第15話 実務
外の音が戻ってきていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の静けさをゆっくり剥がしていく。
茂は一度目を開け、すぐ閉じた。
身体が重い。
筋肉の奥が熱を引きずっている。
疲労じゃない。昨日の余熱が、まだ皮膚の内側に残っている。
布団の隣は冷えていた。
ユイの体温がない。
枕が少しへこんだままで、そこだけが彼女が今朝ここにいた証拠だった。
――もういない。
台所の方から生活音がしない。
玄関の靴も一つ減っている。いつもみたいに「行ってきます」も「起きろっ」も残っていない。
茂は二度寝した。
意識が沈むのは速かった。
考えると胃がひっくり返る。
駅前の匂い、破裂音、獣の体温。
それらを思い出さないために、脳が勝手に遮断を選んだ。
どれくらい寝たのか分からない。
――ビッ。
スマホが短く震えて、現実が戻ってくる。
机の上で黒い画面が一瞬だけ光った。
茂はしばらく動けなかった。
起き上がる理由がない。でも、理由がないままでも、身体は通知の方へ引き寄せられる。
昨日の自分がそうしたのと同じだ。欲しいから動く。
腕を伸ばす。スマホを掴む。
ロックを解除する指が、少しだけ鈍い。
差出人。
【K市特定外来害獣管理システム:自動配信メール】
件名:【査定確定】駆除事後承認および精算金額の通知(案件:19-KSC-0842)
本メールは、K市委託アジャスターによる現場査定および検体回収に基づき自動送信されています。
■ 対象検体情報
案件番号:19-KSC-0842(特大型《400kg級》)
最終ステータス:暫定成立/回収受領済
■ 報奨金算定
基本報奨金:¥300,000
地域危険度加重(市街地):¥500,000
報奨金総額:¥800,000
■ 貢献度評価《アジャスト判定》
判定スコア:85%(決定打認定)
減算理由:第三者寄与(先行クロスボウ飛翔体残留、および表皮損傷を確認)
適用総額:¥680,000(¥800,000 × 0.85)
※本割合はAI同期による寄与算定を基に査定担当が確定したものです
■諸費用差引
回収・運搬・衛生処理・行政連携手数料:▲¥136,435
(特大型ユニック作業/衛生処理/破棄証明発行/照合データ連携費を含む)
※本案件は複数関与・未登録案件のため、回収・処理費用(控除)は未登録の関与者に按分されます。
【精算対象額】¥543,565
振込予定
通常精算《週次バッチ》
毎週水曜 23:59 締め
翌週金曜に一括振込(金融機関営業日)
[早期振込サービス]
※本サービスは、査定確定(暫定成立額または最終額確定)から24時間経過後に申請可能
※申請後、条件を満たす場合は即時(当日)振込
※市街地補正の凍結・混戦等がある案件は、条件により可否/手数料率が変動します
※振込先:「精算ID(個人照合番号)」照合済み口座
※本案件は市街地補正が凍結対象のため、最終成立後に差額精算が行われます(追加支払または相殺)
※本査定(貢献割合%)に異議がある場合は、査定確定表示から72時間以内に再査定を申請してください。(別途事務手数料)。
K市環境回収サービス株式会社(査定管理部)
K市特定外来害獣対策局・公認アジャスターネットワーク
脳が遅れて理解して、その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
全部じゃない。だが――主役だ。
矢が刺さっていようが関係ない。
獣を壊したのは昨日の自分の槍だ。自分の手首が押し込んだ刃先だ。
呼吸が一度深くなる。
五十五万。
紙じゃない。数字。
昨日の血の匂いが、電子文字に固定されている。
――これは揉める。
そういう仕組みだった。
けれどその揉める場所に自分の名前が載っている。
それが、妙に現実だった。
