第1章 第1話「屈辱の夜会」
きらめくシャンデリアの光が、王宮の広間に満ちていた。大理石の床は磨き上げられ、足を踏み入れるたびに微かな音が反響する。壁を飾る豪奢なタペストリーには、建国の英雄たちの姿が躍動し、天井画には神々が祝福を与えるかのように描かれていた。夜会に集う人々は、その誰もが最高級の衣装を身につけ、グラスを傾け、優雅な会話を交わしている。彼らの言葉の端々には、貴族社会特有の洗練と、そして底知れない優越感が滲んでいた。
侯爵令嬢リリアーナ・フォン・アーデルハイドは、その中心にいた。正確には、中心に「置かれていた」。婚約者であるレオナルド王子の隣に立つ彼女は、深紅のドレスを完璧に着こなし、その姿勢は、まるで一点の曇りもない彫像のように真っ直ぐだった。漆黒の髪は丁寧に結い上げられ、白い肌に映える真珠の首飾りは、彼女の気品をさらに際立たせていた。誰もが羨むような、絵に描いたような光景。しかし、リリアーナの心は、凍える冬の湖のように静まり返っていた。
彼女は知っていた。この夜会が、自身にとって最後の王宮の舞台となることを。
レオナルド王子は、リリアーナの隣で、時折視線をこちらに投げるものの、その瞳には熱がなかった。彼の視線は、広間の入り口付近で、人々に囲まれ、はにかむように微笑む一人の女性に注がれていた。子爵令嬢セシリア・グリフィン。貧乏貴族の出でありながら、「聖女の奇跡」と称される力を持つと噂される、新進気鋭の存在。彼女が王都に現れてからの数ヶ月、レオナルド王子のリリアーナに対する態度は、日ごとに冷え込んでいったのだ。
リリアーナは、これまでの人生において、完璧であろうと努めてきた。アーデルハイド侯爵家という名門の長女として、王子の婚約者として、彼女は常に品行方正であることを求められた。感情を表に出さず、冷静に物事を判断し、常に合理的な選択をする。それが、彼女が「冷酷な氷の令嬢」と呼ばれる所以だった。しかし、それは彼女自身の選択でもあった。感情に流されて失敗する姿を、誰にも見せたくなかった。完璧な自分でなければ、周囲は自分を認めない。そう信じて生きてきたのだ。
今夜もまた、リリアーナは完璧な仮面を被っていた。しかし、その仮面の下では、心臓が激しく脈打っていた。冷たい汗が背中を伝う。この夜会で何が起こるか、リリアーナは既に薄々感づいていた。
やがて、広間のざわめきが静まった。レオナルド王子が、壇上へと進み出たのだ。リリアーナもまた、隣を促されるように、彼の横に立った。スポットライトを浴びるかのように、二人の姿が浮かび上がる。
「皆様、本日はようこそお越しくださいました!」
レオナルドの声は、普段よりも数段、高揚しているように聞こえた。人々の期待に満ちた視線が、彼に注がれる。リリアーナは、息を詰めた。来る。その瞬間が、すぐそこまで迫っている。
「本日、皆様にご報告したいことがあります。それは、我が国の未来を左右する、極めて重要な発表です」
レオナルドは、まるで芝居がかったように間を取った。そして、その視線をリリアーナに向けた。リリアーナの表情は、変わらなかった。
「リリアーナ・フォン・アーデルハイド! 私は貴様との婚約を破棄する!」
その言葉が、雷鳴のように広間に響き渡った。人々の間に、一瞬の静寂が訪れる。そして、すぐにざわめきが起こった。驚愕、困惑、そして、どこか期待に満ちた囁き声。
リリアーナは、その場で凍りついた。膝が震え、全身の血が引いていくのを感じた。公衆の面前で、これほどの屈辱を味わうとは。想像はしていたものの、実際に突きつけられると、あまりの残酷さに息ができなかった。
レオナルドは、リリアーナの反応など気にせず、セシリアの方へと手を差し伸べた。
「貴様の冷酷で高慢な行いは、もはや看過できない! 貴様のような悪役令嬢が、この国の王妃となるなど、断じてありえない!」
「悪役令嬢」という言葉が、鋭い刃となってリリアーナの心臓を抉った。彼女は、王妃としての務めを果たすため、レオナルドの意向を尊重し、時には彼のために不人気な決断も厭わなかった。それが、いつの間にか「高慢」と評されるようになったのだ。
レオナルドは、セシリアの手を取り、彼女を壇上へと招き入れた。セシリアは、はにかむように微笑みながら、レオナルドの隣に立った。彼女の姿は、まるで絵画から抜け出してきた聖女のようだった。
「新たな聖女であるセシリアこそ、この国の未来を照らす真の光! 私は彼女と婚約し、共にこの国を導くことを誓う!」
レオナルドの言葉に、広間は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。人々は、新しい聖女の誕生を祝い、希望の光を灯すかのように、熱狂的な眼差しをセシリアに送った。彼らの視線は、かつてリリアーナに向けられていた称賛のそれとは、全く違うものだった。それは、純粋な憧れと、絶対的な信頼が入り混じったものだった。
リリアーナは、その場に立ち尽くしていた。まるで、自分だけが透明な存在になってしまったかのように。周囲の喧騒が、遠く、ぼやけて聞こえる。視界が揺れ、足元がぐらつく。
「リリアーナ様」
