第19話 数字は残る
モニターが暗くなった。
黒い画面はすぐにただの板になり、そこに映っていた規則も、箇条書きも、黄色いハイライトも、最初から存在しなかったみたいに消えた。
……ただ、金だけは違った。
報奨金体系。市街地補正。控除。配分。
読めば読むほど、数字が霧になる。
もう少し掘れば理解できる。
だが今日はやめた。
今の頭でそれをやると余計な感情まで拾う。
茂は椅子を押し戻し、立ち上がる。
布とビニールと合皮が混ざった埃が鼻の奥に残っていた。バックヤードは窓が小さい。昼の時間でも空気が薄暗く、光の色が死んでいる。
横に立てた黒いケースが、視界の端で待っていた。
持ち手に指をかけると、重さが戻ってくる。
それは安心じゃなかった。道具は安心じゃない。ただ重い。重いから、確かだ。
バックヤードのドアを押す。
蝶番がかすれた音を立て、外の音が一気に流れ込んだ。
――レジの音。
硬貨が落ちる高い音。袋が擦れる音。誰かの笑い声。
白い蛍光灯に照らされた店内は、思ったより明るかった。明るいだけで、ここは別の世界に見える。
客が二人。どちらもスマホを片手に持ち、もう片方の手で棚の商品を触っていた。目線が落ち着いている。
慣れたというより、作法になっていた。
「……あ、茂くん」
カウンターの内側から声が飛んだ。パートの中野だった。
制服のエプロンがいつも少し斜めで、直す気がない。
茂は頷くだけで返した。
「もういいの?」
「うん」
それだけ。
中野は何か言いかけて、やめた。
一瞬だけ生まれた言葉が、そのまま消える。
茂はケースを持ち上げない。
この店で目立つ理由は、少ない方がいい。
だから、見せ方を選ぶ。
店のドアに手をかける。
ビルの自動ドアが開いた瞬間、光が刺さった。
昼前の光。
眩しいのに暖かくない。風が冷たく、肌の表面だけが乾く。遠くで道路の騒音が鳴っている。昔よりうるさいのに、人の声が少ない。
街の音が変わっていた。
車が走る音の間に、警報の残響が混じる。遠くのスピーカーが、どこかで鳴って、途切れた。
通知。
見えないゲートが空から落ちる世界で、人間ができるのは遅れて鳴る音を聞くことだけだ。
茂はポケットのスマホを一度だけ触った。画面は見ない。確かめる必要がある時だけ確かめる。
今は――飯。
身体がそう言っていた。
テリヤキバーガーのセット。
コーラ。
茂は受け取ったトレーを片手で持ち、もう片方でレシートを押さえた。
合計、千三百八十円。
ゲートができてから、値段は何度も上がった。
セットは千円を越え、千百《1080円》になり、千二百《1180円》になり、そして今はこの数字だ。
値段だけが、ゆっくり確実に現実を削っていく。
茂はトレーを片手で持ち、店内を一度だけ見回してから窓際の席に座った。
正午前の店は中途半端に混んでいる。家族連れはいない。制服の学生が二人。作業着の男が一人。女が一人でスマホを見ている。みんな座り方が似ていた。荷物を足元に置き、出口が見える角度を取る。
習慣じゃない。作法だ。
茂は包装をめくり、バーガーを取り出した。
甘いタレの匂いが先に来る。肉の匂いというより、砂糖と醤油の匂いだ。食欲を刺激する匂い。だが食欲という言葉は、茂の中ではもう薄い。
必要だから食う。
身体が熱を求めている。胃が空腹を訴える前に、筋肉がカロリーを要求する。
茂は一口で大きく噛んだ。
パンが潰れ、肉が歯に引っかかる。レタスの水分が微かに冷たい。咀嚼して飲み込むまでが短い。味は分かる。だが、味を楽しむという回路が働いていない。
次の一口。
口の中の甘さが増える。タレが舌に残る。そこでやっと旨いに近いものが浮かびかけ、すぐに消えた。
余計なものだった。
茂はコーラの蓋を外し、ストローを差して一息に吸った。
炭酸が喉の奥を刺す。冷たい。胃が一瞬だけ落ち着く。脳が糖を受け取って、雑音が減る。
茂は、咀嚼を止めないまま視線だけを上げた。
壁のテレビには、ニュースが流れていた。音は小さい。画面の隅に、テロップが出ている。
[害獣警報 K市南部 中型 目撃]
茂は目を細くした。
店の誰もテレビを見ない。
警報はもう、ニュースじゃなかった。
窓の外を走る車の中で、運転手が一瞬だけスマホを見る。青信号の間に、指が動く。視線はまた前に戻る。止まらない。止まっても意味がないからだ。
茂はバーガーを食い切った。
紙包みを丸め、トレーの端に寄せる。
ポテトの塩は濃い。指先が油で光る。茂はそれを拭かない。気にしない。口に運ぶ速度が落ちない。
――勝つには、肉がいる。
勝つには、血がいる。
勝つには、熱がいる。
