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僕と彼女の猟奇的な日常  作者: nnnkkk


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第21話 二歩目が出ない

草が止まったまま、揺れない。


風が吹けば草は揺れる。虫が通っても揺れる。


揺れないのは――そこに、重さがあるからだ。


茂は槍を前に倒し、低く構えた。刃先を草の境目に向ける。自分の呼吸だけが耳の中で鳴る。


手が冷たい。


指が硬い。


心臓が速い。


怖い。


怖いのに、目だけは離せない。


そこに匂いが来た。


動物の匂いじゃない。

もっと生臭い。血と泥が混じった匂い。


鉄の匂い。


草の根元が、黒く濡れている。雨じゃない。土の色が、変わっている。


その横に、薄い布みたいなものが落ちていた。布じゃない。皮だ。小さくて、柔らかい。


人間の皮膚じゃない、と茂は思った。思っただけで、喉が渇く。


ハエが一匹、低く飛んで、すぐ引っ込んだ。


――食ってる。


言葉にすると軽いのに、現実は重い。


土の盛り上がりの向こうで、草が一筋、割れた。


黒い背中。


それが最初に見えた。毛じゃない。短い剛毛。濡れているのか、光が鈍い。


次に出たのは肩。肩というより、盛り上がった塊。筋肉がそのまま外に出ているみたいな形。


中型〜大型。


言葉が頭に浮かぶ。数字が続く。――いくらだ。


茂は喉の奥で息を殺したまま、足を一歩引いた。踏む音を消すために、踵から置かない。爪先で、土を探って置く。


頭が見えた。


犬でも鹿でもない。口が短い。鼻先が潰れている。


猪。


その言葉が一瞬浮かんで、すぐ薄れた。似ているだけだ。


茂の脳がそう判断するより早く、口元が見えた。


濡れている。赤黒い。泥じゃない色だ。


口の端に、脂が光っている。生温い肉を舐めたあとの光り方。


茂の背中が粟立った。


眼が、こちらを向いた。


目が合った。


その瞬間、胃が落ちる。全身の血が足へ逃げる。


鼻がひくついた。匂いを嗅いでいる。


茂の汗と鉄と何か。


――ばれた。


茂は動かなかった。


動けば、追いかける。動かなければ、来ない可能性がある。


可能性。


そんなものを信じられるほど、茂は慣れていない。


前脚が一歩、出た。


草が擦れた。土が沈んだ。


茂の手が勝手に引き金を探した。


でも槍に必要なのは、引き金じゃない。必要なのは――刺す腕だけだ。


違う。


刺す腕より先に、逃げる足が必要だった。


逃げろ。


頭がそう言う。


でも足が動かない。動けば背中を見せる。背中を見せたら終わる。


二歩目が出たところで、茂は息を吐きながら踏み込んだ。


引けなかった。


勇気じゃない。逃げ遅れただけだ。


茂の槍先が草を裂く。


吠えた。


吠え声というより、破裂した空気の塊。


突進が速い。


それより――重い。中型の重さじゃない気がする。力が違う。


茂は横へ跳んだ。


跳んだというより、逃げた。 当たりから外へ、身体が勝手にずれた。


跳びながら、槍が前に出た。


――刺した、と思った。


刃が剛毛を割り、皮を割り、肉に入る感触が腕に返ってくる。骨には当たっていない。


浅い。

浅い――最悪だ。


手応えが無い。


次の瞬間、重い塊が身体ごと捻られた。視界が歪む。

衝突。薙ぎ払う質量。


牙が白く光った。


振り抜かれた軌道が空気を裂き、茂の顔のすぐ横を通過する。

臭い。


腐った肉と血の混ざった匂いが、一瞬で鼻腔の奥まで入り込んだ。


茂の身体が沈む。

地面に片膝。


靴底が滑った。

踏ん張りが効かない。土が湿っている。


立ち上がれ、と頭が命じる。

だが身体は別の答えを返していた。


無理だ。


重さと衝撃で、均衡が戻らない。


それが振り返る。


速い。


迷いのない反転。

怒りではない、次の攻撃動作。


槍は刺さっていない。


刺し損ねた。


表面だけを裂いた感触が遅れて理解される。


切っただけだ。


この質量、この速度。

切断だけで止まる相手じゃない。

――――ジェル。


チャンバーの感触が頭に浮かぶ。今入っている一本。予備一本。


二回ある。


二回しかない。


息が荒い。


肺が熱い。


喉が渇く。


硬い脚が土を掻く。踏み込む前の溜め――次が来る。


茂は槍の柄を握り直した。指が汗で滑る。

滑る感触がはっきりと伝わる。


まずい。


この距離、この速度。

一度でも柄が抜ければ終わる。


滑るのが怖い。


怖い。


理屈じゃない。

身体の奥が拒絶している。


それでも、離せない。

ここで怖いと思っている場合じゃないのに、怖いが先に来る。


茂は片膝のまま構える。


距離はない。


真正面。

巨大な猪のような塊が、一直線にこちらへ突っ込んでくる。


速い。


重い。


無理だ――この体勢では受けきれない。


判断より先に身体が動いた。


茂は転げるように横へ逃れる。


次の瞬間、さっきまで自分がいた空間を質量が通過した。


風圧と衝撃がまとめて身体を叩き、足元の土が爆ぜた。


害獣は減速しない。


そのまま数歩、前へ流れ――踏み込んだ脚が泥を掴んだ。


均衡が崩れる。


重い身体が前へ持っていかれ、巨大な塊が鈍く地面へ叩きつけられた。


倒れた。今しかない。


茂は跳ね起きる。


呼吸も整えないまま間合いを詰め、背後へ雪崩れ込む。視界に入った柔らかい腹へ、そのまま槍を叩き込んだ。


肉が沈む。


抵抗が浅い。


深い――いける。


そして――茂は迷わずトリガを引いた。


音は小さい。

だが次の瞬間、刃先近くのポートからV-Gelが高圧で噴き出した。


体内に何かが入り込む感触が、槍越しに手へ返ってくる。

押し返すはずの抵抗が、腹の奥でいびつに逃げる。


遅れて、腹が変な形になった。

膨らむんじゃない。内側から押し広げられて、腹筋の下で面がずれる。

皮膚だけが引っ張られ、張りが一瞬だけ強くなる。


——そこで、壊れた。


筋が切れる音。血管が破れる圧。

内臓を吊っていた膜が、まとめてほどける感触。

肉が、肉のまま崩れる。


吠えようとして、声にならなかった。

痛みじゃない。身体の中の支えが消える。


次の瞬間、動きが止まった。


起き上がろうとした脚が、力なく滑る。


力が入らない。


腹の奥で崩れた何かが、全身の連動を断ち切っていた。


巨体はすでに地面にある。


それでもなお、支えを探すような痙攣だけが一度走り――消えた。


腹の奥から、湿った破断音が一つだけ遅れて鳴った。


地面が鈍く揺れる。


もう動かない。


抵抗もない。


ただ、さっきまでそこにあった圧倒的な塊だけが、

急激に意味を失って沈黙した。


本日もお読みいただきありがとうございます。


少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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明日も21時に更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします。

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