カードリーダーに挿した。
時間は短い。
だが、その数秒が長く感じた。
返されたカードを受け取り、茂はそれを戻す。
自分が買う側じゃなく、管理される側に寄っていく感覚だけが残った。
「お支払い、どうしますか?」
「クレジットで」
カードを出す。
端末に差し込む。
暗証番号を押す指が、少しだけ硬い。
画面に金額が出る。
152,160円。
決済音が鳴る。
短い電子音。
「ありがとうございます」
店員の声は変わらない。
茂も返さない。
袋に入れられた箱と缶が、軽く揺れた。
軽い。
軽いのに、数字だけが重い。
カートリッジの残数は増えない。
だが、折れても終わらない順番は増えた。
茂は袋を受け取り、持ち上げた。
持ち手が指に食い込む。
その感触だけが、現実だった。
レジを離れかけて、茂は一歩だけで止まった。
袋の中の箱が軽く揺れる。
軽い。
軽いのに、重い。
雷光。
あれは殴らない道具だ。
見えなくするんじゃない。
見せて、止める。
――槍に付けられる。
思いついた瞬間、背中が少しだけ冷えた。
遅い。
こういうのは、最初に考えるべきだった。
茂は袋を抱えたまま、レジに戻った。
「……延長できるスイッチって、ありますか」
店員が顔を上げる。
「雷光のですか?」
茂は頷く。
雷光は強い。
だがスイッチの位置が悪ければ、強さは意味がない。
片手で槍を持ったまま、迷わず押せる場所にスイッチが要る。
握りを変えた瞬間、終わる。
店員はカウンターの下を開け、紙箱を一つ出した。
旭日電装のロゴ。
雷光とパッケージの質感より少し安っぽい。
「純正オプションです」
「リモートテールキャップスイッチ」
茂は箱を受け取り、裏を見る。
視線が迷いなく情報欄を辿っていく。
ケーブル長、防水等級、端子規格、対応機種。
説明文は読まない。
必要な項目だけを拾う。
不要な文章は視界を素通りする。
不整合はない。
茂は箱を持ったまま、一瞬だけ考えた。
雷光を槍に付ける。
照らすんじゃない。
撃つ。
一秒の視界を、手元の指で切り替える。
槍先の動きと同じテンポで。
それができれば、
間合いを作るのは運じゃなくなる。
「……それも、お願いします」
店員が頷き、箱をレジに置いた。
「13,300円ですね」
意外と高い。
茂は返事の代わりにカードを出した。
短く鳴る決済音。
茂は頭の中で、装備の並びを組み替えていた。
雷光――槍――フォーム
手順。
間合い。
一拍。
買うのは物じゃない――トリガを引ける構造だ。