塩と油で満たされた胃が落ち着いていくのに、身体の奥はまだ静まらなかった。芯のところが、落ち着く場所を知らないみたいにざわつく。
苛立ちとも違う。
ただ、余っている。
茂はコーラをもう一口吸い、紙コップを置いた。
コーラの氷が、紙コップの中で小さく鳴った。
茂はストローを指で弾いた。
落ち着かないのは身体のせいだった。
飯を食っても、静まらない。満腹と鎮静が繋がっていない。
昨日までは繋がっていた。
だが昨日の駅前で、身体の中の何かが一段、上にずれた。
――食っても足りない。
それだけの話だ。
茂はポテトを二本、口に放り込み、咀嚼しながらスマホを取り出した。
画面は点けない。
点ければ、数字が出てくる。
数字を見なくても、もう頭に張り付いている。
八十万。
最大合計。特大型。市街地補正込み。
そこから先。
手数料。
買取。
配分。
茂の取り分は、五十五万。
前後じゃない。ほぼそれだ。
業者の取り分は既に確定している。精算の仕組みは、数字の形で茂の脳に残った。
――フリーは、売る。
国へ申請する資格がない。
だから「自分の死体」を、回収業者へ売って現金にする。
その時点で勝負は半分終わる。
死体は自分の物なのに、金の入口は他人の手の中にある。
茂は笑わなかった。
悔しいとも思わなかった。
仕組みは仕組みだ。
悪意じゃない。便利だからそうなっているだけだ。
登録者なら国が回収費用を払う。
未登録なら払わない。
それだけ。
茂はポテトの最後の一本を噛み潰し、飲み込んだ。
そして、配分。
――単独は成立しない。
駅前は混戦だった。
矢が刺さっていた。
石が跳ねていた。
ガラスが割れていた。
誰のものか分からない痕跡が、死体の表面に残っている。
アジャスターが言う「現物痕に基づき査定する」という文章は、現場だともっと露骨に働く。
痕が残っている限り、寄与はゼロにできない。
数%。
何%かは知らない誰かに行く。
その「知らない誰か」は、駅前で震えていた素人かもしれないし、登録の連中かもしれない。
茂はそこに怒りを使わなかった。
怒りは、意味がない。
配分を奪われたんじゃない。
最初から、配分という形で制度が組まれている。
勝つことは、倒すことじゃない。
勝つことは、倒して、死体を取って、
書類と割合と手数料を通して――
現金になることだ。
茂は紙コップを握り、残っていたコーラを最後まで吸った。
甘さが舌に残る。
喉が冷えて、肺が少しだけ広がる。
その瞬間だけ、身体の奥のざわつきが引いた。
茂は紙コップをトレーに置き、指先の油を紙ナプキンで拭いた。
汚れが取れる。
だが何も綺麗になった気がしない。
窓の外では、車が流れていた。
この街は壊れている。
でも止まっていない。
止まっていない限り、勝てる。
トレーを返却口に滑らせると、プラスチックが擦れて軽い音がした。
店員の「ありがとうございました」は、機械みたいに一定の高さだった。
ここではそれでいい。
茂は店を出た。
風が顔を撫で、さっきまでの甘い匂いが一気に剥がれる。
空が明るい。日差しがある。なのに、安心に繋がらない。
明るさは、ただ見えるだけだ。
歩道には人がいる。多くはない。
それでも皆、歩く速度が同じだった。
早すぎず、遅すぎず。止まらない。
止まるとそこに理由が必要になる。
茂はポケットのスマホを点けた。
通知が溜まっている。
[目撃通知 K市南部 中型]
[注意喚起 通学路迂回]
[警報 K市南部 中型 追跡中]
茂は画面を閉じた。
南部。
ここからは距離がある。
今この瞬間、自分の導線に重なっていない。
なら、関係ない。
茂は歩き出した。
ケースの持ち手が、指の関節に当たる。
重さは確かだ。
その確かさだけが、街の中で浮かない。
交差点の向こうで、サイレンが一回だけ鳴った。
救急か、警察か。
区別はできる。だが区別する意味はない。
来るか来ないか。
間に合うか間に合わないか。
この街の基準は、もうそこに落ちている。
茂は歩道を渡りながら、バイト先のバックヤードで読んだ文章を思い出した。
登録=最初は裁量、途中から命令
フリー=最初から自由、最初から無保証
無保証。
その言葉は冷たい。
でも、冷たいのは悪くない。
熱いものは群れて、判断を鈍らせる。
昨日の駅前みたいに。
茂は呼吸を整え、歩く速度を少しだけ上げた。
午後にやることは、決まっている。
制度を読むのは――今日はここまでにした。
飽きたわけじゃない。
続きは後でやる。
飯も食った。
あとは――勝つための準備だ。
茂はケースの位置を持ち直し、前を見た。
街は明るいけど、安全ではない。
喉の奥が、少しだけ乾いた。
茂は息を整え、視線を落とさずに歩き出した。




