第20話 怖さより先に、金が出る
茂は人のいる方へは行かなかった。
駅前で十分に見た。
矢が飛んで、怒鳴り声が上がって、誰かが転んで、
それでも害獣は止まらず、血だけが増えていく。
――怖かった。
ビビった。
足が勝手に固くなって、呼吸が浅くなって、
「帰りたい」が何回も頭をよぎった。
いまも、あの時と同じものが腹の底に残っている。
怖さは、消えていない。
茂は強くない。
あの時も強くなかった。今日だって別に強くない。
倒せたのは、たまたまだ。
それでも歩いている。
理由は一つだけだ。
八十万。
手数料。
買取。
五十五万。
数字が、まだ指に張り付いている。
見なくても分かる。忘れられない。
怖さより先に、数字が出てくる。
バイトは週三日。
一回五時間。
時給は千百円くらい。
一回で、五千五百円。
一週間で、一万六千五百円。
一か月働いても、六万ちょっと。
そこから引かれる税金。
理由は書いてある。細かく、正しく。
でも読んでも同じだった。
減る。
国民健康保険。
月、一万二千五百六十円。
先月より千円、高い。
払わないと封筒が来る。
薄い紙で、きっちり追ってくる。
その下に、見慣れない項目が二つ。
[害獣対策臨時負担金 五百円]
[警報センター維持負担金 三百円]
飯。
スマホ。
端末のローンと通信料で、一万四千八百円。
残らない。
六万は、増える金じゃない。
生きてるだけで消える金だ。
――だから、本当は、もっと働きたい。
週三日じゃ足りない。
五時間じゃ足りない。
増やさないと何も変わらない。
でも、増やせない。
枠の問題じゃない。店の都合でもない。
理由は分かっている。
履歴が綺麗じゃない。
どこへ行っても、深いところには入れない。
長い時間は働けない。
信用は、最初から低い。
今のバイトだって、どうにか掴んだだけだ。
離したら終わる。
終わるのに、ここで増えない。
それでも、金は要る。
足りない分は、ユイの方に寄る。
手を伸ばして、抜いて、戻した顔をする。
悪いとは思わない。
罪悪感もない。
でも――情けない。
その情けなさが、じわじわ腹の奥を腐らせる。
「次は自分で取る」と思わせる。
そうやって、また外へ出る。
「まともに稼ぐ」という言葉が、自分には噛み合わない気がしていた。
――金は、怖さを押しのける。
それが嫌だった。
嫌なのに、身体が勝手にそっちへ行く。
茂は歩道から外れ、住宅街の端へ向かった。
人が減る。店が途切れる。
明るい蛍光灯の世界が背中に離れていく。
市街地の外。
人が少ない場所。
怖い場所。
でも――人が少ないなら、余計な痕が残らない。
駅前の混戦みたいに、矢だの石だのが刺さって、
「単独が成立しない」みたいな面倒が起きない。
倒せば、ちゃんと自分のものになる。
そう思った瞬間、怖さが少しだけ薄くなる。
薄くなるだけで、なくならない。
なくならないのに、足が止まらない。
ポケットのスマホが震えた。
茂は反射で周囲を見る。
誰もいない。車も少ない。
それでも一拍遅れてから、スマホを取り出した。
手が、少しだけ汗ばんでいる。
[目撃通知 K市――北西部 中型〜大型]
[警報 K市――北西部 移動中]
[注意喚起 周辺住民は屋内退避]
北西部。近い。
茂は通知を閉じ、画面を落とした。
中型〜大型。
中型なら、勝てるかもしれない。
大型なら……分からない。
分からないのに、数字だけが先に来る。
茂は息を吸って、吐いた。
空気が冷たい。肺が痛い。
ケースの持ち手が、指の骨に食い込む。
痛いくらいの重さがあると、少しだけ落ち着く。
怖いのを誤魔化せる。
茂は市街地を外れる道を選んだ。
住宅がまばらになり、畑が見え始める。
舗装の割れ目から草が伸びて、
風の音だけが広くなる。
静かすぎるのは怖い。
でもその静かさの先に、金は落ちている。
茂は喉を鳴らし、歩く速度を上げた。
北西部――といっても、地図の区画は広い。
「北西」という言葉の中に、住宅街も畑も、工場跡も川も全部入っている。
だから通知は便利じゃない。
便利なのは、通知の後だ。
人の消え方。
茂は歩きながら、それだけを見る。
最初は、まだ人がいる。
通知を見て、足を止めるやつがいる。
無視して歩き続けるやつもいる。
でも、遅いか早いかの違いでしかない。
車が減る。
家の窓が閉まる。
犬の鳴き声が止まる。
出ていた洗濯物が、いつの間にか引っ込む。
誰も何も言わない。
ただ、街が静かになる。
それが一番正確な警報だった。
県道の向こうで、赤灯がひとつだけ回っていた。
遠い。音は届かない。
警察か、登録駆除屋がいる。
でも「北西部」は広い。
あれがどこを探していても、ここに当たるとは限らない。
曲がり角で、青とシルバーツートンのハイラックスサーフとすれ違った。
フロントは市販のバンパーじゃない。
角材みたいに太いパイプと鉄板で組まれた鼻が突き出していて、そこだけ色が違う。
塗装が剥げ、金属が擦れて白く光っていた。
横腹には擦り傷が何本も走っている。
ぶつけて、押して、走ってきた車だと分かった。
目は合わない。合わす余裕がない。
彼らは区画の反対へ流れていく。
茂は、消えた方へ行く。
民家の密度が、ゆっくり途切れていく。
家々の間隔がゆるやかに開き、いつの間にか塀が途切れていた。
音が変わる。
生活音が消えたのではない。
反射が失われ、輪郭だけが薄くなる。
風だけが通る。
何も遮るもののない空間特有の、軽すぎる静けさ。
そこで茂の足が止まった。
………いる。
視界ではない。
音でもない。
空気の歪み。
説明のつかない違和感が皮膚の奥へ沈む。
茂はケースを足元へ置きロックを外す。
収納されていたシャフトが解放され、茂は淀みなくそれを引き抜いた。
分割された質量が手の中で揃う。
接合。
金属同士が噛み合い、短く乾いた音が鳴った。
次にカートリッジへ意識を移す。
V-Gel。
残数だけを確認し、茂は指先で僅かな重量の差を確かめる。
そのまま装填。
淀みなく押し込み、手首を返して固定位置まで回す。
停止。最後に確認。漏れはない。
視線を上げる。
周囲は異様な静けさに沈んでいた。
茂はそのまま数歩進み、畑脇に停められた白い軽トラックを視界に捉える。
ドアは開いたまま、キーも刺さっている。
エンジンはすでに止まり、運転席だけが不自然に空いていた。
――逃げた?
視線を上げたまま、茂の動きが止まる。
軽トラックではない。
さらに先。
約10m。
畑の縁に、背の低い茂みがある。
風は絶えず流れていた。葉も確かに揺れている。
だが、視線は外れなかった。
草の揺れ方と周期、そして微細なズレ。
――何かが噛み合っていない。
形?
音?
違和感だけが、はっきりと浮く。
身体は動かない。
呼吸だけが僅かに浅くなる。
指先に無意識に力が入る。
視線は固定されたまま、焦点だけが静かに絞られていく。
瞬きが消える。
次の瞬間を。
待つ。




