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第二章:八徳の探索 1.「仁」──西原創の場合

 朝の空気は冷たく、透明だった。

 始業前の校門の前、登校する生徒たちの靴音がアスファルトの上にリズムを刻んでいく。その中で、西原創は、校舎を見上げながら静かに立ち止まっていた。

 ──仁。

 それが彼に割り当てられた徳だった。

 “他者を思いやる心”、それが「仁」の意味だとネットや古書の記述にはあった。

 他者と関わる中で慈しみを持ち、互いを活かす。その言葉の響きは、まるで正義そのもののように美しく、誠実に聞こえる。

 だが──創の胸には、どうしても拭いきれない重たさがあった。

(他人を思いやる? そんな簡単なことなのか?)

 それは、言葉にすれば容易かった。

 でも、自分はこれまで、誰かを“真に思いやった”ことがあっただろうか。

 誰かのために涙を流し、怒り、何かを捧げたことが。──本当に。

 いつも、どこか一線を引いていた。

 誰かと組むこともあったが、本当の意味で“頼る”ことはしなかった。

 「他人は他人、自分は自分」。それは自己防衛でもあり、同時に、彼の弱さの裏返しでもあった。

 ──それでも、やるしかない。

 創はそう自分に言い聞かせ、校舎へと足を進めた。

 教室に入ると、周囲の空気が変わったことにすぐ気づく。

 沢村聡美が数人の女子と話していたが、彼が入ってくるのを見ると、一瞬声が止まった。視線が集まり、そしてまた逸れていく。

 (“夢のこと”を話したことで、全員の間に見えない距離が生まれている)──そう、創はすぐに感じ取った。

「……おはよう」

 聡美にだけ、小さく声をかけた。

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。

「うん、おはよう。……眠れた?」

「いや、また同じだった。姫の……右腕に、今度はひびが入ってた」

 聡美の表情が曇った。

 会話はそれ以上続かなかった。周囲の空気を気にしてのことでもあり、単純にその話題が重すぎたせいでもあった。

 創は席に座り、ノートを開く。

(“仁”を実践するって、何から始めるべきなんだ)

 “思いやる”とは、どういうことだ?

 助けること? 寄り添うこと? それとも、ただ見守ることか?

 自問が頭の中で堂々巡りを始めた時だった──

「……おい、西原。消しゴム、落としたぞ」

 その声に振り向くと、庄司紳太郎が無造作に足元の消しゴムを拾って差し出していた。

 「あ、ありがと」

「別に。落ちてたから」

 その一言に、創の胸がざわついた。

 何気ない行為。だが、そこにこそ“仁”があったのかもしれない。

 相手に恩を売るわけでも、見返りを求めるわけでもなく。ただ、そこにある善意。

(俺も……できるのか?)

 その問いが、創の背筋をわずかに伸ばした。

──つづく


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