その時、静かな声が耳元で響いた。周囲の騒がしさとは対照的に、その声はまるで澄んだ泉のようだった。リリアーナは、はっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、公爵家次男、アルフォンス・ベルンハルトだった。彼は、夜会服を完璧に着こなし、その無表情な顔には、普段通りの冷徹さが漂っていた。しかし、その瞳の奥には、わずかながらも気遣いの色が宿っているように見えた。アルフォンスは、社交界でも浮いた存在だった。常に冷静で、感情を表に出さず、滅多に人前で笑うこともない。彼もまた、「氷の公爵」と影で呼ばれていた。
「……アルフォンス様」
リリアーナは、絞り出すような声で答えた。
アルフォンスは、周囲の視線など気にする様子もなく、リリアーナに一歩近づいた。そして、まるで当然のことのように、そっと手を差し出した。
「ご気分は? 少々、人混みが過ぎます。この場を離れましょう」
その手は、リリアーナの凍りついた心に、微かな温かさをもたらした。彼だけが、この状況で、リリアーナに手を差し伸べてくれた。他人は、みな好奇の目でリリアーナを見つめ、あるいは勝利者のセシリアを賞賛するばかりだった。
リリアーナは、無意識のうちに、その手を取った。アルフォンスの手は、意外にも大きくて温かかった。彼は、リリアーナの手を優しく包み込むと、彼女を広間の隅へとエスコートした。彼の背中は、広間の喧騒からリリアーナを守るかのように、頼もしく見えた。
広間の出口に近づくにつれて、リリアーナの耳には、心ない囁き声が届き始めた。
「見て、リリアーナ様よ。やっぱり悪役令嬢ね」
「自業自得だわ。聖女様とは比べ物にならない」
「これで、王子の目は覚めたのね」
そうした言葉が、鉛の玉のようにリリアーナの胸にのしかかった。しかし、アルフォンスは、まるでそれらの声が聞こえていないかのように、ただ静かにリリアーナを導いた。
王宮の庭園に出ると、冷たい夜の空気が頬を撫でた。リリアーナは、大きく息を吸い込んだ。胸の奥に溜まっていた、重苦しい感情が、少しだけ軽くなった気がした。
「ご迷惑をおかけしましたわ、アルフォンス様」
リリアーナは、そう言うのが精一杯だった。
アルフォンスは、リリアーナからそっと手を離し、静かに答えた。
「いえ。むしろ、騒がしい場所から離れる良い口実になりました」
彼の言葉には、何の感情も含まれていないように聞こえたが、リリアーナには、それが彼なりの気遣いであると分かった。
「……もう、私に用はありませんわね」
リリアーナは、自嘲気味に呟いた。婚約は破棄され、公衆の面前で晒し者にされた。これ以上、この場に留まる意味はない。
「ええ。ですが、貴女様はまだアーデルハイド侯爵家の令嬢です。どうぞ、ご無理なさらないでください」
アルフォンスの言葉は、まるでリリアーナが倒れ込むのを防ぐかのように、彼女の心を支えた。リリアーナは、彼の言葉にわずかに救われた気がした。
その後、リリアーナは使用人に呼ばれ、王宮を後にした。アルフォンスは、リリアーナが馬車に乗り込むまで、静かに見送っていた。その無表情な顔の奥に、どのような感情を抱いているのか、リリアーナには知る由もなかった。
侯爵家の屋敷に戻ったリリアーナは、自室に直行した。メイドたちが、慌てて後を追ってきたが、リリアーナは「一人にしてください」と冷たく言い放ち、扉を閉ざした。
広々とした自室は、いつもと変わらない。しかし、リリアーナの心は、まるで嵐が過ぎ去った後の荒野のように荒廃していた。ドレスを脱ぎ捨て、鏡の前に立つ。そこには、いつもの完璧な自分は映っていなかった。疲弊し、虚ろな目をした女が、そこに立っていた。
「悪役令嬢……」
リリアーナは、鏡に映る自分に向かって、その言葉を呟いた。その言葉は、まるで毒のように、彼女の心に染み渡っていく。
幼い頃から、リリアーナは期待に応えようと努力してきた。優秀な家庭教師の教えを完璧にこなし、マナーを誰よりも早く習得した。社交界では、常に模範的な振る舞いを心がけた。感情的になることなど、決して許されなかった。なぜなら、アーデルハイド家は、この国を支える名門中の名門だからだ。その重責を果たすため、リリアーナは、自らの感情を押し殺し、冷徹な仮面を被り続けてきた。
しかし、その努力は、今夜、全て否定された。
王子の婚約者という地位も、アーデルハイド侯爵家の名も、今となっては重荷でしかない。むしろ、それらが「悪役令嬢」というレッテルを貼られる原因となったのだ。
窓の外は、すでに深く暗い闇に包まれていた。月明かりだけが、微かに部屋を照らしている。リリアーナは、窓辺に立ち、夜空を見上げた。
「もう……完璧なリリアーナ・フォン・アーデルハイドを演じる必要はないのね……」
その言葉は、自嘲ではなく、どこか安堵に満ちていた。これまで、彼女を縛り付けていた鎖が、今、解き放たれたような感覚。重圧からの解放。
絶望の淵で、リリアーナは、ふと、漠然とした自由を感じた。これまでの人生は、他者の期待に応えるためのものだった。しかし、これからは違う。誰のためでもなく、自分のために生きる。
その瞬間、リリアーナの心に、小さな火が灯った。それは、まだ弱々しい光だったが、彼女の内に秘められた、知的好奇心と探究心という、これまで蓋をされてきた欲求を呼び覚ます兆しだった。
書庫にこもり、埃をかぶった古文書を読み漁る。これまで、侯爵令嬢としての務めを優先し、封印してきた趣味。しかし、今、彼女には十分な時間がある。この自由を、どう使うか。リリアーナの瞳に、新たな輝きが宿り始めた。