第22話 処理だけが進んでいく
息を吸っても、足りなかった。
胸の奥が固い。
肺が膨らまない。
槍を握った手だけが熱くて、他は冷えていた。
倒れている。
止まっている。
でも茂は、構えを解けない。
生きているかもしれない。起き上がってくるかもしれない。そう思うだけで、指が痺れる。
ゆっくり息を吸おうとして、むせた。喉が焼けている。血の匂いがまだ鼻の奥に残っている。
助かった。
そう思った瞬間、遅れて膝が笑った。
笑っているのに、倒れない。倒れたら終わる気がして、脚が固まっている。
身体の芯が、まだ変だ。さっきから、重心だけが落ち着かない。
茂は瞬きを一つして、視線を落とした。
槍の先が――まだ刺さっている。
近いから匂いが濃い。
鉄と泥。肉。吐き気が喉まで上がってくる。
槍の柄に手を掛けた瞬間、怖さが増えた。抜いたらまた動く気がした。
抜かなくても、死んだとは限らない。
茂は一度手を離した。指先が痺れている。汗で滑る。
倒れた腹の下が、不自然に膨れている。皮膚が内側から押されて、皺が寄っている。裂け目の縁が、ぬるく光っていた。
――生き物の中身だ。
茂は喉を鳴らし、もう一度柄を握った。槍を押し込み、反応を確かめる。反応がない。
それでも――抜くのが怖い。
茂は息を殺して、ゆっくり引いた。すっとは抜けない。刃が、肉の中で引っかかっている。引けば、ずるりと音がする。想像だけで胃が縮む。
死体は倒した者の物。
その現実が、槍より重かった。
茂は槍を抜いた。刃先を外へ向けたまま、半歩退いた。
一歩。二歩。それだけで、少し息が入る。
柄の根元――クロスバーのすぐ後ろ。装填室。
チャンバー。
指が震えて、蓋の爪にうまく掛からない。力を入れると音が出そうで怖い。怖いのに、確認しない方がもっと怖い。
茂は爪を押し、蓋をずらした。
使い終わったカートリッジが残っている。
茂はそれを抜いた。軽い。
予備の一本を、指先で確かめる。残りはこれだけだ。
茂は新しいカートリッジをチャンバーに差し込み、押し込んだ。入るのは一本。途中で止まるまで押し、蓋を戻す。
ロックが噛む。カチ、と鳴る。
二本が一本になった。
一本。
その数字だけが妙に軽かった。
茂は槍を握ったまま、死体から数歩だけ離れて周囲を見回した。
それ以上は動けない。背中を見せるのが怖い。
誰もいない。
正確には――いないように見える。
田んぼの向こうに家がある。窓が閉まっている。カーテンの隙間だけが、細く暗い。外に出ていた物が、最初から何もないみたいに片づいている。
遠くで赤灯が回っている。音は届かない。ここを目的地にしている光じゃない。
警察も、自衛隊も、駆除屋《登録とフリー》も。来ない。
茂は槍を握ったまま、もう一度だけ倒れた害獣を見た。
止まっている。動かない。
それでも近づきたくない。死体は安心じゃない。匂いと熱が残る。
茂は周囲を確かめた。誰もいない。来ない。だからここは、自分の現場になる。
死体は、倒した者の物。
言葉は知っている。でも今は、ただの荷物だった。
運べない。一人じゃ無理だ。軽トラがあっても積めない。免許も無い。
放置した瞬間、面倒が増える。この街なら、そうなる。たぶん。
茂は息を吐いた。倒しただけじゃ終わらない。
スマホを取り出す。通知の履歴を開いた。
[害獣警報 K市北西部 中型 目撃]
中型。……本当にか? 目の前の重さと、文字が噛み合わない。
表示の下にある小さな項目――通報。茂はそこを押した。
呼び出し音が短く鳴って、すぐ切り替わる。
『K市害獣警報センターです』
「害獣を一体倒しました。北西部の通報のだと思います」
『お疲れ様です。位置共有できますか』
茂は送信を押した。
『確認しました。負傷者の有無は』
「わかりません。近くに軽トラが乗り捨ててありました」
『分かりました。未登録の方ですか?』
「はい」
『ありがとうございます。現場照合班と回収業者をこちらで手配いたします。』
電話が切れた。
茂はスマホをポケットに戻し、槍を握り直した。
