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僕と彼女の猟奇的な日常  作者: nnnkkk


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第23話 熱が引かない

壁に立てたケースの金具が、乾いた音を出す。

靴を脱ぐ。床が冷たい。


スマホの画面はもう消えている。

それでも網膜には、あの数字だけが残っていた。


手数料で三割引かれ、支払いは遅れる。


金額は、まだ分からない。

分からないのに――あの画面が勝手に出てくる。


五十五万。


たぶん、そこまで高くならない。ならないはずだ。

でも、五十五万が離れない。


息を吸う。まだ足りない。


ユイの靴はない。


その事実が、安心ではなく空白として落ちてきた。

誰にも見られない、自分だけの空白。


喉が渇いている。

水を飲めば落ち着くはずなのに、身体はそれを信じていない。


茂は蛇口を捻った。

金属の音。透明な水。


飲む。冷たい。

冷たいのに、喉の奥がまだ熱い。


現場の匂いが消えない。血と泥と肉。


鼻の奥に貼りついたまま、離れない。


茂はコップを置いた。

音が部屋に響く。それだけで、背中が少し寒い。


灯りを点けても、暗さは消えなかった。

何も変わらない。


茂は槍を見た。

ケースの中で、黙っている。黙っているのに、まだ重い。


勝った。


倒した。


茂はシャツを脱いだ。

汗が乾ききっていない。皮膚が張りつく感じが残っている。


洗面所の鏡に肩が映る。

白い光で、自分の輪郭だけが浮いて見える。


腕を上げる。筋が引ける。痛くない。


――痛くないのが変だ。


さっきまで、あれだけ震えていた。

あれだけ息が足りなかった。

なのに今、身体の内側だけが妙に軽い。


軽いのに、落ち着かない。


胸の奥が熱い。熱が、腹に落ちてくる。


茂は一度、視線を逸らした。

鏡の中の目が、さっきより冷たい。


鼓動が遅い。

遅いのに、皮膚の下で何かが走っている。


飢えじゃない。喉の渇きでもない。

疲れているのに、眠くならない。


腹の奥が、じわじわ疼く。


下腹部。もっと下。


茂は息を止めた。余計に意識が集まる。


気のせいだ、と頭が言う。

でも身体が勝手に答えを出す。


――欲しい。


何が、じゃない。ただ、欲しい。


茂は蛇口を捻り、水を手に掬った。

冷たい。冷たさが皮膚に刺さる。


その冷たさでも、下半身の熱は引かない。


不愉快だった。

自分の身体なのに、命令が効かない。


茂は掌で鏡を拭った。

曇りが広がる。自分の顔が歪む。


歪んだまま、目だけが残った。

笑っていないのに、薄く笑って見える。


茂は視線を落とした。

股間の重さが、さっきまでとは違う。


戦っていた時の重さじゃない。恐怖の重さでもない。


違う。


もっと生々しい。


茂は唾を飲んだ。

喉が鳴る。その音が、自分の部屋で響いたことが気持ち悪い。


茂は腰のベルトを外した。

音を立てないように外したつもりだった。

でも金具が、乾いた音を出した。


身体が反応して、その音にまで熱が回る。


――おかしい。


茂は一度、目を閉じた。


瞼の裏に、腹の裂け目が浮かぶ。

ぬるく光る縁。裂ける音。肉。


それと一緒に、熱が増す。


茂は目を開けた。


何かがズレている。


さっき倒したのは害獣だ。肉だ。死体だ。

なのに身体だけが、別の方向へ動こうとする。


茂は壁に背をつけた。

冷たい。冷たさが背骨に落ちる。


落ちても、熱は残る。


熱が引かない。


茂は鏡を見たまま息を吐いた。

吐いても、下腹の疼きだけが残る。残って、増える。


指先が震えている。

自分の手だ。自分の身体だ。


なのに命令が効かない。


視界の端に、細いボトルが立っている。

ユイの物だ。キャップの隙間から、甘い匂いがする。


匂いを吸った瞬間、身体が反応した。

条件反射。自分の意思とは無関係に。


――やめろ。


茂は歯を食いしばった。

噛む力だけが余っている。


待てばいい。ユイを待てばいい。


