第二章:八徳の探索 2.「義」──沢村聡美の場合
昼休み、教室のざわめきが一瞬、遠くなったように感じた。
沢村聡美は弁当のふたを開けたまま、箸を握る手を止めていた。隣の席では友人の千晴が楽しげにスマホを見せてくれているが、彼女の視線は焦点を結んでいなかった。
「……聡美? 聞いてる?」
「あっ、ごめん。なに?」
「……なんか、最近ぼーっとしてない? 寝不足?」
笑うように言う千晴の声には、微かな心配がにじんでいた。聡美は反射的に首を振った。
「ちょっと考えごと。……大丈夫、ありがと」
笑って見せたものの、胸の奥には言葉にならない緊張が張り付いていた。
(“義”……か)
聡美に与えられた徳は、「義」だった。
正しさを貫く心。他者のために、己を犠牲にしてでも信念を通す意志。
調べれば調べるほど、その言葉が彼女に重くのしかかってくる。
──私は、正しいことなんて、貫けるの?
これまでの自分を思い返す。
彼女は決して強い性格ではなかった。むしろ、流されやすい。周囲の空気に合わせて、場の調和を取ることを優先してきた。誰かに強く言い返したことなど一度もなかったし、自分の意見を押し通すことも稀だった。
──なのに、「義」?
その言葉を与えられた瞬間、自分にふさわしくないと感じた。
でも、夢の中の姫の苦悶の表情が忘れられなかった。
昨日の夢では、彼女の胸に赤黒いひび割れが走っていた。
まるで何かに蝕まれるように、姫は少しずつ壊れている。
(私が……何かを変えなきゃ。正しいって、信じたことを)
そのときだった。
教室の前のドアが開いて、男子が数人、声を上げながら入ってきた。
そのうちの一人が、後輩と思われる小柄な男子のリュックを無理やり奪って笑っている。
「おいおい、こんなもん持ってきてんのかよー! 中、見せてみろよ!」
「や、やめてください……返して……!」
教室の空気が凍った。誰もが笑いを止めて、状況を静観する姿勢に変わる。
傍観。曖昧な空気の中、笑いが消えていく。
──その瞬間、聡美の胸の内で何かがはじけた。
「返しなさいッ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
教室が、一瞬にして静まり返る。視線が彼女に集中する。だが、その中で立ち上がる自分の足は震えていた。
「……それは彼の物。勝手に触るのは、ただのいじめ。やめて」
男子たちの笑顔が引きつったように消えた。
リュックを持っていた生徒が、苦笑いしながら言う。
「……なんだよ、マジかよ。冗談だってー」
「冗談でも、相手が嫌がってるなら、それはダメだよ」
声は震えていた。でも、それでも彼女は視線を外さなかった。
男子はバツが悪そうにリュックを手渡し、教室の後方へと戻っていった。
後輩の男子は、目を丸くして、深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「ううん……」
座ると、膝が笑っていた。手も震えている。
でも、心の奥に微かな灯が灯っていた。
(これが……“義”なの?)
心のどこかが、確かに変わり始めていた。
胸の中に、まだうまく掴めないけれど確かな“何か”が芽吹いていた。
──つづく