握り直すほどのことでもないのに、指が勝手にそうする。
待て、と言われても待ち方が分からない。座れば背中が寒い。立てば足が震える。
茂は死体から目を離さず、半歩だけ位置を変えた。草の揺れ。畑の端。田んぼの水面。風の音。
何も起きていないのに、頭だけが勝手に起きる。
遠くで車の音がした。近づいて、また遠ざかる。来ない。
赤灯の光が一度だけ強くなり、また薄くなる。回転しているだけだ。こっちは目的地じゃないらしい。
茂は視線を落とした。死体の腹の裂け目が、暗い色に変わっていく。温度が落ちている。
時間が経つほど、やることが面倒になる。
畑の端で待っている間に、空が少しだけ暗くなった。日が動いたのか、自分が止まっているのか分からない。
やっと車の音が近づいてきた。一台じゃない。
先に見えたのは白い二トントラック。荷台の後ろに折り畳まれた小型クレーン。側面に文字。
K市環境回収サービス株式会社。
少し遅れて、赤灯が視界の端で回った。古い白のADバン。フロントに簡易のバンパーガード。擦れて下地が出ている。警察じゃない。制服も違う。
作業服に反射帯。肩のパッチに、センターの略称。
K市害獣警報センター付属の、現場照合班。
車が畦道の手前で止まり、男が二人降りた。
手袋に長靴、ゴーグル。薄い防護ベスト。
片方の腰に、太いバトン型の大型LEDライト。先端のレンズが光を拾って、冷たく光った。
もう片方の腰には、太いスプレー缶。グリップに安全ピン。
回収業者の男が声を掛けた。
「……通報の人?」
茂は頷くだけで槍を下げない。
照合班が先に、草むらの盛り上がりの方へ向かった。茂が立っていた位置からでも、土の色が濃く見える場所だ。濡れた跡が、草の根元に残っている。
照合班の片方が、スプレーに親指を掛けた。噴射口が外を向く。ライトの光が草の奥を舐めるように揺れ、もう片方は半歩、回収車の陰に寄った。弱い光。
次の瞬間、照合班がスイッチを切り替えた。白い光が草を焼くみたいに刺さった。
中年の男。作業着。片方の靴が脱げている。顔が土に半分埋まり、首の角度が変だった。
反射帯の男が、短く息を吐いた。
「……反応なし」
回収業者の男が端末を操作しながら現場を撮る。死体とあの塊。槍痕。草の倒れた方向と軽トラの位置。ドアの角度。全てを証拠に変えていく手つき。
もう一人が軽トラへ向かった。運転席を覗き、キーの位置を見る。荷台は空。血はない。
「車、動かなかったのかもな」
逃げた。逃げたけど、畑へ入った。畑は隠れられない。
照合班が地面を照らす。引きずり跡。土のえぐれ。重い四つ脚の踏み込み。
回収業者が言った。
「……食われてるな」
端末の男が個体の横にしゃがみ、裂け目の縁をライトで追う。槍傷の位置。内部から破った痕。
「これ、サイズ……たぶん大型になるね」
回収業者の男が荷台へ戻り、クレーンのアームを起こした。油圧シリンダーが小さく唸り、鉄がゆっくり動く音が畑に落ちる。
照合班は端末を見たまま、淡々と言った。
「才能さんですか?」
「……はい」
「承知しました。未登録の方ですね」
茂は頷く。
「では、申請は弊社経由で後日、査定確定後の精算になります」
回収の男は言いながら、現場写真を増やした。裂けた傷口。槍痕。引きずり跡。草の倒れ。軽トラ。撮る角度が機械みたいに正確だ。
照合班が草むらの方へ視線を向けて言った。
「人身が絡んでるんで、警察の身元確認と現場保全が入ります。回収はその後になります」
その言い方で分かった。
前回と同じ流れだ。
ここから先は、別の手順になる。
茂は死体を見た。軽トラの持ち主だろう、と頭が勝手に処理する。でも、処理しても何も軽くならない。
回収業者が続ける。
「人的被害がある場合は、書類が増えるんで少し遅れます。申し訳ありません」
謝る声が事務的で、逆に現実だった。
フックが下り、鎖が鳴る。回収対象が吊られ、重さのまま空へ浮く。
茂は槍を握ったまま、それを見ていた。
勝ったのに、勝った感じがしない。
ただ、処理だけが進んでいく。




