第二章:八徳の探索 4.「智」──松岡田ゆり菜の場合
放課後の美術室は、斜陽が入り込む角度によって、まるで絵画の中にいるような幻想的な空間になっていた。
絵の具の香り、キャンバスのざらついた手触り、薄く音楽が漏れ聞こえる静かなラジカセ──
その中で松岡田ゆり菜は、ひとりキャンバスに筆を走らせていた。
筆先が迷いなく滑るたびに、白地に形が現れる。
だが、色は乗っていなかった。
彼女は、色をつけることができずにいた。
(“智”──知を持って、導けって……)
自分に与えられた徳の意味は、調べるまでもなく、彼女の胸にすとんと落ちていた。
知恵。理解。判断力。そして、伝える力。
ゆり菜は、これまでずっと「伝える」ことに誠実でありたいと願って生きてきた。
誰かの感情や状況を、言葉や絵で正確に、誤解なく伝えたい。相手の心に、まっすぐ届くように。だからこそ、複雑なものを複雑なまま、誠実に描いてきた。
でも──それが正しかったのかは、分からなくなっていた。
“夢”の中の姫。
あの沈黙に沈む世界の中で、彼女は何度も声を上げようとした。でも、何も伝わらなかった。叫んでも、名を呼んでも、姫はただ横たわるばかりだった。
(どうして……届かないの?)
今の自分に足りないものは何か。
彼女は「知恵」そのものよりも、「伝え方」に迷っていた。
そのとき、美術室の扉が音を立てて開いた。
「ゆり菜、また描いてたんだ。……ちょっと、いい?」
声をかけたのは橋詰可那子だった。
彼女は少しだけ緊張したような笑みを浮かべて近づき、完成しかけた絵に目をやる。
「……夢の中の、姫?」
「うん」と、ゆり菜は頷いた。
その答えが返ってくることに、もはや驚きはなかった。可那子も、夢の世界を見ていることは知っていたからだ。
「私、思ったの。……この人、助けを求めてるんじゃなくて、“理解”を求めてるんじゃないかって」
ゆり菜はその言葉に、はっと顔を上げた。
その瞬間、胸の奥に何かが広がる。
「……わかってもらえないまま、誰にも伝えられないって、すごく、孤独だよね。私も、昔そうだった」
可那子の声には、自身の過去を滲ませるような痛みがあった。
ゆり菜は何も言わず、その言葉を噛みしめた。
(“智”って、知識を持つことじゃない。相手を、理解するために使うもの……)
──伝えるって、優しさと同じなんだ。
ゆり菜は、白いキャンバスの前に戻り、迷いなく筆を走らせた。
姫の周囲に、ようやく色が加わっていく。青、緑、そして柔らかな白。
それは、沈黙の奥にある「声なき叫び」を、静かに伝える絵になろうとしていた。
──つづく