第二章:八徳の探索 3.「礼」──飯島朋春の場合
放課後の図書室は、まるで時が止まったような静寂に包まれていた。
夕陽が窓から差し込み、書架に整然と並ぶ本の背を橙に染めている。その奥、最も人気のない古典文学の棚の前に、飯島朋春はひとり座っていた。目の前に開かれているのは『論語』の現代語訳。だが、彼の目は文字を追いながらも、心は別のところにあった。
(……“礼”って、何なんだろう)
彼に与えられた徳。それが「礼」だった。
その言葉を聞いた瞬間、彼は内心で少しだけ救われたような気がした。
──礼を重んじる。相手への敬意を、形にすること。
──秩序を尊び、己を律すること。
それは、彼が長年心がけてきた“静寂の中での在り方”と、重なるものがあった。
賑やかな場所を好まず、必要な時以外は言葉を発しない。無理に人と関わることもなく、自分の内面を静かに見つめる時間を何よりも大切にしてきた。
それは決して傲慢ではなく──むしろ、他者を侵さない礼節の形だった。
(でも、あれは……“逃げ”でもあった)
朋春は思い出していた。
──昨日の夢。
いつものように夢の中に現れた姫の傍に、彼は座っていた。手を伸ばすこともなく、声をかけることもせず、ただその姿を見ていた。
それは、礼なのか? ただの傍観ではなかったのか?
──何もしないことが、正しいことだとは限らない。
ページをめくる手が止まる。
そのページには、こう記されていた。
「礼は人の道を開く。形にあらわれてこそ、真の思いは伝わる」
思わず、眉を寄せた。
(……行動に、しなきゃいけないのか)
朋春は、何かを変える必要があると理解していた。
思いを持っているだけでは足りない。それを、行動に移す。言葉にする。姿勢に示す。そうしなければ、誰にも届かないのだ。
カタン──
静寂を破って、隣の席から本を落とす音がした。
視線を向けると、石原田輝江がしゃがみ込んで本を拾っていた。図書室の常連であり、誰よりも静かに存在している人。彼女とは何度も顔を合わせていたが、まともに言葉を交わしたことはなかった。
彼女の手元に本が戻る瞬間、朋春は自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「……大丈夫?」
輝江はびくりと肩を揺らし、彼を見た。驚いたような瞳。だが、それはすぐに柔らかくほぐれて、頷き返された。
「……うん、ありがとう」
たった一言のやりとり。
でも、それだけで心がじんわりと温かくなるのを、朋春は確かに感じていた。
(“礼”って……こういうことかもしれない)
形として、相手に向けて行動を起こすこと。
静寂の中にいる者同士だからこそ、言葉は重く、意味を持つ。
自分の中に生まれた小さな変化。それは、決して劇的ではなかった。
けれど──確かに前に、進んでいる。
──つづく