茂はスマホを握ったまま、ゆっくり布団から起き上がった。
視線が、壁に立てたケースへ向く。
黒いキャリングケース、その留め具と補強、そしてあの異様な硬さ。
昨日の駅前が、きれいな過去になったわけじゃない。
ただシステムが途中まで終わらせた。金額として処理した。未完のまま、番号だけ出した。
茂はスマホを見下ろし、通知欄を戻す。
口座の登録完了メールは、昨夜の日付のまま下の方に流れていた。手続きは済んでいる。だから今は返信の必要すらない。
何も打たなくていい。
それなのに、指先はしばらく画面の上で止まった。
茂はスマホを放り、ベッドの端に座った。
部屋が静かになる。静かなのに、胸の内側だけが妙に立っている。
茂は自分の掌を見た。
昨日、槍を握っていた指。
震えていない。
代わりに、何かが一段固くなっている。
――これが、仕事になる。
そう思った瞬間、胃の奥が少しだけ冷えた。
怖いのに、怖さが現実感を失っていく。
茂はスマホを伏せた。
五十五万。
数字は軽い。けれど軽いのは表示だけで、その下にはいくらでも揉める余地がある。昨日の現場と同じだ。踏み外す場所が見えない。
未登録。
登録駆除従事者。
昨日、駅前にいた連中は、少なくとも仕組みの内側にいた。
茂は寝転んで天井を見た。
今まで避けてきた。だから、興味もなかった。
登録も未登録も、ただの言葉だった。
けれど昨日、それが初めて現実になった。
調べたい。確認したい。
何をどうすれば、どこまで合法で、どこまで守られて、どこまで縛られるのか。
スマホでも読める。
でもこういうのは、画面が小さいと頭に入らない。規約と制度は、文字の多さで殴ってくる。
家にパソコンはない。
――バイト先。
あそこならバックヤードに古いパソコンがある。伝票と在庫表を開くためのやつ。茂が長く使っても文句は言われない。
茂は布団から起き上がり、服を探した。
昨日の余熱がまだ残っている。眠気じゃない。身体が昨日を引きずっている。
顔を洗う。水が冷たい。
鏡の中の目だけが、妙に冴えていた。
身支度はすぐ終わる。
財布。スマホ。メモ帳。ペン。
玄関へ向かって、ふと足が止まった。
部屋はまだ薄暗い。
キッチンの換気扇が止まっていて、空気が動かない。
洗い物も、湯呑みも、昨夜のまま。
テーブルの上に、白いメモ用紙が一枚。
その横に、一万円札。
封筒にも入っていない。
ただ置いてある。
字はユイだった。雑ではない。小さくて、早い字。
『今日は17時まで。
お昼はこれで食べて。』
それだけ。
余計な言葉はない。けれど必要な情報は全部ある。
茂は一万円札を手に取り、財布に入れた。
紙の感触が指に残った。
昨夜の場面が戻る。
風呂上がりの髪がまだ濡れていた。
ユイがケースを見て、言った。
「これ、なに?」
声は軽かった。
興味というより、部屋にある異物の確認。冷蔵庫の中身を見るみたいな温度。
茂は迷わず言った。
「道具」
ユイは「ふーん」とだけ返し、それ以上は聞かなかった。
ただ、ケースの留め具に指を触れて、硬さを確かめるみたいに軽く押した。
「開けられんの、それ?」
茂が答える前に、ユイはもう興味を失っていた。
茂はメモをポケットに入れた。
薄い紙なのに妙に重い。
視線が部屋の奥へ滑る。
壁に立てた黒いキャリングケース。
茂はそれを持ち上げた。
重さが手に馴染んでいる。昨日の現場の重さが、そのまま物体になった感じ。
玄関を出る。鍵を閉める。
廊下の空気が冷たく、身体の内側の余熱とぶつかった。
階段を降りながら考える。
登録したら、何が変わる。
変わらないなら、いらない。
変わるなら――使う。
アパートの外に出る。
朝の光は相変わらず優しくない。
薄い刃みたいな光が、茂の足元と、黒いケースを切っていた。
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