そう決めた瞬間に、いっそう熱が増した。

待つという発想が、逆に火をつける。


茂は蛇口を捻った。

冷たい水。掌を冷やして、下腹に当てる。


一瞬、引く。引いて、すぐ戻る。


意味がない。


鏡の中の自分が幼い。

冷たい目だけが残っている。


その目のまま、身体だけが熱い。


不愉快だ。気持ち悪い。なのに止まらない。


茂は息を止めた。

止めても、疼きは増える。


――無理だ。


茂は視線を逸らし、肩で息をした。

匂いがまだ残っている。ユイの匂いが、頭の中に刺さって抜けない。


我慢できない。


茂は片手を目の前の鏡に置いた。

体重が少しだけ掛かる。鏡が、かすかに揺れた。


そのまま、目を閉じた。


右手が勝手に動き出す。


次の瞬間から先は、思い出したくない。

ただ、水の音だけが出しっぱなしで、呼吸だけが荒く残った。


水は止まっていた。

いつ止めたのか、覚えていない。


鏡が曇っている。

曇りの向こうに、自分の顔だけが残っていた。


茂は掌を濡らし、顔を拭った。

冷たい。その冷たさだけが、まともだった。


呼吸が落ち着くほど、嫌悪が上がってくる。


気持ち悪い。


終わったのに、熱が残っている。

消えていない。身体の奥に、まだ余りがある。


……これが、ただの興奮じゃないなら、笑えない。


茂は洗面台の縁を掴んだ。

指に力が入る。入れたつもりより、はっきり強い。


――鳴く。


そう思った瞬間、指先が陶器を擦って小さく音を立てた。

茂は反射的に手を離した。


茂は歯を食いしばった。息を吐く。


匂いが残っている。

ユイの匂い。匂いだけで、また身体が動きそうになる。


ユイはいない。


いないのに、匂いだけがある。

それが一番きつい。


茂は灯りを消した。

暗くなる。暗い方が、まだましだった。







玄関のノブが回った。


「ただいまー」


ユイの声。

茂は居間から、短く返した。


「……おかえり」


ユイは靴を脱ぐ音のまま、洗面所に入った。

すぐに、足が止まる。


「……ここ」


小さく笑う気配がした。

次の瞬間、ユイが換気扇のスイッチを押す。

白い音が回り出す。


「止まんない感じ?」


笑いながら言う。軽い。

軽いのに、逃げ場がない。


茂は喉の奥で息を殺した。

言い訳が浮かぶ前に、認める方が先に出た。


「……ごめん」


「別に、するのはいいよ」


ユイの声は刺さらない。

責めないまま、正面からだけ見ている。


「でもさ、私がいるんだからちゃんと隠したら?」


茂は黙って頷いた。

視線が上がらない。


ユイは洗面台の縁を指でなぞって、《《なにか》》を確認する。

それ以上は言わない。


「あと、それやる元気あるなら」


ユイはもう一度、笑った。


「今日もできるよね」


茂の腹の奥が、熱くなる。


さっきの続きみたいな熱。


ユイは手を洗って、タオルで拭いた。


「スペシャル元気になるの作ろっか」


そう言って洗面所を出て、キッチンへ向かう。


冷蔵庫が開く音。

鍋に水を張る音。


生活の音が続く。


不意にスマホが震えた。通知はメール。


差出人:K市環境回収サービス株式会社

件名:【回収受領】暫定精算見込額のご連絡


対象:大型《300kg級》

駆除報奨金総額:¥230,000(暫定)

(ベース¥180,000+市街地補正¥50,000 ※凍結対象の場合あり)

回収・運搬・衛生処理・行政連携手数料:▲¥60,000(見込)


※本件は市街地補正の整理により、精算額が変動する場合があります。

※必要に応じて貢献判定アジャストが行われます。

※本件の最終成立は、現場照合班の承認後、

 K市特定外来害獣管理システムを通じて別途通知されます。|


茂は頭の中で引き算した。

二十三万。六万。残りは十七万。


そこで、もう一回。


ジェル。残り一本。使えば終わりのやつ。


――一本、五万。


十七万から、五万。残りは十二万。


茂は画面を閉じた。

生活の数字が、血の匂いを押し流していく。


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